《本多家 桑名築城時の石垣遺構》

 

桑名ネタの続きは

明治期に「日本一の山林王」と言われた大富豪 諸戸氏 本邸(主屋)前から。

黒い漆喰の塗り込みが渋い本邸や その奥の御殿などが 国の重文オンパレードですんごい。

で、そんな贅沢なロケーションから桑名城の惣構(そうがまえ)遺構を辿ってGo!

奥にある諸戸氏庭園は 拙ブログに何度も登場しとるんで今回はスキップのご無礼。

実はレンガで化粧されとる護岸の一部が桑名城下町をぐるりと囲む 惣構(敵の侵入を防ぐ為の防衛ライン)の北西角にあたるのかな。

玉重橋から北向いて諸戸氏庭園方面をカシャ。

上の写真は 下図(北が左)の赤い矢印部

水を湛えた堀は途中でなくなるものの

寺町通り入口 左には 石垣の堀跡がチラリ...

少し南下すれば..復元の堀らしき溝が延々と...

写真撮っていたら、近所のおばちゃんが来て

「惣構堀はもっと幅広かったげなに~...今のは水溜まったらドブ臭いし迷惑しとるんやわ~っ...よ~知らんけど14億円も税金つこて~...植えられたツゲを誰も手入れせ~へんし、草むしりが大変やし..抜かれたヤツもあるんやわ~」のオヨヨ。

ビッグモーターの除草剤散布事件が...脳裏にふわり。

復元の難しさを少し考えながら

途中で旧 東海道に入り 城に向かってトコトコ。

で、ユネスコ無形文化遺産に登録されとる桑名石取り祭りの会館へ寄り道。

43輛も集まりドンドンカンカン日本一やかましい祭りらしい。

超暑い8月初旬の夜中の祭りなんで ジジイは見に行ったコト無し。

東海地方は山車祭りの宝庫だし...冥途の土産に観とかなね~。

旧東海道は道路舗装の色がベージュなんで それに従って歩けば歴史を語る公園へ。

中堀なのか外堀なのか...よ~分からんけど

係船まるけやん。

皆さん 棒を堀底に立てて繋いどるように見えるけどホントかな~?

潮の干満で色が変わっとる部分より下が 本多家が築城した当時の石垣。

同時代に豊臣恩顧の大名が組んだ先進石垣より 徳川家臣の本多家が組んだ石垣は 野面積みに使われとる石の面が平らでない点から 古臭い技術と判るげな。

銅鳥居は 出雲大社や日光東照宮など 格式の高い社にあるのみで 松平越中守家は威信をかけて...ここ春日神社に。

桑名は昔から鋳物の町でしたからね。

いつも通り参拝して

安永餅も好きやけど...ガキの頃から大好物のとらや饅頭を土産に買い

中橋を渡って三之丸跡へ。

築城時には 井伊家や蜂須賀家からも助っ人が来たらしい。

でも どこの刻印石かは不明とな。

二之丸跡から南を見れば ばあさまが撒いたパンくずにカモメとハトとは

やっぱ海城の証。

内堀を渡り 本丸へ。

天守閣が1701年の大火で焼失して以降は 

辰巳櫓がシンボル的な存在になったとか。

その櫓は 赤丸印です。

変なモノが置かれてましたけど。

天守台跡地には ただ梅が咲くのみ。

戊辰戦争で幕府側に着いた桑名藩は廃城令に従って徹底的に城を壊して新政府に恭順を示すしかなかったんやろね~。

いつもながら 七里の渡し跡で 往時を偲び

三代目広重作

東海名所改正道中記 波戸場の図 桑名 宮迄海上七里 と見比べる。

この浮世絵を参考にして復元されたという蟠龍(ばんりゅう)櫓...

と言っても水門総合管理所やけどね。

往時の桑名城には95棟の櫓があり その数日本一クラスやったらしいけれど

今は復元された この櫓だけとは寂しい限り。

初代桑名藩主 本多忠勝像も 心なしか複雑な表情に見えるやん。

大阪夏の陣の後に大阪城から脱出させられた千姫が ここから船で渡る際、忠勝の孫 忠刻(ただとき)がその舵取りをしたげな。

そんな縁なのか

家康の孫(信康と五徳の子)熊姫(ゆうひめ)が忠刻の実母であった為か

これまた家康の孫の千姫(秀忠と江の子)が忠刻と1616年に再婚したとはすげ~。

さしずめ家康・信長・忠勝・浅井長政のゲノムカクテルペアやん。

千姫は大河ドラマ化候補の一つらしいけど、姫路と共に桑名も舞台になって欲しいね~。

帰りしな 呼ばれた感じがして...ぶらぶら本廟がある浄土寺へも。

勇猛で名を馳せた武将の墓にお参り...

ゲノムの戦略...色々考えさせられましたねえ。

今回は名古屋出身で 広島大学名誉教授の三浦正幸センセの Youtubeで予習して歩いたので 桑名の史跡巡りもより楽しいモノに。

以前 丸毛兼利の福束城に関する講演会で 三浦センセは深田(どぼどぼの田んぼ)の防衛力を力説されてましたけど、この桑名の惣構の外側も同じやったとは...

エエ勉強させてもらいましたよ...ハイ。

本丸跡に咲く枝垂れ梅の写真で 桑名ネタは完としましょ。