国土地理院がWebで公開している2万5千分の1の地形図は 

当ブログでもお世話になりっぱなし。

で、今回のは岐阜県安八郡輪之内町福束(ふくづか)集落あたりの陰影起伏図。

前回のブログネタ 鮒味噌文化圏にあります。

一昨日の日曜に輪之内町で開催された第3回 丸毛(まるも)サミットで講演されたのが三浦正幸広島大学名誉教授(大河ドラマの建築考証ご担当)。

そんなセンセ(先生のコトを当地方ではセンセと言う)が これを活用して福束城跡の所在地を推定されとったもんで...。

 

現代の陰影起伏図と明治期の低湿地地図とを照合して福束城跡の大凡の位置を推定され、講演会資料として配布されました。(手書き文字はセンセの自筆)

こういうアプローチは説得力アリアリで、ジジイの心はワクワク。

膝までズブズブ埋まる田んぼは深田、くるぶし辺りまでなら浅田と定義され いかに役立つかの説明で フムフム。

堀と同じ防衛力があるとは...今更ながら...なるほど!

 

田舟で田植えに行った時代を知っとる輪中の民としては よ~分かるY。

起伏図からもわかる通り福束城跡は自然堤防上に築かれた平城。

で、四囲は 深田・浅田・揖斐川で守られた 防衛に強い城とな。

水攻めで落ちた備中高松城や 忍城(おしじょう)と比較して... 

講演会のサブタイトルは~備中高松城を越えた不落の平城~やと。

結局 城主 丸毛兼利は勇猛果敢過ぎて 籠城ではなく城の外に出て戦をしたのが敗因やったのでは...と。

関ケ原合戦の前哨戦 南美濃の戦いの初戦として1600年8月16‐17日に落ちたのが西軍の福束城。

ここで勝っとれば...本戦の勝敗が変わったのかも....と、凄い「たられば」を力説。 

こういう妄想は マジ楽しいね~。

 

《イベント会場 輪之内町文化会館》

入口の武将隊からは

「こんにちは じゃ~」

「検温と消毒 お願い致しまする~」

近隣の町からは グッズ販売

「ニッポン城めぐり」のブースは大行列で...輪投げなんぞも。

関ケ原武将隊のお一人

「大谷刑部吉継なるぞ~」の声が甲高かったな~。

主催の輪之内町グッグがいろいろで

丸毛戦記(福束城主・丸毛兼利奮戦記)のマンガ本は 読んだコトあるけれど その改訂版を1冊買って

作者の渡辺浩行センセに兼利の顔を描いてもらいサインも。

...イケメン過ぎやろ!

ホールには続々と人が...中には見知った顔が そこかしこ。

関ケ原武将隊による演武でオープニング

緞帳上がって...センセの入場。

翌日は 三浦センセの資料を片手に 現場検証に向かったジジイ。

写真撮った場所と方向をセンセの資料に加えてみました。

曲輪の南端あたりの福満寺さん

堀跡を偲ばせるクリーク

曲輪と曲輪を仕切る堀跡が道に

浄光寺さんの裏

右端の水路が曲がる辺りが 曲輪のくびれで

その向こうに大手門があったのでは??と。

起伏図からも 曲輪を仕切る堀を推定できそうな辻。

輪之内町に対し 明治の地籍図から堀跡を検証してみてね~と 宿題を出されて...な~るほど。

センセは城郭推定復元図まで描かれて ご愛敬にも 天守があるとすれば この辺りかなあ....だって。

 

攻める兵力と籠城する兵力の差を 防衛すべき周長と狭間間隔(5尺)から割り出し検証して...云々。

知的好奇心ツンツンで、ためになったなあ。

おおきにね~...です。

三年半前に書いた拙ブログもつけておきます。

ご興味があればどうぞ。