約30年前に書かれたこの本を読んで、思ったこと、考えたことを書いておきたいと思います。



まず初めに、今の僕がどのような視点を持って日常を過ごしているかを説明しておきます。



政治家の女性差別発言をきっかけとしてジェンダーギャップについていろいろと調べ、社会の中に隠されていた男女差別に気づきました。その多くは男尊女卑に基づくもので、男性が優位な立場にいます。それを改善するために色々な仕組みや制度を変え、男女平等の社会を築いていこうという流れが、かつてないほど大きな力となって動き出していると感じるようになりました。



そこでは、多様性(ダイバーシティー)という言葉がキーワードとして多く見られます。本来は、一人一人をあるがまま尊重しようという意味なのですが、どうやらそれがそう単純な話ではないようなのです。



一人一人をあるがまま認めるということは、どのような考えも認めるということで、多様性を認めない、差別があってもいい、という考えも認めることにもなります。また、あるがままを認め合うということは、自他の自由を尊重することで、社会全体としては自由競争を推奨する能力主義になっていく可能性が高まります。能力によって結果は変わります。男女平等な社会とは、個人を尊重する個人主義の社会のことでしょうか。



ここで、平等と公平という言葉の違いに注目します。いろいろな捉え方がありますが、ざっくりとした定義としては、平等は、すべての人が同じ扱いを受けること。公平は、すべての人が同じ扱いを受けられるよう個人の違いを踏まえた配慮がなされること。



性別の違いによって扱いが変わることのない平等な社会は、男女の身体的違いを考慮しない社会になる可能性が出てきます。例えば、大学入試と同様にスポーツ競技も男女別にしないという発想です。しかしこれを望む人がほとんどいないことを踏まえると、男女平等ではなく、男女公平を目指すべき、目指しているのだと思うのです。



そして、結果と機会、どちらかだけを同じにしようとしていないか、という視点も重要です。オリンピックは平等を意識している祭典でありますから、全ての人に同じ機会が与えられています。性別だけに関わらず、障害者であっても、それぞれの身体的特性を考慮した集団分けがされ、その中で競い合います。そこで一位になれば同様に金メダルという結果が授与されます。小学校の運動会で徒競走をやめたり、みんなで手を繋ぎ一緒にゴールするという事例があると聞きました。その判断は、平等を意識するあまり結果の違いを恐れています。それは個人の機会を奪うことであり、ひいては個人を否定することになっていきます。平等は、神や法の名の下に存在するもので、一方的だったり、多少の暴力性をはらみがちです。やはり、性別の違いなど個人の特性を考慮する公平さが大切です。



そこで必要となってくるのが、性別によってどのような違いがあるかを知ることです。身体的違いを知り、現状の社会において性差によってどのような違いや影響が出ているか、不平等が存在するかどうかを知らなければなりません。そしてそれらを改善し公平な社会にしていくための社会制度、合理的配慮を作り出していくのです。



さてここで、僕の本分であるセックスのことを考えていきます。まず、男女平等や男女公平がセックスにおいてあり得るのか、必要なのかという疑問です。



現状、ほとんどのセックスが、男性主導の男性優位なセックスです。セックスでは、不平等が存在しています。



男女平等の考えは、性別によって扱いを変えないことです。でもセックスは異性愛だろうが同性愛だろうが、性差ありきの行為です。どれだけ素晴らしい外見だったり、人格が優れていたり、能力が高かったり、美しい心を持っていたとしても、性の対象として見れる性別でなければセックスすることはできません(厳密には可能なこともありますが、望んでされるものではありません)。極端な言い方をすれば、セックスには、性差を楽しむという一面があります。



では、男女平等の社会と、性差ありきのセックスは矛盾するものでしょうか。行為のスタートが性別にあるセックスで必要となってくるのは、性差をなくす男女平等の視点ではなく、個人の対等性、対称性です。セックスは、相手を選択したり、相手から選択される“選択”ありきの行為です。性別で選択し、それぞれが持つ個人的特性によって相手を選択していきます。その後、二者間だけの私的な世界になるわけですが、そこで、双方に優劣がない対等性や、お互いが釣り合っている対称性に気をつける必要があります。



「個人的なことは政治的である」というフェミニズムのスローガンに則れば、男性優位のセックスは、男性優位の社会とセットです。平等や公平という視点が持ち込みにくいセックスにおいては、対等性、対称性を考えていくことが、今の世の中の流れと合致するのではないかと考えられます。



このようなことを考えながら読み進めた『ぼくらのSEX』には、セックスの本質が散りばめられていました。社会性と個人的経験をどう分解するかを教えてくれるこの本は、本質的性教育の教科書であると感じました。



では、内容に触れつつ、セックスの本質を捉え、さらにその先にあるセックスの深淵をのぞいて行こうと思います。



※『ぼくらのSEX』を読み込んでいく上で、補助的視点として以下の本が役立ちました。

①『発情装置 新版』上野千鶴子

②『さよなら、男社会』尹雄大(ゆう・うんで)

③『女性差別はどう作られてきたか』中村敏子



(つづく)