今回視聴したのは、1948年の「酔いどれ天使」で、DVDにて拝見しました。
監督は黒澤明、主演は志村喬、三船敏郎
これは戦後間もない頃の時代をバックに、ドヤ外に開業した主人公の医者が、底辺に住む人たちとの交流を通して、口は悪いが差別することなく診療を続ける姿を描いた作品です。
そうなのです、区別はするけど差別はしない、患者に寄り添うと同時に貧困にも対峙する医者の姿が映し出されます。
そしてその医院の前にどぶ池があり、住民がそこにゴミを普通に捨てるもんだから、悪臭を放ち公害を発生させかけている状態になっており、実はこれが人間社会が抱える闇や問題を象徴しており、また医者に関わる人や街のみなが問題を抱えており、っていうかこの医者も酒でも飲まなきゃやってられね~よといった感じで、酒を飲みながら診察するといったスタイルで診療を日々続けています。
そんなある日、ケガをしたヤクザが飛び込みで診察に訪れます。
口悪く診察をしていると、そこでこのヤクザモンが別の症状を持っていることに気が付き、治療を進めますが、この当時のヤクザモンは怖いものなどこの世にはないといった考え方で、だから病気も怖くないと訳の分からんことを云い張り治療を拒否します。
しかしこの医者は、口の減らないヤクザモンが、昔の尖がっていた自分に似ていることに気が付き、なんやかや再度治療を進め、それに対し段々体に異変を感じていたヤクザモンも恥ずかしながらも、かまってくれる医者に会いに行き、お互い悪口の言い合いをする関係になっていきます。
謎の信頼関係が段々と出来上がっていき、ヤクザモンもとうとう吐血した自分を一生懸命に治療してくれる医者に義理を感じ始めます。
ってな感じで、酔っ払い医者とはみ出し者の奇妙な関係を主軸に描きますが、他の人たちの問題点も浮き彫りにし、人間って何なんだってな事柄を描いています。
ペキンパー監督の「戦争のはらわた」が、戦時下の兵士たちの様々さを描いていましたが、こんな感じで受け継がれていくのだと思います。
この時代、生活用品はまだまだ配給制で成り立っており、その為闇市が立ち、そこに人が集まり、人が集まるとヤクザが仕切るようになり、住民はヤクザに従うようになります。
従うようになると、今度は住民のなかに奴隷根性のようなもんが芽生え、ヤクザは勘違いして封建主義な態度をとるようになります。
そうなってくると、人が人を利用し共依存関係が生まれます。
こういった生き様を描いたのが昭和歌謡であり、また人の持つエネルギーを歌ったのがブギであります。
この映画では、ヤクザがギターで奏でる曲を人殺しの歌としており、どぶ池にどっぷりハマったのが人殺しであり、まだそこまではまっていない若いヤクザを、そこから抜け出せると思い医者は救おうとします。
病気になる前の元気な時はブギの勢いで、街の住民もへいこらしていましたが、病状が進み元気がなくなり落ち目になると町の住民も態度を変えていきます。
そんな落ち目になった姿に、自分のうだつの上がらなさを重ねて同情してくれる飲み屋の女の子もおり、また同様に過去の自分に重ねて治療をしてくれる医者、そしてそれと対極に義理人情どころか結局は金目当てなヤクザの親分に対しヤクザモンがどういった行動に出るのか。
その結果に対し、残された人たちはどうしたのか。
こんなドツボ展開に対して監督は希望の光を最後に提示してくれます。
それは第1次世界大戦、第2次世界大戦戦争と立て続けに体験した人類に対し、戦争をしないようにするには教育しかないといった「戦争論」を思い起こさせるラストでありました。
この作品は、自らの認知の歪みに運よく気が付いたものの、結局は対応できずにドツボにはまる人間に対し、認知の歪みを直せるものは理性であると言っています。
理性=教育であるといったこの言葉に対し、全てがこれで解決できるわけではない、しかしこれしかないといった戒めが強烈に心に焼き付く作風となっています。
この作品、簡単に言うと、会話のテンポを楽しむ娯楽性を持ったヒューマニズム(善や真理の根拠を、神でなく理性的な人間の中に見出す)な作品なのでした。
こんな感じです。
・猫のユーリさんの動画
・猫ユーリ博士の動画