今回視聴したのは、1962年の「切腹」で、BDにて拝見しました。
60年以上前の映画で、当時の特報では「侍の世界を鋭く追及する異色時代劇」と説明してありました。
「切腹」をネット検索したら、「刀で自分の腹を切る自殺または死刑の方法。 平安時代以後、勇気や真心を示す自殺の方法として武士の間で一般化し、室町時代には武士に対する刑罰としても行われるようになった。」ということです。
次に「武士」をネット検索したら、「 昔、武芸をおさめ、軍事にたずさわった身分の者。 中世・近世には支配階級となった。または侍ともいう。」
侍という言葉は武士と同義語のようで、今回の題名の切腹は、刑罰での方ではなく、勇気や真心を示す自殺の方法としての方です。
ですが人は時としてそれを間違えてしまうことがあり、人が人を裁くという、何の権利があってそのようなことをするのか、人のエゴを描いています。
そういった意味でも、むやみやたらに「侍ジャパン」とか、よく意味も考えずにつけるのは良くないなとも感じました。
この辺は相手がどういった状況かをよく理解せずに、自分の思った解釈を押し付けてしまうという、ある意味認知の歪みが過去の人も現代の人も共通してあるという事であり、どんなに情報社会になっても発生するものなのだと思うところがあります。
話の方は、寛永7年(江戸時代)井伊家に浪人の津雲半四郎(仲代達矢)が現れ、切腹したいので玄関先をかしてほしいと申し出るところから話が始まります。
実は以前にも同様なことがあり、井伊家の家老の斎藤勘解由(三国連太郎)は、その時かなり嫌な思いをしていたために困り、思いとどまればと、以前同様に訪ねてきた千々岩求女(石浜朗)の話をし始めます。
その話の内容とは、千々岩求女に対し、そんなに切腹したいのならどうぞという事で、本当に切腹してもらいましたという事で、しかもめっちゃ痛がっていたと話し、これなら思いとどまるだろうと思ったら、その話を聞いてもまだ切腹すると津雲半四郎は言い張ります。
まあ、しょうがないので今回もじゃあどうぞとばかりにお白洲を貸し出しましたが、津雲半四郎は介錯を井伊家の3傑である沢潟彦九郎(丹波哲郎)、矢崎隼人(中谷一郎)、川辺右馬介(青木義朗)で所望します。
すると、三人とも病欠であり、そんなことがあるのか?と家老は狼狽します。
実は半四郎はこのことを知って屋敷に乗り込んでおり、ここまででも家老と半四郎の奇妙なやり取りであったものが、ここからはさらにおかしな話のやり取りとなっていきます。
はっきり言ってどう決着をつけるのか観ていて全く先が読めず、とても興味をそそられながら二人のやり取りを観ていくことになります。
実はお白洲のシーンになった時点の早い段階で、津雲半四郎は井伊家の面々に対し「明日は我が身」という言葉を発します。
観ていて、なぜ? となるのですが、ここからが謎解きが始まり、しかもものすごい伏線でありました。
この映画、「武士の面目などと申すものは、単にその上辺だけを飾るもの」といったところを切り口に、いろんな対比が描かれます。
通常の武士の上辺で言えば、武士は食わねど高楊枝辺りであろうが、これらは人情あってのもの。
時として、合戦で身につけてこそ意味のある甲冑を部屋に飾りありがたがるという上辺、実践で鍛えた腕と道場剣法の違いなど、上っ面というものなのか、謎に上から目線で人情を無視した人間のエゴに対し、それら対比したものが相克(対立するものが互いに相手に勝とうと争うこと)する武士道の悲劇を描いており、そんな悲劇があっても何事もなかったの如く締めるしかないという、武士の面目など表面だけという、非常に怖い終わり方をします。
また、終わってから気が付いたのですが、推理要素も含んでおり、まるで「名探偵コナン」のごとく謎を解いていき、誘導尋問を仕掛け、「あれれ、おっかし~な~」的な謎解きは見事でした。
時代劇を長年観てきましたが、まさかこういった内容の作品が、実は私の生まれる以前に作られていたとはと、かなりの衝撃となりました。
また、仲代達矢や三国連太郎の押し殺した、しかも間を重視したセリフ回し、そこにハメたカット割りは、今の演劇界でも映画界でも再現不能ではないかという程の秀逸さで、それがあの武家屋敷にドハマりしてとにかくヤバかったです。
というわけで今回のMVPですが、あまりの衝撃内容に、この作品の全てという訳で、作品自体がMVPという事にいたします。
ものすごい内容でした。
・猫のユーリさんの動画
・猫ユーリ博士の動画