生起次第の背景思想
「生起次第」の基本は、自分を仏としてイメージする「成就法(我生起)」と呼ばれる観想法です。
仏だけではなく、それを曼荼羅に拡張します。
また、仏として「死」と「死後」、「受胎」の輪廻を観想して、「仏の三身」の獲得を疑似体験します。
これを「三身修道」と呼びます。
「生起次第」では、自分自身が仏となって、仏として世界を見て、生きて、死に、再生することを観想します。
瞑想修行を行う時間だけではなく、常時、これを維持することに努めます。
単に、姿形をイメージするだけではなく、本質において、仏になりきろうとすることが重要です。
自分を煩悩と切り離れた清浄な存在、目標としての仏の姿であると心に刻むことで、すみやかに煩悩をなくそうとします。
大乗顕教でも仏の感想を行いますが、顕教では、自分の外なる存在としての仏から智慧をもらおうとする点が異なります。
密教では、世界は仏の現われであると考えられています。
これがどのような意味で言われているのかを理解することが、「生起次第」の背景となっている思想を理解することにつながります。
密教では、根源的な意識の母体(空)から、元型的・象徴的イメージ(種子や象徴物・諸尊像など)を通して、形の定まった言葉やイメージで構成される日常の認識世界が生まれると考えます。
根源的な意識の母体は、イメージも言葉もない、無分別、無相、主客のなし状態です。
元型的・象徴的イメージは、動的・創造的で、「意味の種」の状態であり、外界を写したイメージではなく内的に生み出される存在です。
仏などの尊格や種子(梵字1字で現されるマントラ)は、煩悩がない清浄な表れです。
それは、自我や日常的な様々な執着に無関係な象徴的イメージです。
密教は、意識の階層を、概念もイメージも存在しない根源にまで戻ることで、すべてに実体性のないことを直観的に理解します。
現実の無常を認識しなくても、日常的な認識は概念やイメージで行うので、それらの成り立ちを理解すれば、すべての存在に実体性がないという認識につながるのです。
また、日常と無関係な、各種の尊格の動的な象徴的なイメージを体験することで、煩悩が浄化されます。
そして、日常的な認識世界を、尊格の清浄なイメージと結び付けることで、それを浄化し、動的にします。
概念やイメージが固定的で二元的だからこそ煩悩が生まれるのですが、それらが清浄な尊格と結びついた動的にものになれば、煩悩はなくなり、かつ、創造的になるのです。
「生起次第」は、具体的には、下記のように行われます。
・本尊ヨガ(我生起)と随滅
「本尊ヨガ」では、自分自身を仏の姿として観想するだけではなく、「慢」と呼ばれる仏の意識・プライドも保持することが必要です。
観想された仏などの姿はイメージであって、それは「空」であるという認識が必要であり、また、観想を通して空性を理解することが必要です。
そのため、観想は、イメージのない「虚空(光明)」から現わし、最後は「虚空(光明)」に溶け入れます。
胸の「光明」への融解の観想法は「随滅(アヌベーダ)」と呼びます。
この「虚空」の時、一切のイメージや概念をなしにした無念無想の状態でいます。
また、観想をしている時も、それが「空」であることを認識している必要があります。
大乗の後得智と同じです。
この状態を「深明不二」と呼びます。
・五現等覚
「虚空」から仏の姿を現す時、いきなり仏身を観想するのではなく、いくつかの段階を経ます。
例えば、「月輪」→「日輪」→「種字(仏を象徴する梵字)」→「三昧耶(金剛杵などの象徴)」→(拡大・収束)→「仏身」です。
これを「五現等覚」と呼びます。
このプロセスは「真実摂経」に説かれた仏になるプロセスである「五相成身観」と関係付けられ、その後、人間の胎児が成長するプロセスとも重ね合わせされました。
虚空から光や音、そして、象徴的な直観を経て、形あるイメージになる、といった具合です。
「五現等覚」などで我生起する場合、眼前に観想してそれに一体化したり、胸に観想して自身に一体化するなどの方法があります。
また、「無上ヨガ・タントラ」の後期には、父からの「白い心滴」と、母からの「赤い心滴」、意識、意識を運ぶプラーナの4者が母胎で一体一体になり、「不滅のティクレ」が生まれて受胎することを象徴して、「母音の鬘が乗った白い月輪」、「子音の鬘が乗った赤い日輪」、「白いフーム字」、「黒いヒ字」が一体化して「ハム字」になり、そこから仏身が現れると観想する場合もあります。
・三(重)薩埵
一体化する仏身は、最初は意識的にイメージを形作ります。
もちろん、種子マントラから生成します。
この意識的に形成したイメージは「三昧耶薩埵(サンマヤ・サットヴァ、象徴存在)」と呼びます。
アビダルマの「遍作相」と同じです。
真実の仏の象徴という意味ですが、あくまでも象徴なので、この後、象徴を越える必要があります。
「三昧耶薩埵」の胸にさらに仏を観想して、そこに「智恵薩埵(ジュニャーナ・サットヴァ)」を招きます。
これは、無相の空の知恵としての仏、つまり、法身です。
すると「三昧耶薩埵」は、意識せずに現れるイメージになり、自然に動き、意識的に描いた姿とは異なることもあります。
深層意識から現れる、創造的想像力による内的、原型的イメージになるのです。
イメージが純粋化されていますが、固定したイメージを保持しない点でアビダルマの「取相」とは異なります。
さらに、「智恵薩埵」の胸にフーム字を観想して、それを「三摩地薩埵(サマディ・サットヴァ)」にします。
「三摩地薩埵」は、おそらく、「三昧耶薩埵」と「智恵薩埵」が統一され一体化した存在です。
無相と有相が統一されるので、音や光の次元も一体化されているでしょう。
後期アビダルマでは、イメージの純粋化の果てである「似相」を光として体験しますが、これに似て非なるものでしょう。
そして、最終的に自身を「三摩地薩埵」に一体化します。
このように三段階で、仏のイメージを仏そのものに近づけていきます。
この観想法を「三重薩埵」と呼びます。
・父母仏
「無上ヨガ・タントラ」の場合、本尊は「父母仏」として表現されます。
これは、教義上は「智恵」と「方便」の一体性と表現されますが、妃には「智恵」以外にも「エネルギー(ヒンドゥー・タントラの「シャクティ」に対応)」という側面も秘めています。
母タントラの場合、「父母仏」の回りにダーキニーなどの女尊が取り囲みますが、これらの女尊も「エネルギー」を象徴します。
ですから、自身を本尊として観想する場合、仏母も観想します。
・曼荼羅
また、真理は本尊(父母仏)だけではなく、曼荼羅として表現されますので、生起次第の観想も、本尊の我生起から、自身を中心としたマンダラ全体へと拡張します。
曼荼羅は体系化された、清浄な元型的イメージの表現です。
マクロコスモス(外的世界)とミクロコスモス(内的世界=心身)の両方の根源的な力の全体が、束縛されずに創造的に現われた場合の姿です。
まず、曼荼羅の構造物(楼閣など)を観想した後、数々の尊格を生み出します。
尊格の出現は、「父母仏」が、生殖によって生み出す形になります。
具体的には、例えば、「心滴」が頭頂から自分の中に入り、男根を経て妃の子宮に移動し、そこで個々の尊格になります。
それを男根で吸い上げて自身の中に入れ戻して、胸から外に出し、曼荼羅の所定の位置につけます。
さらに、身体上で対応する場所に付置して、「身曼荼羅」とします。
・三身修道
「身マンダラ」までの観想の中で、死・中有・生を浄化して、仏身の三身(法身・報身・変化身)を観想するのが「三身修道」です。
これは、仏として輪廻を体験するものです。
本行の前の準備として本尊を現わした後、一旦、尊格を光明に融解して法身になるのが「死」の浄化です。
次に、「五現等覚」で報身としての尊格を現すのが「中有」の浄化です。
最後に、本尊の性ヨガを通して自身を変化身として現わし、身体に付置された諸尊を観想するのが「受胎」の浄化です。
輪廻のプロセス「死→中有(死後生)→再生→…」では、意識の階層の上昇・下降を経験します。
つまり、「死」は根源的意識に戻るプロセスであり、「中有」は根源から魂の身体を生成するプロセスであり、「再生・成長」は根源を経由して肉体を生成するプロセスです。
「死」のプロセスでは、一旦、意識が根源的な母体(空)に戻ります。
死に至る最後のプロセスは、体験的には視覚的な、4段階の光明の体験(「顕明」→「顕明増輝」→「顕明近得」→「(喩えの)光明」)となります。
これの4段階は、「象徴」→「月輪」→「日輪」→「空」とも対応します。
「生起次第」は、自分を仏として観想し、輪廻のプロセスを体験することで、それを浄化して、「仏の三身」の獲得を疑似体験するものです。
これは、「究竟次第」の観想による準備でもあります。
・自利円満と他利円満
多くの場合、「生起次第」は、「自利円満」と「他利円満」の2つの観想からなります。
「自利円満」は、上記したような「本尊ヨガ」です。
「他利円満」は、仏が他者を救済する観想です。
「自利円満」で現した本尊を「因」の本尊、「他利円満」で現した本尊を「果」の本尊と表現して区別することもあります。
「自利円満」は仏と曼荼羅を「虚空」へ融解する「随滅」で終わりますが、「他利円満」は再度、4人の仏母が仏を勧請することに始まります。
本尊の出現、諸尊の出生が行われ、諸尊が世間に出て利他行を行います。
・微細ヨガ、斂観・広観、金剛念誦
曼荼羅観想の応用編として、「微細ヨガ」、「斂観・広観」があります。
鼻先や男根の先などに、心滴や三昧耶、仏身やマンダラを観想するのが「微細ヨガ」、それを拡大して空間に遍満させ、再度一点に戻すのが「広観・斂観」です。
そして、「文字鬘(梵字の列)」を明妃との間で循環させるのが「金剛念誦」です。
これは言葉による利他の象徴として位置付けられています。
* ニンマ派が伝承するアヌ・ヨガでは、観想は、順を追って形を作ることをせず、その本質を重視し、一挙に行います。
仏だけではなく、それを曼荼羅に拡張します。
また、仏として「死」と「死後」、「受胎」の輪廻を観想して、「仏の三身」の獲得を疑似体験します。
これを「三身修道」と呼びます。
「生起次第」では、自分自身が仏となって、仏として世界を見て、生きて、死に、再生することを観想します。
瞑想修行を行う時間だけではなく、常時、これを維持することに努めます。
単に、姿形をイメージするだけではなく、本質において、仏になりきろうとすることが重要です。
自分を煩悩と切り離れた清浄な存在、目標としての仏の姿であると心に刻むことで、すみやかに煩悩をなくそうとします。
大乗顕教でも仏の感想を行いますが、顕教では、自分の外なる存在としての仏から智慧をもらおうとする点が異なります。
密教では、世界は仏の現われであると考えられています。
これがどのような意味で言われているのかを理解することが、「生起次第」の背景となっている思想を理解することにつながります。
密教では、根源的な意識の母体(空)から、元型的・象徴的イメージ(種子や象徴物・諸尊像など)を通して、形の定まった言葉やイメージで構成される日常の認識世界が生まれると考えます。
根源的な意識の母体は、イメージも言葉もない、無分別、無相、主客のなし状態です。
元型的・象徴的イメージは、動的・創造的で、「意味の種」の状態であり、外界を写したイメージではなく内的に生み出される存在です。
仏などの尊格や種子(梵字1字で現されるマントラ)は、煩悩がない清浄な表れです。
それは、自我や日常的な様々な執着に無関係な象徴的イメージです。
密教は、意識の階層を、概念もイメージも存在しない根源にまで戻ることで、すべてに実体性のないことを直観的に理解します。
現実の無常を認識しなくても、日常的な認識は概念やイメージで行うので、それらの成り立ちを理解すれば、すべての存在に実体性がないという認識につながるのです。
また、日常と無関係な、各種の尊格の動的な象徴的なイメージを体験することで、煩悩が浄化されます。
そして、日常的な認識世界を、尊格の清浄なイメージと結び付けることで、それを浄化し、動的にします。
概念やイメージが固定的で二元的だからこそ煩悩が生まれるのですが、それらが清浄な尊格と結びついた動的にものになれば、煩悩はなくなり、かつ、創造的になるのです。
「生起次第」は、具体的には、下記のように行われます。
・本尊ヨガ(我生起)と随滅
「本尊ヨガ」では、自分自身を仏の姿として観想するだけではなく、「慢」と呼ばれる仏の意識・プライドも保持することが必要です。
観想された仏などの姿はイメージであって、それは「空」であるという認識が必要であり、また、観想を通して空性を理解することが必要です。
そのため、観想は、イメージのない「虚空(光明)」から現わし、最後は「虚空(光明)」に溶け入れます。
胸の「光明」への融解の観想法は「随滅(アヌベーダ)」と呼びます。
この「虚空」の時、一切のイメージや概念をなしにした無念無想の状態でいます。
また、観想をしている時も、それが「空」であることを認識している必要があります。
大乗の後得智と同じです。
この状態を「深明不二」と呼びます。
・五現等覚
「虚空」から仏の姿を現す時、いきなり仏身を観想するのではなく、いくつかの段階を経ます。
例えば、「月輪」→「日輪」→「種字(仏を象徴する梵字)」→「三昧耶(金剛杵などの象徴)」→(拡大・収束)→「仏身」です。
これを「五現等覚」と呼びます。
このプロセスは「真実摂経」に説かれた仏になるプロセスである「五相成身観」と関係付けられ、その後、人間の胎児が成長するプロセスとも重ね合わせされました。
虚空から光や音、そして、象徴的な直観を経て、形あるイメージになる、といった具合です。
「五現等覚」などで我生起する場合、眼前に観想してそれに一体化したり、胸に観想して自身に一体化するなどの方法があります。
また、「無上ヨガ・タントラ」の後期には、父からの「白い心滴」と、母からの「赤い心滴」、意識、意識を運ぶプラーナの4者が母胎で一体一体になり、「不滅のティクレ」が生まれて受胎することを象徴して、「母音の鬘が乗った白い月輪」、「子音の鬘が乗った赤い日輪」、「白いフーム字」、「黒いヒ字」が一体化して「ハム字」になり、そこから仏身が現れると観想する場合もあります。
・三(重)薩埵
一体化する仏身は、最初は意識的にイメージを形作ります。
もちろん、種子マントラから生成します。
この意識的に形成したイメージは「三昧耶薩埵(サンマヤ・サットヴァ、象徴存在)」と呼びます。
アビダルマの「遍作相」と同じです。
真実の仏の象徴という意味ですが、あくまでも象徴なので、この後、象徴を越える必要があります。
「三昧耶薩埵」の胸にさらに仏を観想して、そこに「智恵薩埵(ジュニャーナ・サットヴァ)」を招きます。
これは、無相の空の知恵としての仏、つまり、法身です。
すると「三昧耶薩埵」は、意識せずに現れるイメージになり、自然に動き、意識的に描いた姿とは異なることもあります。
深層意識から現れる、創造的想像力による内的、原型的イメージになるのです。
イメージが純粋化されていますが、固定したイメージを保持しない点でアビダルマの「取相」とは異なります。
さらに、「智恵薩埵」の胸にフーム字を観想して、それを「三摩地薩埵(サマディ・サットヴァ)」にします。
「三摩地薩埵」は、おそらく、「三昧耶薩埵」と「智恵薩埵」が統一され一体化した存在です。
無相と有相が統一されるので、音や光の次元も一体化されているでしょう。
後期アビダルマでは、イメージの純粋化の果てである「似相」を光として体験しますが、これに似て非なるものでしょう。
そして、最終的に自身を「三摩地薩埵」に一体化します。
このように三段階で、仏のイメージを仏そのものに近づけていきます。
この観想法を「三重薩埵」と呼びます。
・父母仏
「無上ヨガ・タントラ」の場合、本尊は「父母仏」として表現されます。
これは、教義上は「智恵」と「方便」の一体性と表現されますが、妃には「智恵」以外にも「エネルギー(ヒンドゥー・タントラの「シャクティ」に対応)」という側面も秘めています。
母タントラの場合、「父母仏」の回りにダーキニーなどの女尊が取り囲みますが、これらの女尊も「エネルギー」を象徴します。
ですから、自身を本尊として観想する場合、仏母も観想します。
・曼荼羅
また、真理は本尊(父母仏)だけではなく、曼荼羅として表現されますので、生起次第の観想も、本尊の我生起から、自身を中心としたマンダラ全体へと拡張します。
曼荼羅は体系化された、清浄な元型的イメージの表現です。
マクロコスモス(外的世界)とミクロコスモス(内的世界=心身)の両方の根源的な力の全体が、束縛されずに創造的に現われた場合の姿です。
まず、曼荼羅の構造物(楼閣など)を観想した後、数々の尊格を生み出します。
尊格の出現は、「父母仏」が、生殖によって生み出す形になります。
具体的には、例えば、「心滴」が頭頂から自分の中に入り、男根を経て妃の子宮に移動し、そこで個々の尊格になります。
それを男根で吸い上げて自身の中に入れ戻して、胸から外に出し、曼荼羅の所定の位置につけます。
さらに、身体上で対応する場所に付置して、「身曼荼羅」とします。
・三身修道
「身マンダラ」までの観想の中で、死・中有・生を浄化して、仏身の三身(法身・報身・変化身)を観想するのが「三身修道」です。
これは、仏として輪廻を体験するものです。
本行の前の準備として本尊を現わした後、一旦、尊格を光明に融解して法身になるのが「死」の浄化です。
次に、「五現等覚」で報身としての尊格を現すのが「中有」の浄化です。
最後に、本尊の性ヨガを通して自身を変化身として現わし、身体に付置された諸尊を観想するのが「受胎」の浄化です。
輪廻のプロセス「死→中有(死後生)→再生→…」では、意識の階層の上昇・下降を経験します。
つまり、「死」は根源的意識に戻るプロセスであり、「中有」は根源から魂の身体を生成するプロセスであり、「再生・成長」は根源を経由して肉体を生成するプロセスです。
「死」のプロセスでは、一旦、意識が根源的な母体(空)に戻ります。
死に至る最後のプロセスは、体験的には視覚的な、4段階の光明の体験(「顕明」→「顕明増輝」→「顕明近得」→「(喩えの)光明」)となります。
これの4段階は、「象徴」→「月輪」→「日輪」→「空」とも対応します。
「生起次第」は、自分を仏として観想し、輪廻のプロセスを体験することで、それを浄化して、「仏の三身」の獲得を疑似体験するものです。
これは、「究竟次第」の観想による準備でもあります。
・自利円満と他利円満
多くの場合、「生起次第」は、「自利円満」と「他利円満」の2つの観想からなります。
「自利円満」は、上記したような「本尊ヨガ」です。
「他利円満」は、仏が他者を救済する観想です。
「自利円満」で現した本尊を「因」の本尊、「他利円満」で現した本尊を「果」の本尊と表現して区別することもあります。
「自利円満」は仏と曼荼羅を「虚空」へ融解する「随滅」で終わりますが、「他利円満」は再度、4人の仏母が仏を勧請することに始まります。
本尊の出現、諸尊の出生が行われ、諸尊が世間に出て利他行を行います。
・微細ヨガ、斂観・広観、金剛念誦
曼荼羅観想の応用編として、「微細ヨガ」、「斂観・広観」があります。
鼻先や男根の先などに、心滴や三昧耶、仏身やマンダラを観想するのが「微細ヨガ」、それを拡大して空間に遍満させ、再度一点に戻すのが「広観・斂観」です。
そして、「文字鬘(梵字の列)」を明妃との間で循環させるのが「金剛念誦」です。
これは言葉による利他の象徴として位置付けられています。
* ニンマ派が伝承するアヌ・ヨガでは、観想は、順を追って形を作ることをせず、その本質を重視し、一挙に行います。