仏教の瞑想法と修行体系 -15ページ目

修行階梯と位階

仏教で、修行の結果で到達する位階(悟りの程度としての分類)は、大きくは「凡夫」と「聖者(沙門)」に分けられます。
「聖者」とは、簡単に言えば、「真理」を認識した(し始めた)人ですが、必ずしも、煩悩がなくなってはいない人です。
上座部では、「涅槃」を対象とした智慧が生じた人、大乗では、無分別な「空性」の智慧が生じた人です。


「聖者」には、「観」中心の知的な修行でも、「止」中心の修行でも、信仰中心の修行でも到達できるとされました。
これを、「慧門」、「定門」、「信門」と言います。

しかし、「止」→「観」の修行体系の定着と共に、「聖者」は「観」の修行を行う途中で、煩悩のない(無漏の)智恵を初めて持ち始めることによって到達すると考えられるようになりました。

「聖者」になっても引き続き「観」を続けることで、大まかに言って、まず「知的な煩悩」をなくし、続いて「情的な煩悩」をなくしていきます。
まず、物質的な日常の意識状態(欲界)の煩悩をなくし、瞑想的な「定(止)」の状態(色界・無色界)の煩悩をなくしていきます。

ただし、煩悩をなくして到達できるのは、「解脱」であり、「阿羅漢」です。
大乗仏教の場合は、他者を救済できる「仏」を目指しますので、その先で、また、他者に関わる智慧の障害を克服する必要があります。


「聖者」の階梯はさらに細かく分けられます。
部派仏教では「四沙門」、大乗仏教(菩薩乗)では「菩薩の十地」です。

修行の階梯は、南伝の上座部では「七清浄」としてまとめられました。
「七清浄」は、パーリ中部「伝車経」にあり、それをブッダゴーサが「清浄道論」で取り上げて体系化しました。

一方、北伝の説一切有部や大乗仏教では、修行の階梯は「五道」としてまとめられました。

ですから、

・上座部   = 七清浄・四沙門
・説一切有部 = 五道 ・四沙門
・大乗仏教  = 五道 ・十地

です。


部派仏教の「四沙門」は、「煩悩をなくしていく度合い」によって「預流」、「一来」、「不還」、「阿羅漢」に分けられます。
各段階をそれを達成する瞬間の「向」と、到達した段階の「果」に分けると、「四向四果」とか「四双八輩」と呼ばれる8段階になります。

「信門」から入った聖者は「随信行」と呼ばれ、預流果以降は「信解脱」と呼ばれます。
「慧門」から入った聖者は「随法行」と呼ばれ、預流果以降は「見至」、阿羅漢果で「慧解脱」と呼ばれます。
「定門」から入った聖者は「身証」と呼ばれ、阿羅漢果で「俱解脱」と呼ばれます。
全部で「七聖者」です。

ちなみに、説一切有部は、「定門」を認めません。


部派仏教では、煩悩の種類は「三結(知的な煩悩)」、「五下分結(物質的な欲望である荒い煩悩)」、「五上分結(精神的な欲望である細かい煩悩)」と大きく3つに分けられます。
それぞれを滅すると「預流」、「一来・不還」、「阿羅漢」の位階になります。

北伝の説一切有部や大乗では、「凡夫」も、「止」や「四念処」の瞑想を行う「資糧位(順解脱分)」と、「四諦」の「観」に進んだ「加行位(順決択分)」に分けられます。


大乗仏教の場合は、「菩薩」として「仏」を目指します。
「発菩提心」によって大乗の道に入っていれば、「凡夫」でも「凡夫の菩薩」となり、「聖者」になれば「聖者の菩薩」になります。
経典によっては、「無正法忍」、「不退」、「童真」といった菩薩の位階が説かれることもあります。

「聖者の菩薩」は、「煩悩をなくしていく度合い」にプラスして「利他を行える能力の度合い」で、「菩薩の十地」として10段階に分けられます。

*菩薩地は「ジャータカ」(釈迦の前世物語)に由来し、上座部大寺派の文献にすら、声聞の行道とは異なる「大菩薩乗」の必要性が説かれます。

「自未得度先度他」とか「不住涅槃」と言って、煩悩をなくすと解脱してしまって来世で他人を救えなくなるため、大乗仏教では菩薩はあえて煩悩を残して利他を優先する場合もあります。
また、仏に至るまでの修行階梯は、無限に近い年月がかかると考えることも多く、これは事実上、解脱を否定し、救済を続けることを目指していると言えます。

大乗仏教では、知的で後天的な煩悩を「見惑」、情的で先天的な煩悩を「修惑」と言います。
「空(人無我)」を直接認識すると「菩薩の初地」に達し、「見惑」は「菩薩の初地」の途中で断じます。
「修惑」は「菩薩の八地」の途中で断じます。
大乗では、この段階で「阿羅漢」と同じだとします。

先に書いたように、大乗仏教では、克服すべきものとして、「煩悩」の先に「所智障」を加えます。
「所智障」をなくすことが「阿羅漢」と「仏」の違いです。

「所智障」は、多くの派では、「法」の実在に対する執着(法我執)と考えます。

これは「煩悩」ではないので解脱を妨げませんが、他人への完全な理解を妨げるので、これが残っていると他者の救済ができません。
「所智障」をなくすと他者への完全な理解である「一切種智」と、無分別智と一致する分別智である「後得智」を獲得でき、他者の救済が可能となります。


大乗顕教が、利他を重視して解脱しないように煩悩を残そうとしたのに対して、密教(金剛乗)では、煩悩をなくして仏になっても自在に転生したり、化身となって他人を救うことができるようになることを目指します。
ですから、先に自分が悟ってから利他という形です。

他者救済のために必要なのは、具体的には仏の「三身」の獲得です。
直観的な「空」の智恵そのものである「法身」と、利他に必要な、清浄な心の体である「報身」、清浄な肉体である「変化身」です。

密教では、自らを仏の姿で観想したり、気をコントロールして身体に直接働きかけることで、「仏の三身」を獲得します。

ゾクチェン(任運乗)では、必ずしも煩悩を捨て去ることがなくても、煩悩の結果を現さずに、心を自然に解放されるようにします。
ですから、ゾクチェンの修行の階梯は、煩悩をなくすことを目指さず、「煩悩を自然に解放させる状態に至る段階」、それを「持続させる段階(テクチュー)」、さらに「完全に解放を持続させる段階(トゥゲル)」の3段階で構成されます。

また、最終的に、仏の三身に加えて、他者と直接的に接触して救済することができる光でできた「虹の身体」を得ることを目標とします。
これは、釈迦よりも上位の仏果でしょう。



(部派位階)
凡夫
預流
一来
不還
阿羅漢
 
(断った煩悩)
 
三結
五下分結
五上分結
 
(大乗位階)
凡夫
菩薩初~第七地
菩薩第八~十地
(断った煩悩)
 
見惑
修惑
所智障