柔道初心者の戯言 | Moratoriumer´

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今日も波に揺られて海を漂う。

珍しく体育科っぽくスポーツの話。

ジャージがよく似合うとか

スポーツできそうとか

体育の先生っぽいと言われますが

こう見えてスポーツはあまり見ないしあまりしない。

理由は色々とあるんだけど

どうもうちが求めるものとスポーツが与えてくれるものが

どの競技をしてもしっくりとはまらなかったらしい。

でも

そんなスポーツの世界観を変える出合いがあった。

スポーツというか

武道というか

柔道との出合い。

たまたま大学の授業で受けたにすぎず

1時間半の授業を12回受けただけで

初心者のうちが生意気にも柔道についてうんぬん言うのは

そりゃもう失礼なことかもしれないけど。

柔道で感じることを言葉にするのは大変難しいけど

少しでも言葉にして噛みしめてみたい。

「やって感じてみなきゃわかんないよ」

って言ってしまえばそれで終わる話なんだけど。

だからこそあえて言葉にしてみようと試みる。

柔道は人間味で溢れてる。

自分の意志だけでは何もできず

自分の力だけでは動かせず

自分の勇気なしでは足も出ない。

相手なしには何もできない。

道着を介して感じるのは

相手そのものと

それ以上に自分そのもの。

そしてそれだけではなく

二つとない自分と相手との関係性にだけ生まれる何か。

組む前から相手を感じ

組んでからは感覚をさらに研ぎ澄まして相手の心を感じ

一致させつつあえてずらす瞬間をみつける。

投げれたとき

決して自分だけの動きから生まれたものではないから

思わぬ出来事に驚いてしまう。

投げられたとき

相手に自分の心の動きや体の動きを感じられたこと

それを感じて調和してくれたことに感動する。

そして投げられた瞬間に感じるのは

なんとも言えない爽快感と

受け身がとれるようにと引き手で引っ張ってくれる

敵という味方の優しさ。

組み終えたあとにはなんだか少し相手を知れた気と

少し相手に自分を知られた気がしながら頭を下げる。

喜びや悔しさよりも

とにかく驚くことばかり。

人間じゃなきゃとてもじゃないができない競技。

いくら科学が発展したって

うちはロボットになんてさせたくないね。

柔道に出合うまで

うちは感覚をこんなふうに大切にしたことはなかった。

「“感覚”というものがここにある」って

そんな具体化できない掴めないものが

柔道で相手と道着を握り合えば存在させられる気がする。

「強くなりたい」

と柔道のじの字にも至らないうちが思うのは

その言葉の意味がおそらく

「相手を感じられるようになりたい」

って変換されるからなんだろう。

相手も自分ももっと感じたい。

それができるのが柔道だということを知ったとき

うちと柔道はしっくりとはまった。

魅力的なスポーツだと思う。

美しいスポーツだと思う。

スポーツという枠さえもなくして

柔道は柔道と言いたいくらい。

楽しいよ

柔道。

今日は何回も投げられたけど(笑)

でもその結果にも

実はものすごくいろんなものが詰まってて

ものすごくいろんなものを感じてる。

すごいな

柔道。

残念ながら

もうすぐ授業終わっちゃうんだけど。

そんな授業をしてくれる

そんな誰にも言いたくないような

誰も言葉にできないような大切なことを教えてくれる

先生に敬意と感謝を。