当事者に対する違和感 | Moratoriumer´

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今日も波に揺られて海を漂う。

実はうちが違和感を感じるものは二つある。

一つは社会。

そしてもう一つは

意外と思われるかもしれないけど

当事者だったりする。

それはただ集団としてあげただけで

誰とかいう個人じゃない。

例えばブログ。

「同性愛に理解のない方はご遠慮ください」

といった予防線。

例えば会話。

「カミングアウトして解雇されたゲイがいる」

といった本人ではない誰かの話が生む恐怖。

例えば事実。

「偏見を持ってる人の方が“個人的”なんだと思う」

といったうちの仮説は

うちの経験と話だけじゃなかなか信じてもらない。

目に見えない

数多の支持者と理解者は

目に見えない

当事者と同様

なかなかその存在が認められない。

それは悪意からではなく

不安や恐怖や優しさから

目に見えないままお互いが存在してしまってるだけ。

実際に目に見えるのは特定の心ない人々。

そして作られ広がる実体のないイメージ。

そのイメージを変えられるのは

実体のある自分。

全てはうちの仮説。

怖々手を出してみれば

多くの手がうちの手を握ってくれた。

どうしても目から涙がこぼれてしまったとき

ともに涙を流してくれる目があった。

そんなうちが心から笑える日がきたときには

何度も何人もの人と笑い合った。

その手も目も笑顔も

実はほとんど当事者じゃなかった。

喜びも悲しみも共有してきたのは

当事者じゃなかった。

うちの仮説がすんなり聞きいれられるのも

・・・ね。

今更だけど

「当事者」と「当事者じゃない」を分けて話すのは

あんまり好きじゃない。

でも

うちは当事者と話してるとよく孤独になるんだ。

深い話になればなるほど

その孤独も深く個人的なものになる。

ときには悔しい思いさえするよ。

なんで伝わらないんだろうって。

なんで認められないんだろうって。

なんで・・・繋げられないんだろうって。

そんな不甲斐なさみたいなものをよく感じる。

それでも

うちはこの孤独を愛すよ。

歯を食いしばって強さに変える。

なぜって

新しいことをするとき

孤独は付き物だから。

孤独があるものこそ

きっとうちにとって価値があるんだ。

うちは自分で証明してくよ。

もし仮説が間違ってるものであったとしても

それを自分が納得するまでは信じ続ける。

でももしね

「やっぱり偏見とか差別ってめちゃあるやーん」

ってなったときには

幻滅するわけでも絶望するわけでもない。

それを過去の話にするだけだよ。

「偏見あんの?時代遅れやなー。」

ぐらいにね。

そんな時代

おもしろいでしょ?

自分を時代の境目にしようってわけ。

自分の目で見たものと耳にしたもの

そして感性と感覚をもとに

うちは独自の考えを貫くよ。

そういう奴が一人くらいいても

おもしろいでしょ?