最初の講義の質問用紙に書かれた質問は3人宛でした。
うちと彼女と母に対してそれぞれ質問がありました。
そして今回
母が質問に対してコメントをくれたので
そのまま掲載します。
ちなみにコメントはこちらの記事にあるものです。
■母からのコメント■
『あめから、「親・先カミング」の講義のときに、母親宛ての質問があったから
答えてほしいと頼まれていました。
二人の方からの質問でしたが、内容は同じようなものでした。
「「女性のことが好き」、とうことを母親が聞いたとき、どう思ったか。また今はどのように感じているか」というもの。
あめからカミングアウトされたのは、今年三月。
「社会を変えたい」という言葉から始まりましたが、何が言いたいのか?と思いながら次の言葉を待ちました。すると、「うちが好きになるのは女性なんよ」。
そういうことだったのか!!あめが悩み続けていたのはこのことだったのか・・
はじめにきた感情は、「どうしよう」でもなく、「困った」でもなく、嫌悪感でもありませんでした。
答えがわかった安ど感が先でした。納得したと言ったら変な言い方かもしれないけど、やっとあめの苦しみの根源が分かったという気持ち。
でも。今またなんでこのタイミングでこの話なのか・・次から次へとやってくるいろんな問題に、ため息が出る、疲労感の濃い私がいました。(でもこれは自分側からの言い分で。)
「話してくれてよかった・・」と心から思いました。そうしなければどうにもならないところまであめが精神的に追い込まれていることもわかりましたから。
同時に、私にとって、できれば一番触れたくない「性」という問題を、ストレートに目の前に突き出したことに対して、どういう意味があるのか?と思った。自分の知識のなさも恨みました。私はあまりにも無知過ぎました。
浅はかな知識や感情でものを言って、あめを傷つけることを恐れました。その無知が情けなかった。
あめは男であろうが、女であろうが、私の大切な子であることに変わりはない。同性愛者であろうとなかろうと親子関係になんの影響もない。あめが生まれてくるとき、たとえ障害をもって生まれてきても、どんな子であろうと私が育てる!!とかたく心に決めていたことを思い出していました。
私に話したということは、これからこのことに一緒に向き合っていくということ。覚悟が必要です。
親の本質を問われていると感じた。ここで、あいまいなことを言ったり、逃げたりしたら親子関係、家族関係、全てが壊れる。それを一番恐れました。私の家族の中での役割・・家族の中で私に一番最初に話したということ・・ということは、私の役割は何?
それにしても、生きててくれてよかった。このまま黙ってさよならなんてされたら私は一生後悔し続けるだろう
・・・そんなことが頭の中をぐるぐる回っていたように思います。
今考えると悲壮感が強かったような気がします。やっぱり重く受け止めてたんでしょうね。
そして今はというと・・
多少なりともセクシャルマイノリティに関する本を読んだり、あめの話を聞いたり、考えたりするするうち、
広い意味で、同性愛者であることをことさら問題視する必要はないんじゃないかと思っています。わざわざ自分を異性愛者だと言う人はいないように、同性愛者も異性愛者も区別することなく同じ人間ってことで差別されることのない社会であればいい。そういう風に社会を変えたいとあめは思っているんだと理解しています。
ボーイッシュなところはあめの個性と思っていましたが、同性愛も個性と考えちゃいけないのかな・・
将来、結婚とか、家族をもつということは今のあめには関係ない気がする。パートナーと言える人との出会いもあるかもしれない。そのことに関してあれこれ言うつもりはない。幸せの形はいろいろのはず。
カミングアウトされてから、あめとの関係は深まったし、あめから私はいろいろ学ばせてもらっています。
少なくとも、あめがカミングアウトしてくれたことで、自分が気がついていなかった偏見に気付かせてもらった。ときどきひどい自己嫌悪に陥るときもあるけど、気づかない人生よりずっといいと思っています。そういう意味であめに感謝しています。わが子ながらあっぱれといいますか。
同性愛者に限らず、いわれのない差別や偏見に苦しんでいる人たちにも目を向けるようになりました。以前と変わった自分です。
「私に何ができるか」ということは考え続けていますが、一言でいえば「サポート」。そして私が前向きに生きること。
少なくとも、頑張っているあめに恥じない自分でありたい。
これで回答になってますか?(宿題残したまま年を越すのが嫌だったのよね。)
思いつくまま、以上です(笑)』
・・・ということでですね
彼女や母の協力もあって質問には全てお答えできました。
うちの回答は一言になってしまって申し訳なかったのですが。
さて
母のコメントに対してですが
正直言ってうちはカミングアウトしたときに
母が思うほど考えてはなかったんですね。
まず話すことにしか集中できなかったのもあって。
なぜ話したのかも
ただ知っていて欲しいと思っただけで
それ以上は求めてなかったんじゃないかなって思います。
読んでいて第三者的に思ったのは
自分が受容するよりもやはり親が受容する方が難しいのかな
ってこと。
なんとなく
コメントに出てくる「苦しみ」とかそういった言葉は
うちのものじゃなくて母のもののような気がするから。
つまりうちはそう言われても
どこか他人事というか
実感がない自分がいます。
うちが悩んだりしんどくなる原因は
大抵社会的なものだから。
だから誰かとの関係性を考えたときには
そりゃ悩むこともあったけど。
例えば
親に話して悲しませたりはしないだろうか
とかね。
だから母が思うほどうちは・・・
って・・・うーん
なんだかコメントを読んだ今
正直なところすごく複雑な気持ち。
無理に言葉にして母に誤解を与えるのもやだしな。
ってかすでに自分の視点を押しつけてるみたいでやだな。
うちの姿がどう見えたのかも
人それぞれだからどれも間違いじゃないし
母は母の言葉で表現してくれればそれでいいんだ。
いつも相手の話を聴くときみたいに
「ふんふん。そうなんだー。」
って母の言葉をうちはただ受け取ればいいんだろうな。
ついつい母の言葉に自分が入り込んじゃってる。
うちらしくねー。
やだやだ。
やだやだやだやだ。
あー・・・
もう難しいことは抜きにして
ただ全力でこの言葉を届けよう。
「ありがと!」