『永遠に許されざる者 日航123便ミサイル撃墜事件及び乗客殺戮隠蔽事件』(小田周二著:文芸社)を、少しずつ読んでいます。
この本は、全400ページを超える大著で、2017年に出された『524人の命乞い』では名前の伏せられていた関係者も実名で登場しており、世間で「日航123便、墜落事故」と呼ばれて来た39年前のできごとについて、その核心部分がつまびらかにされています。
この『永遠に許されざる者』の中で、わたしが強く感銘を覚えるのが、1985年8月12日、日航123便が飛んでいたのと同じ空域で、米軍のC-130輸送機に乗っていた、アントヌッチ中尉(当時)に関する記述です。
『永遠に許されざる者』では、何ケ所かでアントヌッチ氏に関する記述があり、例えば、P74~75では、こんな感じです。
『永遠に許されざる者』P74~75 原文は下線も引かれているのですが、
P74~75の大事な部分、下に引用します。
「(略)つまり 123便は米軍横田基地の了解のもと、同基地への緊急着陸を試みようとしていたのである。 その驚くべき事実が明らかになったのは、123便の墜落から10年も経った後の 1995年7月のことだ。
しかも、それは日本側の調査によって明らかになったのではなく、一人の米軍兵士の告白証言によって明らかにされた事実である。もちろん事故調の事故報告書には一言の言及もない。それは後の墜落後の日本側の救出活動の実態を暴いたことと合わせ、まさに衝撃的な告白証言だった。
日航123便が墜落して10年後の1995年7月、米国在住のアントヌッチ元大尉(123便事故当時は中尉。以下、アントヌッチ中尉と表記)が国防総省公認の米軍準機関紙『星条旗』に日航123便の救助活動についての告白を投稿して、墜落事故の真実を語った。世界はその投稿の中で語られる衝撃的な事実に驚愕するとともに、日航機の墜落に日本政府、あるいは自衛隊の黒い影すなわち謀略を見たのだ。なぜなら、それまで日本政府は墜落事故直後にアントヌッチ中尉らが搭乗する米軍C-130輸送機による救助活動が開始されていた事実を全く隠蔽しており、しかも自衛隊には後述するように生存者救助についての明らかに意図的な不作為があったことが判明したからだ。これは墜落後も生存していた多くの乗客に対する見殺し行為として、世界の顰蹙と非難を浴びることとなった。(略)
アントヌッチ中尉は、輸送機C-130の通信士であり、任務で沖縄から横田に向けて飛行しており、途中 18:30頃に日航123便 が非常事態を宣言するのを傍受し、事態を注視していた。その後、事故機と東京管制との交信で、『高濱機長と管制官との会話が英語でなく、日本語であることで日航機は緊急非常事態である』ことを認識した(航空管制では 英語が用いられることになっているが、緊急事態であることに鑑み、管制官は高濱機長らに日本語での通信を許可したのである)。(略)
さらにアントヌッチ中尉は周波数を横田基地・事故機の会話周波数に切り替え、中尉の搭乗するC-130は『Okuraでホールディング(待機)する』よう指示されている。そしてこの旋回待機中に、米軍の横田管制が日航123便に『横田基地への着陸を許可する』のをアントヌッチ中尉は聞いている。(略)
このように高濱機長と横田基地管制官の間の無線を傍受していたアントヌッチ中尉の10年後の告白証言は、高濱機長が明らかに 横田基地への着陸を行おうとしていたことを示す明確な証拠である。(略)
以上のアントヌッチ中尉の告白証言から、日航123便は横田基地に『着陸申請』を行ったことが推定でき、逆に言えば 日航123便が間違いなく着陸できるだけの 操縦性を習得していたと判断することもできるのである。 後にこのアントヌッチ中尉の告白証言を受け、日本航空安全推進本部の福田部長や上谷 パイロットも、筆者(遺族・小田)に対して事故機は操縦性を有していたことを認めた」
(『永遠に許されざる者』P74~75より)
1985年8月12日の、日航123便をめぐるできごとについては、
日航123便の“墜落”場所を その直後から、日本政府は把握していたこと、
生存者の証言によれば、航空事故調査委員会が「事故報告書」の中で述べるような機体後部「圧力隔壁」の破壊は起きていなかったこと、
それだけでなく、日航123便は「操縦不能」に陥って迷走していたようなことはなく、高濱雅巳機長らによる手動運転で機体がコントロールされていたこと
など、真実をつきつめていくと、驚くようなことばかりです。
特に、わたしも、小田さんの本を読むまでは、“墜落”した日航123便は、コントロールをうしなって、迷走していたと(ぼんやりと)考えていました。
2020年8月1日ブログ より
上の引用のほかに、小田さんは、こんなふうにも書いています。
「後に詳しく紹介するが、123便が横田基地への着陸目前だったことを暴露した米国アントヌッチ中尉(当時)の10年後の告白証言(資料㉓)の中では、123便の異変を知った後にアントヌッチ氏らが墜落を知ると同時に捜索活動を始めたことも語られている。中尉らは事故後20分で現場を特定し、救助活動のために他の米軍ヘリを誘導。さらに、そのヘリコプターからは兵士が救助活動のために降下しようとしていた。このことは、自衛隊が墜落場所の特定に時間がかかったというのは表向きのことであり、実際には意図的な時間稼ぎであることを示している」
(『永遠に許されざる者』P104より)
『永遠に許されざる者』には「資料編」の中に、アントヌッチ中尉が
1995年におこなった機関紙「星条旗」への証言も載せられています。
日航123便の“墜落”があってから10年後(1995年)に、当時 現場上空でC-130輸送機に乗っていたアントヌッチ中尉が、自分の見聞きしたことを、アメリカ軍の機関紙に証言したことは、小田さんの2017年の『524人の命乞い』でも取り上げられいます。
但し、『524人の命乞い』を読んだ当初から、
わたしにはひとつの大きな疑問が解けないままでした。
それは――
アントヌッチさんは、すでにアメリカ軍から退役しているときに、それも「10年」という(ある意味では「ながい」)年月が流れた時期に、言わば、唐突に、なぜ、そのような証言をアントヌッチさんはしたのか…ということです。
もっと現実的な話をすれば、アメリカで暮らしていたアントヌッチ氏が、別に10年前の“事故”について、証言をしようとするまいと、アントヌッチ氏の生活には、何の影響も無かったはずなのです。
ドウシテ ワザワザ 10年モ前ノ、アメリカ軍ニ在職中ニ見聞シタコトヲ アントヌッチ氏ハ証言シタノダロウ…?
イッタイ…ドウシテ???
『永遠に許されざる者』には、当時 写真週刊誌(フォーカス)に載った「13日生存者発見の直後に撮影されていた無傷の少年」の写真も掲載されています。筆者の小田さんは「落合さんが聞いた声『ようし 僕も頑張るぞ』の少年か」と推察しています(P360)。この少年に関しては、ある時にパッタリ報道が聞かれなくなったそうで…、その後 どうなったのか、わたしも気がかりです。
けれども。
ありました。
アントヌッチ氏が、10年間の空白を経て、日航123便にまつわる真相について、どうして証言しようと思ったのか、『永遠に許されざる者』については、こう書いてありました――。
「前述の通り、123便が横田基地に着陸しようとしていたことを傍受した米軍輸送機C-130のアントヌッチ中尉(当時)らは、 近隣の空域で上空待機を続けた後に墜落を察知した。アントヌッチ中尉の乗る輸送機は、123便墜落から約20分後の19時15分にはすでに現場上空に到着し、米軍の救難ヘリを呼び寄せている。 アントヌッチ氏の証言によれば、ヘリが救出活動のために兵士をロープで吊り下げ、生存者の救出を行おうとしたまさにその段階で、横田基地から救出活動中止の命令が伝えられた。救助活動は中止され、同氏らは撤退して基地に戻るように命じられた。この救出活動の中止は、驚いたことに日本政府からの要請によるものであった。
同氏の証言によれば、横田基地に対して日本政府は『自衛隊がすぐに救出に行く』と言明し、だから米軍は撤収して欲しいという要請をしてきたのだという。アントヌッチ中尉らは不承不承、救出活動を打ち切って基地に帰投しなければならなかった。帰投して報告を済ませたアントヌッチ中尉らは、上官から緘口令を言い渡されている。
ところが翌朝の新聞でアントヌッチ中尉らは、『自衛隊がすぐに救出に行く』という約束を反故にされたことを知って愕然とした。自衛隊は迅速な生存者救出を実行しなかったばかりか、表向きは墜落場所さえ特定できずに朝を迎えていたのだ。墜落事故当時、自衛隊幹部はこのアントヌッチ中尉らの救出活動の存在そのものを隠蔽し、『自衛隊の救出行動は世界一であり、米軍もできなかった』と自賛したが、これは全くの虚偽であった(資料㉓)わけだ。
アントヌッチ氏は、その後、落合由美氏が墜落後の現場の様子を語った証言を目にする機会があった。それによって123便の墜落現場に助けを待つ生存者がいたことを知ったアントヌッチ氏は、当時救出活動を続けられなかったことを悔やみ、退役してから当時の模様を詳しく証言するに至ったのである。この証言がなければ、日本側がアメリカ軍による救出を中断させていたという重大な事実は今に至るまで 隠蔽されたままだっただろう」
(『永遠に許されざる者』P107~108より)
「アントヌッチ氏は、…(略)…123便の墜落現場に助けを待つ生存者がいたことを知ったアントヌッチ氏は、当時救出活動を続けられなかったことを悔やみ、退役してから当時の模様を詳しく証言するに至ったのである」
…そうだったのですか…。
勇気をもって、10年の空白を経て証言をしてくれたアントヌッチさんに、心から感謝の言葉を述べたいと思います。
( お し ま い )
〔 参 考 〕
日航123便の“事故”について、再調査を求める声は日に日に高まっています。目標の「5000筆」までもう少し。署名まだでしたら、あなたも是非どうぞ。→ コチラ
◆ JAL裁判@高裁も請求棄却( 2023年6月2日ブログ )