1985年の日航機墜落について記事を載せる東京新聞(2021年8月12日付夕刊)
ついに…見てしまいました。
わたしは別に「家政婦」ではないですが
や は り 、 本 当 だ っ た の で す ね … 。
何 を 見 た か と 言 う と … こ れ で す
当時のニューステロップ(Youtubeより)
1985年8月12日午後8時56分、群馬県の山中に墜落した日航123便ですが、墜落直後から、日本政府(=霞が関周辺でサークル活動をしていたオジさんたち)は、正確な墜落地点を明らかにせず、それだけではなく、「別の場所」を墜落地点であるかのように言い続けたのです。
それはどうしてなのでしょう…。
飛行機に限らず、電車事故もそうですし、交通事故もそうです、
何か事故が起きたならば、一刻も早く救助活動を開始しなければいけないことは誰もが知っていることなのに…。
当時高校1年生の次男と中学1年生の長女、2人のお子さんを亡くした小田周二さんは、日航123便の墜落直後のことを次のように書いています。
「21時の時点で長野県警は、墜落場所が群馬県だと判断する。同じころ、朝日新聞社のヘリ『ちよどり』も墜落地点付近に赤い火を発見し、周囲に飛行機や衝突防止灯が光っているのも目撃した。現場を上空から撮影した『ちよどり』は、位置を測定してそこがやはり群馬県であるという結論を得ている。どちらの判断も、墜落場所が群馬県側の山中であるという点で正しい見立てだった。
ところが21時39分になって、NHKが唐突に『御座山(おぐらさん)中腹で煙発見』という報道を始めた。標高2112mの『御座山』は長野県に位置し、実際に日航123便が墜落した群馬県の『御巣鷹の尾根』とは県境を挟んで7kmも隔たっている。さらに56分になると航空自衛隊幕僚幹部も、運輸省(当時)に対して墜落場所は『御座山北斜面』だと連絡している。NHKは22時過ぎにも『御座山北斜面で炎上中』という報道を流し、このころには日航も同じことを発表しはじめた」
「墜落したのは群馬県なのか長野県なのか。情報は墜落の翌日早朝まで錯綜し、影響力の大きい自衛隊とNHK、そして運航会社である日航が『御座山』の名を連呼し続けたことで多くの人の目が墜落した群馬県ではなく長野県に向くことになった」
(以上 小田周二著『524人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎』 P139~140より)
では、実際に、
日航123便の墜落場所が群馬県の御巣鷹山と発表されたのはいつなのか ―― それは、何と8月13日の朝4時55分、墜落から実に10時間が経過していたのです。
そして、4名の生存者が現場から救出されたのは、墜落から16時間後のことでした。
とても悲しいことに、小田さんの本を読むと、墜落直後には、相当数の生存者がいたことがうかがえます。けれども、約10時間以上、政府は「墜落地点がわからない」ことを口実に、救助活動をしないままでいたのです。
こわいですよね…、何かあったときに、国家(=サークル系のオジさんたち)は「国民を見殺しにする」のです。日本軍が、戦時中に、国民を見殺しにした…などと、あたかも、そういうできごとが過去のことであるかのように、わたしたちは語りますが、そうではない…ということを、わたしは小田さんの本を読んで改めて感じました。
日航機の墜落でいちばん重要なことは、近くを飛行していた米軍のC130H輸送機が墜落の20分後には現場上空に到達していたことです。
「C130Hは上空を旋回し、横田との位置関係から墜落地点の緯度や経度、方向と距離を割り出して基地に連絡している。中尉によれば、その情報は横田基地から日本政府にも伝えられた。日本側は墜落直後にその正確な位置を通報され、知っていたのだ」
(前掲書P149)
つまり、日本政府は 事故直後から「日航123便の墜落地点」を群馬県御巣鷹山と把握していたのに…、
ず~~~っと 墜落地点は不明であるかのごとくに装い…
さらには、「長野県か?」などと、ニセ情報をテロップで流し続け、
結果的に救助活動を遅らせた ということです。
イッタイ 何ノタメニ…???
…不思議ですよね…。
もちろん、いつ救助活動を始めるかについては、現場の状況から判断が分かれることもあるでしょう…。でもね、「どこに墜落したのか」ということが、およそひと晩、伏せられ続けたのはどうしてなのでしょう
いえいえ、「伏せられた(=ワカラナイ、ドコニ墜落シタノカ捜索中)」ということではないのず、実際に落ちた場所とはちがうところが、あたかも墜落地点であるかのように“連呼”され続けたのです。
それから、もうひとつ。
日航123便は圧力隔壁の破断によって操縦不能に陥った…と、一般には受け取られているようですが、日航機は「操縦不能」なんかに陥っていません、自動操縦から手動に切り替えて高濱雅巳機長(当時49歳)は緊急着陸場所を探して機体をコントロールしていたのです。 ←ダカラ…墜落までの30分以上、機体は飛び続けていたのです。しかも…横田基地から「緊急着陸OK」の承諾までとりつけていたのに!!!
「圧力隔壁の破断」とはちがう〈別の理由〉で日航機の墜落を推察する本はいくつか出ていますが、小田周二さんは、手動で飛びつつける日航123便の報告を受けた中曽根康弘総理大臣(当時)や自衛隊幹部の動揺を推察しています。
「F4EJ戦闘機から入った報告は、不祥事に動転する自衛隊最高幹部と政府中枢をさらに驚愕させたはずだ。彼らは単に驚いたというよりは、途方に暮れたと言っても間違いではないだろう。この状況下では、自衛隊と政府にとって取るべき方法は2つしかない。そのことを、彼ら自身がよく知っていたからだ」 (前掲書 P62)
ひとつは、(政府や自衛隊にとって不都合な)事実をありのままに、かつ直ちに公表し、「123便の緊急着陸に向けた支援とその後の救助に政府・自衛隊として全力を挙げること」であり、もうひとつは、その事実を徹底的に公表せずに隠蔽すること、この2つです。
そして、その2つの選択肢の“中間”はありえない、と小田さんは書きます。なぜなら、日航123便に起こったほんとうのことを伏せながら(横田基地などへの緊急着陸によって)乗客・乗員を救出すれば、助かった人たちへの事情聴取や機体の調査、データ分析などから、隠したい事実が露見してしまうからです。
だから、もし、ほんとうのことを隠し通そうとするならば、すべての痕跡を消し去らなければいけない…。たとえば、自衛隊機と民間機とが衝突し、民間機の乗客・乗員すべてが死亡した「雫石事件」(1971年)では、生存者による証言などが無く「おかげで自衛隊や政府は責任追及をかわすことに成功した。生存者という名の痕跡が残らなかったから、時の佐藤栄作内閣は倒れなかったのだ」(前掲書 P63)と小田さんは書いています。
日航123便が墜落した直後から、日本政府も正確な墜落地点をわかっていた…、にもかかわらず、まるで世間の注目をそらし、時間稼ぎをするかのように「ニセ情報」をニュース速報としてテロップで流し続ける、この奇妙な対応を考えると…、その時間稼ぎは、(小田さんが書くように)「証拠残骸を回収隠蔽する」(P 64 )ためだったのか…と、わたしにも思えて来ます。
オリンピック報道のかげで、わたしたちには、この国の主権者として知らなければいけないことが、どうやら…たくさんあるようです。
( 続く ⇒ コ チ ラ )
◆ 「問題は…犠牲者、遺族だけのことではない」( 2020年8月12日ブログ )
◆ 笑 え る ガ ー ル ズ バ ー ( 2020年4月21日ブログ )