遠近法で描く中国 -2nd Season- -30ページ目

遠近法で描く中国 -2nd Season-

片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生を。 

著者:星亮一
出版:三修社 / 2007年 / 単行本
ジャンル:歴史、日本史

仙台出身の歴史小説家、星氏の作品です。
氏は、会津藩の歴史を中心に多くの作品を書かれています。
彰義隊についてご紹介します。
鳥羽伏見の戦い(1868年/慶応4年)で幕府軍が新政府軍に敗れ、将軍徳川慶喜は大阪城を離れ、江戸に還ります。
その後、江戸における慶喜の警護の目的で結成されたのが、彰義隊です。
新撰組が京都の守護なら、彰義隊は江戸の守護だったということです。

<目次>

はじめに

第一章 慶喜逃亡
第二章 東叡山寛永寺
第三章 戦火関東に広がる
第四章 奥羽越列藩同盟
第五章 上野戦争前夜
第六章 アームストロング砲
第七章 残党狩り
第八章 榎本艦隊
第九章 東京遷都

特別寄稿 彰義隊と江戸っ子(乙部融朗)
     彰義隊決戦の地・上野公園散策(遠藤由紀子)

あとがき

気になった個所のご紹介です。

「山岡はのちの幕末の三舟と呼ばれる男である。三舟とは、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟である。」(31頁)
→山岡鉄舟は、江戸の戦争を回避するため、慶喜の意を受けて西郷隆盛と直談判した豪の男です。

「「これをのめば、江戸攻撃はいたしません」
と西郷がいった。山岡は項目に目を通した。

一、城を明渡す事
一、城中の人数を向島へ移す事
一、兵器を渡す事
一、軍艦を渡す事
一、徳川慶喜を備前へ預ける事」(36頁)

→山岡は最後の一項をのめないとし、それを西郷に認めさせます。

「寛永寺のシンボルは輪王寺宮だが、上野の山の最高実力者は寛永寺執当職、覚王院義観である。彰義隊の黒幕はこの人である。」(60頁)

「司馬遼太郎の作品に『アームストロング砲』がある。司馬が強調したのは佐賀藩の文明だった。「幕末、佐賀藩ほどモダンな藩はない。軍隊の制度も兵器も、ほとんど西欧の二流国なみに近代化されていたし、その工業能力も、アジアでは最もすぐれた「国」であったことはたしかである。」」(183頁)

「この一連の上野戦争、我れ関せずと傍観していたのは勝海舟と福沢諭吉だった。」(189頁)

「当初、西郷にとって彰義隊はそれほどの存在ではなかった。江戸の警護に使ってくれと海舟がいい、人のよい西郷が押し切られた形で彰義隊が発足した。江戸の治安部隊である。しかし、彰義隊が暴れまわり、江戸っ子が盛んに応援するようになって、考えが変わった。討伐である。」(192頁)

「江戸の者は彰義隊は不敗だと思っていたが、たやすく打ち落され、落胆の様子だった。」(195頁)

「彰義隊に集まった若い旗本たちは、完全に行き場を失っていた。未来の保証はなにもない。海舟がどうわめいても、そこには説得力がなかった。忍耐すればこうなるという展望を与えることができなかった。ただやめろでは、若い旗本たちの暴発をとめることは無理だった。彼等にとって海舟は腰抜けであり、尊敬の対象ではなかった。」(200頁)

「慶喜がふがいなく恭順し、海舟と西郷の腹芸で江戸の無血開城となったのは、それなりに評価できるが、旗本の若者たちは、行き場を失ってしまった。彼らはいかに生きるか、目標を失っていた。これも慶喜の大罪の一つだった。」(219頁)

「榎本は当時の日本人としては、最高の国際人であった。ヨーロッパで五年間生活し、国際法にも通じていた。各国の外交官も驚いた。語学はオランダ語、英語、フランス語、ドイツ語、だいたいの言葉は話せた。」(254頁)

「会津に一片の同情もないのは、あまりに矮小で冷淡すぎる仕打ちだった。榎本は海舟の本心を見抜いた。一徳川家しか眼中になく、国家、国民はどうでもよいという自己中心の思想だった。」(247頁)

「列藩同盟には演出家がいなかった。世間をあっと驚かせるデザインが少なかった。今日、見ることができるのは、列藩同盟の旗である。輪王寺宮を皇帝に推載したのだから、菊の御紋ぐらいは、こちらも付けるべきだった。」(274頁)
→wikipediaの「奥羽越列藩同盟」のページで旗をご覧いただけます。

「彰義隊というのは、江戸の町の人にたいへんに人気がありました。「情人(いろ)にもつなら彰義隊」水商売の女の人たちはそういう言い方をしたそうです。」(291頁)

「(前略)上野の陥落は、表面上は西郷の功績ということになりました。そのゆえに現在の上野の山には西郷の銅像があります。戦いに勝った将軍の偶像を、陥落させた城跡や征服した国の首都に建てた例は外国にはありません。東京にマッカーサーの銅像を建てよう、と言い出したのは日本人ですが、実現しませんでした。」(297頁)

「彰義隊は時世に逆らい、ただ一つの目的、徳川家再興というプライドを持った。単純だからこそ、その志は糾合した。生きることに執着せず、死ぬことで本懐を遂げたサムライたちであった。決して、死にたかったわけではない。生きることを考えたからこそ、死に至ったのである。」


星氏は歴史小説家ということですが、引用させていただいたように、途中司馬遼太郎氏の作品が引用されるなど、フィクションの舞台のみで構成された作品ではありません。
慣れないと、少し読みづらい部分もあるかもしれません。
また、主観となる人物の視点で描かれてないので、多くの事柄がぶつ切りに列挙されているような印象も受けました。
ぼく自身は、関西の人間のため、上野には馴染みがないのですが、機会を見つけて、ぜひ一度上野を散策してみたいと思いました。



彰義隊―われら義に生きる/星 亮一

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著者:黄文雄
出版:徳間書店 / 2003年 / 単行本
ジャンル:中国、台湾、日本

台湾出身の評論家・経済研究家はたくさんの書籍を出されています。
どれも平和ボケ国家、日本に警鐘を鳴らす作品ですが、その一冊のご紹介です。
ちなみに、氏は「シナ(支那)」は差別・蔑視用語ではないと論じています。

<目次>

はじめに

第一章 台湾人が敬愛する「日本のこころ」
第二章 台湾経済界に遺された武士道精神
第三章 大和魂が切り拓いた台湾博物学
第四章 台湾人に「美の心」を教えた日本人
第五章 日本時代に生まれた独自の台湾文学
第六章 共通言語をくれた日本人と奪った中国人
第七章 台湾史を捏造する中国人の魂胆
第八章 台湾の領有権をめぐる歴史の真実
第九章 「台湾人」を再認識させてくれた日本

おわりに



気になった個所のご紹介です。

「韓国人は日本時代の遺物を自ら破壊したのに対して、台湾人は復興しているのである。」(4頁)

「ひとつは、数千年の長きにわたって日本を根幹から支えてきたものは、八田與一にみられるような気高い形而上的価値観や道徳観であるとしている。」
「二つ目は、伝統と進歩という一見相反する二つの概念を、いかにアウフヘーベン(止揚)すべきかを教えてくれているのだという。」(以上20頁)
「三つ目は、台湾の人々が今でも八田夫妻の偉業を尊敬している、その精神のあり方から、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行(きゅうこう)の日本精神がうかがえるという。」(21頁)
→李登輝氏が答えた日本精神はいかなるものかという問いに対して。

「日本には、日本の過去をすべて否定する、いわゆる「反日日本人」が数多くいるが、彼らは、親日的な台湾人がいることを好ましく思っていないことが多い。」(23頁)

「輪廻転生を説く仏教が中国であまり定着しなかったのは、中国人が世俗的かつ即物的民族で、死後や来世、さらには霊や神といったものを、思考から切り捨ててきたからである。」(28頁)

「たとえば、孫文や梁啓超などは『支那』という言葉を誇らしげに使っていた。」(33頁)

「台湾が日本に統治されていたのはたったの五〇年だったにもかかわらず、なぜこれほどまでに台湾人の間に日本精神が浸透したのだろうか(中略)。その理由として考えられるのは、政治・経済システムが、もともと中国の社会体制とはまったく違い、社会構造や文化形態も中国より日本に近いものがあったということだ。」(37-38頁)

「私は四〇年近い日本での生活の中で、日本人をゆっくり観察し、中国人とじっくり比較する機会を持った。そして私が発見した双方の違いをずばり一言で表現するならば、日本人が「誠」の民族であるのに対し、中国人は「詐」の民族であるということだ。」(41頁)

「高砂義勇隊の誠実さと忠誠心は古今無双と、いまでも日本人の戦友からたたえられている。兵糧を背負って山川を超え、自分が餓死しても兵糧だけには手をつけていなかった・・・など、美談には事欠かない。(以上の回顧談は、あけぼのの会・門脇朝秀編『台湾高砂義勇隊ーその心は今もなお・・・<五〇年後の証言>』からの一部引用)」(60頁)

「漢文学とは、創造性に欠けていることから多くの文学者に忌み嫌われている。なぜなら、『四書五経』という絶対的な「聖典」があり、それ以上のものは誕生そえないからである。孔子でさえ、「学んで述べず」といったほどだ。」(153頁)

「明治期の日本人は、文人・歌人・軍人・政治家などを問わず、教養を持つ者はみな漢詩をつくり、吟じることができた。」(154頁)

「台湾にはじめて共通語ができたのは、二十世紀初頭である。日本が外来統治者として台湾へやってきて、日本語教育を全島に普及させたことから、日本語が共通言語として使われるようになったのだ。」(178頁)

「むしろ台湾人にとっての日本語教育は、社会科学や自然科学などの近代的知識をもたらしてくれたツールであった。」(186頁)

「住民と直接接触する警察官も、台湾語は必須であった。日本人のなかでもっとも台湾語が堪能だったのは彼らである。これに比べて、戦後台湾に入ってきた国民党の警官は、台湾語を学ぼうとせずに、ほとんどできなかったため、トラブルが絶えなかった。」(188頁)

「日本領台以後は、島民の自由意志にしたがって清国人になるか日本人になるかを選ぶ、二年間の国籍選択期間が与えられた。それでも、このとき中国大陸への期間を希望した者は、わずか4500余人であったという。そして、日本統治時代は50年間という短い間だったが、台湾の人的・物的資源が育まれ、台湾文化の萌芽のきっかけがつくられた。」(298頁)

「台湾住民は「祖国」の軍隊が台湾のためにやってきたと大歓迎した。が、それが幻想だったというのは、すぐ露見した。国民党軍は台湾人を抑圧する恐怖政治を敷いたのだ。」(298頁)

「「誠」とは日本文化、日本精神の根源であり、武士道精神とはこの「誠」や「真」を基礎に「美」までを追求した精神だと私は理解している。」(314頁)

黄氏のいう中国人とは、大陸から戦後渡ってきた人のことです。
去った日本人とやってきた中国人、そしてそこにいた台湾人。
言葉は少々過激ですが、台湾の方が日本人に贈るメッセージです。

日本人が台湾に遺した武士道精神/黄 文雄

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ホノルル博物館所蔵、北斎展を観てきました。
葛飾北斎の生誕250年を記念した展示会です。
今月から、京都文化博物館で前期の展示が始まりました。
前期:2月1日(水)~2月26日(日)
後期:2月28日(火)~3月25日(日)

$遠近法で描く中国

前期で展示されているのは、『富嶽三十六景』を中心にした風景版画が中心です。
有名な『富嶽三十六景』は、追加の十点を含めた中で、わずか二点が欠けているだけだそうです。
略年表が会場内にあるのですが、画家として主に活動されたのは、四十歳を超えてからのようで、その後九十歳まで生きられたということです。
全盛期が70歳代というのですから、すごいですね。

絵や写真と向き合うとき、その画家、撮影者との対話を楽しもうと心がけます。
何世紀もの時を超えて目の前にある一つの絵は、何を語り、訴えるのか。

『富嶽三十六景』で北斎は、様々な「青」を駆使しています。
木々に見える緑さえも、青に見えてしまうほど。
空や、海や川の青色は勿論、屋根瓦や着物の青も、それは一言で表せない青色の魔術による表現です。
これが版画なのですから、尚驚きです。
他の色は、青を引き立たせるために使われていて、その最たるものは白色です。

この貴重な北斎の版画をホノルル美術館に寄贈されたのは、アメリカの小説家、ジェームス・A・ミッチェナー氏(Wikipedia)です。
海を還って日本に戻ってきた北斎画を、ぜひ冬の京都で。