遠近法で描く中国 -2nd Season- -28ページ目

遠近法で描く中国 -2nd Season-

片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生を。 

著者:オグ・マンディーノ
訳者:坂本貢一
出版:求龍堂 / 2001年 / 単行本
ジャンル:小説

オグ・マンディーノ(Og Mandino 1923年12月12日-1996年9月3日)氏は、アメリカ合衆国出身の自己啓発書作家、小説家、講演家(Wikipediaより)。『地上最強の商人』(日本経営合理化協会出版局/1996)プログラムは実際に体験しました。

<目次>

幸せなひととき
絶望のどん底
ビルの最後の説得
傷だらけの茶色いボール
ティモシー・ノーブル
ジョン・ハーディング監督
新生エンジェルス
毎日、毎日、あらゆる面で・・・
ティモシーの手痛いエラー
勇敢な天使
伝説のメッセンジャー先生
土曜日の優勝決定戦
ずっと前から知っていた
絶対、絶対、あきらめない!

訳者あとがき


この物語は、少年野球を題材にした小説です。主人公は、IT企業の最高経営責任者で、その就任を機に、故郷へ戻ってきます。地元の人からは英雄と讃えられ、最愛の家族と幸せに暮らすはずが・・・ある悲劇が、彼を悲しみのどん底へ突き落とします。生きる意味さえ見失い、自殺まで考えたその時、彼は、彼自身も幼い頃に所属していた、少年野球リーグの監督になってもらえないかと依頼を受けます。

十二番目の天使とは、その野球チームに所属する11歳の少年です。彼は他の子供に比べて背も低く、運動神経も良くありません。家も貧しく、良いグローブも持っていません。しかし強い意志と、絶対に諦めない、強い心を持っています。主人公が率いるチームは果たして優勝できるのか。少年は果たして、たった1本のヒットを打つことができるのでしょうか。そして少年に秘められた事実が、終盤に明らかになります。

この小説の良いところは、野球に詳しくない人でも理解できるよう、カバーの裏側に野球用語の解説があることです。女性の方でも安心して読みすすめることができるでしょう。


十二番目の天使/オグ マンディーノ

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著者:村上龍
出版:KKベストセラーズ / 2005年 / 単行本
ジャンル:エッセイ

作家・村上龍氏のエッセイですが、興味深いのは、書かれた順番です。
たとえば、最初の文章は2005年3月23日に書かれていて、逆時系列に進み、最後は2003年6月6日の日付となっています。
その約2年間を目次から追ってみます。

<目次>

25:「ハバナ・モード」
24:「小国スロヴェニアの智恵」
23:「犠牲と支配」
22:「幻の改革と変化」
21:「金正日体制は崩壊するのか」
20:「不況と相撲取り」
19:「そもそもイラクに治安があるのか」
18:「格差の象徴・腕時計」
17:「現実をなぞる」
16:「衰退し続ける大手メディア」
15:「従来からの反米への道」
14:「無意味な心意気と誠意」
13:「希望的観測による外交」
12:「イラク人質事件」
11:「サラリーマン週刊誌の死」
10:「黙ってついていくわ」
9:「決定権と責任」
8:「答えより、設問のほうが重要」
7:「可哀相な自衛隊」
6:「姥捨て山を拒否した二人の老人」
5:「『13歳のハローワーク』と一生の安定」
4:「幸福な原作者」
3:「キューバの快楽と『半島を出よ』」
2:「うつと、元気と、おせっかい」
1:「ハバナの夕日と国家目標」

既に何度もブログでは書いていますが、村上龍氏の長編『半島を出よ』は、日本人なら読んでおくべき作品です。
それでは、気になった個所の紹介です。

「しかし日本政府は、海外にいる邦人を守るという責務を負っている。そのために税金を取っているのだ。もっとも手っ取り早いのは、武装した軍隊で公館や邦人の安全を守ることだ。」(22頁)
→この文章の背景には、2005年の中国における反日暴動があります。この当時私は中国青島にいましたが、この地域には当時、管轄する領事部がなく、その他地域として北京領事部の管轄になっていました。在中国の大使館および領事館では、3か月以上中国に滞在する日本人に対しては、その旨届出をせよという指示が出ており、私も例外なくFAXで北京へ届出を出しましたが、この反日暴動の、当時の北京大使館領事部からは、何の連絡も、何の指示も、安全に関する一本の情報すら届きませんでした。その後、私は結婚などの事情でわざわざ飛行機で北京領事部に赴き、届出を済ませたのですが、窓口に出てくる係員はすべて日本語を話す中国人であり、日本人は奥に引っ込んでいて、トラブルの対処すらしてくれなく、全ての希望を打ち砕かれた経験があります。少なくとも、領事部・館内においては、そこは治外法権であり、日本人の人権や権利が最大限守られる場所なのに、中国人を何人も置いておくという事実は、何を意味し、何をどう考えているのでしょうか。ちなみに、上海の総領事館にも足を運びましたが、そこの窓口に出てくる者も、すべて中国人でした。内外に配置される警備員も含めて。結論としては、在中国の大使館・領事館は全く邦人を守る気概も意思もその義務さえも、持ち合わせていないということです。

「医学部や薬学など一部の学部を除き、多くの学生は、一、二年の間は受験と親の監視からやっと逃れたと遊びまくり、三年生になると就職活動だけに打ち込むので、実質的にはほとんどまとまった知識を身につけることができない。」(25頁)
→遊びまくり、というところが、大変問題なんだけどね。ただ、一、二年の間は殆どが教養課程だとか、今では大学に入ってから高校までの復習をわざわざしてくれる大学もあるそうで、大学の問題でもあると思います。正直にいって、その教養課程の部分を、高校卒業までにの課程に割り振って、意味のない暗記ロボットを生み出す受験のシステムを変える方が、重要だと思います。

「今回の書き下ろしでいろいろ考えたことがあって、その一つは「日本社会においては、ある程度ステイタスを築いた人間が新人のように再挑戦するという概念がない」ということだった。」(33頁)
→書き下ろし=『半島を出よ』

「北朝鮮による拉致被害者の情報提供が充分ではなく誠意が見られないので経済制裁を発動する時期だ、みたいなことが言われているようだ。経済制裁を検討するのは当然だが、経済制裁というのは基本的に脅しのカードとして使うもので、実際に発動してしまうともうそのカードは使えなくなる。」(62頁)

「もちろん金メダリストたちの栄光は、彼ら自身のために集中して努力によってもたらされたもので、日本国民を喜ばせ元気づけたとしてもそれは結果であって動機ではない。彼らの快挙は他の日本人にとって何の参考にもならない。」(86頁)
→オリンピックやサッカーのワールドカップ開催時に、日本国および世界中に散らばって登場する、日本人のにわか愛国者の皆々様方が、国家や国旗に心から敬意を祓い、国民の休日に国旗掲揚をしてくれたなら、我が祖国はもう少し素晴らしくなるはずなのに。祖国を離れ、海外に暮らすことを日常としている、世界中の日本人は、一瞬の気を抜くこともなく、胸にそれぞれの小さな日の丸を抱いて、日々、日本代表として活躍しているのだから。

「外国で日本人が生命の安全を脅かされる事態になったら、その人間がすばらしい人なのかゴミみたいなやつなのか、そんなことは関係なく、日本政府はあらゆる手段と方法を選択肢に入れて救出する義務がある。それは義務なので、淡々と遂行するべきもので、自己責任がどうのこうのと弁明するべきではない。」(118頁)
→この文章の背景にあるのは、2004年のイラクにおける日本人人質事件です。この事件に関しては、いろいろな憶測があり、いろいろな意見もあるとは思いますが、前述のとおり、日本を離れた日本人は、どんな立場の人でも常に日本代表であり、その思いを胸に抱く人なら、救出されるべきだと私は思います。

「外交は、最初から対立する利害を、できるだけ国益を守りながら調整し交渉するものなので、対立がない社会はどうしても不得意にならざるを得ない。」(131頁)
→この”対立のない社会”とは、日本のことを指しています。ただ、大事なのは、外交とは”最初から利害が対立”していることが大前提であるということ。”友愛”などと恥もなく吐き出す一国の宰相は、端から馬鹿にされていたのです。

「(以前にも書いたが、)最近わたしはどうして日本社会には決定権とセットになった責任という概念が希薄なのだろうと疑問に思うことが多い。たとえば自衛隊のイラク派遣にしても、万が一犠牲者が出たときに誰が、どういう責任を取るのかが明らかにされていない。」(140頁)
→ポイントは、決定権と責任、そして責任の所在、つまり誰が、ということですね。

「(特に、)「日本的な秀才は、問いと答えを結びつけることに優れているが、本当にむずかしくて重要なのは、問いを考えることだ」というニュアンスの利根川(進)氏の言葉が忘れられない。」(147頁)

「政府は、「国際社会が協調してイラクの復興にあたっているときに日本だけ傍観するわけにはいかない」とまるでオウムのように繰り返しているが、「国際社会」という言葉にはいったいどの国が含まれていて、どの国が含まれていないのだろうか。」(160頁)

自分自身の言葉が少し過ぎた部分もあるかもしれませんし、村上氏の考えに全面的に賛同しているわけでもないのですが、言葉と思考のプロセスについて、いろいろと考えさせられた一冊でした。


ハバナ・モード (Men are expendable (Vol.8))/村上 龍

¥1,575
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著者:片岡義男
発行:東京書籍 / 2009年 / 単行本
ジャンル:エッセイ

朝日新聞や雑誌に収録したものに加え、書き下ろしを加えたエッセイ集。
短編小説も少しあります。
「ピーナツ・バター」は基本的に好きではないのですが、このタイトルには思わずやられた、と叫びたくなるのを抑えて、手に取ってみました。

<目次>

旅と小説はどのように関係しあうのか
瀬戸の潮風、うどんの香り
アイスクリームには謎がある
天麩羅蕎麦はこうして生まれた
『草枕』のような旅を
サンエツ、ニシタケ、コダワラの女たち
猫が階段で寝ている
猫のことを書くなら
ピーナツ・バターで始める朝
ハワイの田舎町を訪ね歩く
今日も小田原線に乗る
商店街が終わって三叉路になるところ
本を三冊買う
真夏のシャーロック・ホームズ
僕はチェリーを忘れてた
後悔くらいしてみたい
手帳が溜息をつく
虚ろな内側をよく見ておきなさい
この世の果てで、ごめんなさい
『路上にて』を買いそこなう
一九四五年秋、民主主義の始まり
明日への希望は社会の財産
母の三原則
白い縫いぐるみの兎
一冊の小説を読む途中
読みそこなったいくつかの物語
「ザ・トーキョー・ブルース」に重なる「東京ブルース」
上を向いてスキヤキ
青空とカレーライス
時の過ぎゆくままに
砂浜に書いた愛の文字
引きずる人は叱られた
ナポリへの道はまだ続く
細切りにしたジャガイモのから揚げ
本が僕に向かって旅をする
水鉄砲を買う人
タイム・トラヴェルでどこへいこうか
偶然の成りゆき、という題名
トイレット・ボウルにおける挫折
金魚と散歩だ
鉛筆を削って叱られた
鉛筆を削るとき
万年筆で書く

あとがき


目次だけで十分に、作品の魅力が伝わるのが片岡氏の作品ですが、
気になった個所をいくつかご紹介します。

「アイスクリームはけっして単純なものではない。アイスクリームを食べるとき、食べる当人の胸のうちに喚起される心理の幅は広く、奥行きは深く、そこには複雑な襞(ひだ)が重なり合い、ぜんたいとしてのニュアンスは陰影に富んでいる。(中略) 他に言いようがないから、食べる、という言葉を使うけれど、アイスクリームにはこの言葉はふさわしくない、と僕は感じる。口に入れたその瞬間から、アイスクリームの複雑な奥行きが全身全霊に広がり浸透していく。こういうものを口の中に入れる行為を、食べる、という言葉でまかなうには、基本的なところで無理がある。」(21頁)
→もう笑うしかない、片岡流アイスクリーム理論。

「夏目漱石の小説が中学や高校で必読書のように推薦されていたり、教科書に短く抜粋されているのが、僕には不思議でならない。中学生や高校生が読んでも、言葉を順にたどっていくだけで精いっぱいであり、それ以外の受け止め方はできないだろう」(25頁)
→同感です。

「今日もまた平凡な一日の始まりに、あるいはそのような一日のなかば、午後の曖昧な時間、ちょっとお腹がすいたときに食べるものとして、ピーナツ・バターはスタンダードの一つだ。」(41頁)
→この先はお腹がすいた時に読みましょう。

「なぜ三冊なのか。いろんな意味で三冊がちょうどいいからだ。買った後に自宅に帰るまで持って歩くことになるが、三冊なら邪魔にならないし重くもない。百円の本を三冊、ということはめったにないが、どんなに高くても一万円を超えることは珍しい、という範囲に収まる」(56頁)
「この三冊が、いったいなぜ、どのような理由で結びつくのか。そう思いながらその三冊を眺めると、そこには他の誰でもないこの自分がいることに気づく。自分という一人の人に棚から抜き出されることによって、その三冊は結びついている。自分とは、ピン・ポイントによる一例として、この三冊のような人なのかという問いには、そうです、としか答えようがない。」(57頁)

「従来どおりの女と、従来などまったく関係ない女とのあいだに、明確に引かれた一線を想定するなら、女優、吉永小百合は、その線の上にいた。それまで綿々と継承されてきた日常の中の女というものに対して、経済の高度成長期にあった日本の大衆は、縁を切りたい気持ちを相当強く持っていたのではないか。スクリーンの上の吉永小百合を僕が評価するとき、もっとも高く評価するのは、従来どおりの女はそこにはいない、という事実だ。」(97頁)

「人生の原則とは、母親がもっとも頻繁に口にしていた、「かまへん、かまへん」「あほくさ」、そして「やめとき、やめとき」の、三つだ。これを僕は「母の三原則」と呼んでいる。」(100頁)
→東京とハワイという強いイメージに支えられた片岡氏の根底に、関西弁を話すお母様の存在があったとは、大変驚きです。そしてその事実は、この本に出会うまで、まったく知らなかったことです。

このエッセイ集に収録された、たった3ページの小説「トイレット・ボウルにおける挫折」。その最後に書かれた詩がいかにも片岡氏であり、とても素敵だなと感じました。

また、片岡氏は2004年に、同じ東京書籍から、『吉永小百合の映画』という本を出しています。東京書籍のWEBサイトから引用します。
「1958年の幻のデビュー作から1962年の代表作「キューポラのある街」まで,片岡義男が黄金期の吉永小百合の全作品28本を徹底究明。信じられないくらい可憐で活発な日本人の永遠のアイドルの魅力に迫る労作。」

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