遠近法で描く中国 -2nd Season- -12ページ目

遠近法で描く中国 -2nd Season-

片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生を。 

副題:ダーウィンは何をみたか
著者:チャールズ・ダーウィン
訳者:荒川秀俊
出版:講談社 / 2010年10月 / 文庫本(講談社学術文庫)

著者はご存知『種の起源』(1859年)、または”進化論”のダーウィン。
彼の論理、著作のきっかけとなったのが、大英帝国海軍に所属するビーグル号での世界周航でした。
植物や生物について書かれているのはもちろんですが、南部アメリカや南太平洋に住む現地民族との出会いや交流についても、興味深く綴られています。

<目次>

訳者の序
原本改訂第一版の序

第一章 動物
第二章 人類
第三章 地理
第四章 自然

人名索引
事項索引

気になった箇所のご紹介です。

「私は、当時においてはどんな残酷な話よりも私の心を強く打った、一つのごくつまらないできごとについて話してみたい。私がある黒人と渡し船で川を渡ったときのことである。私は彼に了解させようとして、声高らかに話をし手真似をしてみせたが、そのとき、私は自分の手を彼の顔の近くへもっていった。すると黒人は、私が怒って彼を打とうとしたと思ったらしく、たちまちおびえたようすで、目をなかば閉じて両手をたらした。一人の大きな力強い男が、彼の顔に向けられたと思った拳をさけることさえも恐れているのを見たときの私のおどろき、不快さ、そして恥ずかしさの感情というものは、私はけっして忘れることはできないであろう。この男は、最も救いがたい動物の隷属的な扱いよりも、もっと低い退化した状態へと訓練されてしまっていたのであった。」(121頁/黒人(アルゼンチン、ブラジル))

「奴隷所有者には同情して、奴隷には冷たい心で見る人は、けっして奴隷の位置には自分をおいて考えることはないらしい。(中略)君の妻と小さい子供とが君からもぎとられて、最も高い値段をつけた者へ売り渡されるような機会が、かりにも君の身の上におそいかかったと考えてみなさい!しかもこうした仕業が、隣人を彼ら自身のように愛すると告白する人々ー神を信じ、神の御旨が地上でおこなわれることを祈る人たちによってなされ、擁護されているのだ!」(124頁)

「限りない海洋の壮大さとは、いったい何であろうか? それは、退屈きわまる荒野であり、アラビア人が呼んでいるように、それは水の砂漠である。」(222頁)

無から有は生まれることはなく、進化論に関しても、ダーウィンの前にも説いている人はいたようです。しかし、イギリス海軍の客人的な扱いだったとはいえ、このビーグル号の航海がなければまた、ダーウィンの進化論も生まれなかったはずです。
この本の本質ではないのかもしれませんが、個人的に何より注目したいのは、引用した箇所でもある、当時の奴隷制度に対する、ダーウィンその人の考え方であり、価値観なのです。



ビーグル号世界周航記――ダーウィンは何をみたか (講談社学術文庫)/講談社
¥924
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著者:川口マーン恵美
発行:新潮社 / 2008年10月 / 単行本
ジャンル:クラシック、ベルリン・フィル・ハーモニー管弦楽団

戦中から戦後、ベルリン・フィルのみならず、世界のクラシック界を牽引した「巨匠」、フルトヴェングラーとカラヤン。著者は、二人のまたはどちらかの指揮の下で演奏した元団員をドイツ各地に訪ね、インタビューを行い、それを記録として残しました。
二人の指揮の違いは何だったのか、フルトヴェングラーはなぜカラヤンを認めようとしなかったのか。人間としての彼ら二人を、もっとも近くで見続けた名演奏家たちがそれぞれの思いを語ってくれます。

<目次>

プロローグ

第一章 テーリヒエン氏との対話
第二章 バスティアーン氏との対話
第三章 ハルトマン氏との対話
第四章 ピークス氏との対話
第五章 テーリヒエン氏との対話 その二
第六章 ハルトマン氏との対話 その二
第七章 ゲアハルト氏との対話
第八章 ライスター氏との対話
第九章 ヴァッツェル氏との対話
第十章 ヴァインスハイマー氏との対話
第十一章 ツェッペリッツ氏との対話
第十二章 ハルトマン氏との対話 その三
第十三章 フィンケ氏との対話
第十四章 フォーグラー氏との対話

エピローグ
カデンツァ1
カデンツァ2


気になった箇所のご紹介です。

「彼の指揮棒はこう弾けと命令を出す指揮棒ではなく、アンテナなのです。作曲家の意図を受信するアンテナ、オーケストラと交信するアンテナ、そしてまた、オーケストラの響きを受信するアンテナでもあった。」(16頁)
→フルトヴェングラーの指揮です。

「フルトヴェングラーの音楽を聴いていると、ときに、子供がクレヨンでのびのびと線を書いていくような力強さを感じることがある。旋律の描き方が骨太なのだ。」(21頁)

「フルトヴェングラーの音楽は、正確かどうかと問われれば、これ以上はないほど不正確なのだ。カラヤンの音楽が、メタリックな輝きを放つ、一ミリの歪もない直線と曲線で縁取られた最高級の工業製品の美しさであるとするなら、フルトヴェングラーの音楽は、中世に建てられた絢爛豪華な城のような美しさである。すべてが、少しいびつで、しかし、力強く、人間的で、そしてえも言われぬ美貌を完成させている。」(54頁)

「フルトヴェングラーは戦前から戦後にかけて、紛れもなくドイツを代表する指揮者であった。ヒットラーの政権下では、フルトヴェングラー率いるベルリン・フィルは帝国オーケストラと名を変え、ドイツ文化を世界に誇るための華々しい広告塔の役割を果たしていた。」(60頁)

「そしてピークス氏は、にっこり笑って言った。「知っていますか?オーケストラは指揮者の娼婦なのです。指揮者の要求したことを全部叶えてあげるのがお仕事。その代わり、出来上がった音楽についての責任は、すべて指揮者が持ちます。」」(73頁)

「テンポというのは、主観的なものなのだ。時計を使って何秒かと測れるものではない。音楽を理解できる最良のテンポ、それがフルトヴェングラーのテンポだ。」(120頁)
→著者がピアノを学んだ、ローマイヤー教授の話として。

「彼のイメージの中の”美”とは、一点の曇りもない、美しい表面を持っていなければいけなかった。だから、レガートに関して、異常なほどの拘りがあった。」(148頁)
→もちろん、カラヤンの”美”について。

「(しかし一方で、)フルトヴェングラーは、ヒットラーの存在にかかわらず、ドイツ精神という抽象的なイメージを、音楽としえ具現することに成功した指揮者のような気がする。フルトヴェングラーとドイツは、だから、切り離せない。おそらく、本人が好むと好まざるとにかかわらず、古き良きドイツ精神を兼ね備えた最後の指揮者、それがフルトヴェングラーだったように思う。」(226頁)

カラヤンの録音に参加した元団員の方々は、ほとんどその録音を聴かないそうです。
オーケストラという存在がなければ、演奏会は成立しないのに、人々の目はいつも指揮者にばかり集まります。フルトヴェングラーとカラヤンという二「巨匠」の人間を垣間見たという興味はもちろんありますが。しかし、通常は音を奏でても言葉をださない、それぞれの個性的な演奏家の一言ひとことに、この一冊の意義をを感じました。



証言・フルトヴェングラーかカラヤンか (新潮選書)/新潮社
¥1,365
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副題:The Days with Jacques
著者:池澤夏樹
出版:新潮社 / 平成10年4月 / 文庫本
ジャンル:紀行、イルカ、クジラ、ジャック・マイヨール

作家の池澤氏が、素潜りの達人、ジャック・マイヨールと、イルカとクジラとの出逢いを求めて、西インド諸島の島々を巡った紀行文であり、著者が間近で観た、ジャックというイルカにもっとも近い人間(ホモ=デルフィナス)、のストーリィです。

<目次>

バハマ沖

サウス・ケイコス

シルバー・バンク

あとがき


気になった箇所のご紹介です。

「素潜りには潜水病の危険がないという利点がある。」(38頁)

「この二頭に深海ダイブを教えてみようというプランがジャックの頭に生まれた。イルカに芸を教える調教師はたくさんいるが、イルカに潜りを教えた人間はいない。主客転倒とはこのことだ。」(46頁)
→グランド・バハマの施設で飼われていた二頭のイルカのこと。幼いときから人間に飼われて育ったため、外洋にでても遠くにいかず、深くへも潜らなかった。

「ではなぜジャック・マイヨールは素潜りで海に入ってゆくのか。(中略)「なぜ、スキューバを使わないの?」とぼくは率直にジャックにたずねてみた。「あれはエレガントではない」と彼は言った。完璧な答えだ。」(87-88頁)

「ぼく自身スキューバに対しては似たような気持ちで接してきた。(中略)ものものしくボンベを背負うとずいぶん無理をして水の中にいるという気がする。本当はいてはいけないところにいる感じ。」(88頁)

「「(前略)ここの住民は、道の向かいにある店に行って、ジャガイモを買って家に戻るのに三十分かける。一歩ごとに考えながら足を踏み出す。そういう土地柄だから、彼らを急がせようと思ってはいけない」いい島ではないか。」(91頁)

「ジャックがプロの漁師だったことは、この人を理解する上でなかなか重要だと思う。(中略)知的であっても、彼は書斎の人ではない。いつでも戸外にいること、海の中にいること、現場で動いていることが彼の知性を動かす必須の条件なのである。だから漁師だった日々も幸福だっただろうと想像するのだ。精神と肉体と意志の調和という点でやはり常人ではないと思う。」(115-116頁)

「自然を相手に何かをしようとして、条件がよければ素直に喜び、条件が悪ければそれを克服することを喜ぶ。本当にひどいことになれば黙って耐えるのだろう。(中略)提供してくれるものをそのまま受け取るしかない。たぶんジャック・マイヨールはその達人なのだ。」(136頁)

「記録に挑戦している時、精神と肉体を分ける西洋流の思想では捕らえられないものがあると彼は考えた。それがヨガの門を叩いた理由だという(同じようにして禅にも教えを乞うている)。」(158頁)

「ジャック・マイヨールの名はイルカと深く結びついている。(中略)しかし、実際に近くで見ていると、イルカとできることは一通りしてしまったという印象が強いのだ。(中略)だが、クジラの方は違う。彼はまだまだクジラと一緒にすることがある。クジラに教えてもらうことが多いと言った方がいいかもしれない。」(170頁)

「「クジラも歌う?」「歌う。いつも歌っている。あれは偉大な生き物だ。」とジャックは言って、遠くを見た。」(175頁)

「彼は過去の話をするのを好まない。(中略)その過去が現在を説明するのだと言っても、本人は過去の業績で今の自分を評価してほしくないと思っている。」(181頁)

「シロナガスクジラと泳ぎたい。考えてみれば、これはほとんど無価値な、その分だけ詩的で哲学的な願望である。ジャック・マイヨールという男の精神のいちばん奥にあるのは、何かしら偉大なものに近づこうという意志、自分の内なる力によってそれを実行したいという欲望らしい。」(185頁)

「西欧のいろいろな言語でクジラという言葉がみな「回転」という意味を語源に持っている、とメルヴィルが書いていることをぼくは思い出した。」(195頁)

「夜風が涼しい甲板で、ジャックがしてきたことの意味を考えた。(中略)ここで大事なのは、彼のしたことがわれわれみんなにとってどんな意味があるかということだ。二十世紀、人間の生活はずいぶん変わった。しかし、それは科学技術に頼る変化であって、人間そのものは少しも変わっていない。(中略)だが、ジャックはまるで違う原理によって新しいことをした。彼はわれわれみんなの中に眠っていた能力を引き出したのだ。(中略)水の中では呼吸できない、だから水の中でに長くはいられないと信じている。しかし、その限界を人間はずいぶん過小評価してきた。(中略)まして100メートルを超えるなど生理的に不可能、論外な話だと学者まで含めてみんなが考えていた。(中略)ジャックは深く潜った時の自分の身体の反応に耳を傾け、いわば自分の身体と何度となく親密な議論を重ねた上で、できるという結論に達した。(中略)ジャックは実際に100メートルまで潜り、臆病な学説をひっくり返した。」(200-203頁)

「ジャック・マイヨールにとって素潜りでできるかぎり深く潜るとか、イルカと遊ぶとか、クジラと共に泳ぐとか、そういうことはその時々の目的に過ぎない。彼の気持ちの最も深いところには地上を捨てて水の中に帰ってゆきたいという夢想があるのだ。」(219頁)

「水から上がった時の彼の満足感と淋しさの混じった表情、あれはそういう思いのあらわれである。(中略)生きる苦しみなど何一つ知らず、生きることの喜びだけを大海から感じ取り、その喜びの意味について、宇宙全体の中に自分がいることについて、かぎりない瞑想をつづけているクジラと同じ思いを共有したい。クジラが見る夢を共に見たい。」(221頁)

ジャックは、自ら命を断ちました。
多くの人がその謎に、意味を知ろうとアプローチをしました。
しかし、ここで池澤氏が述べている「解」が、大きな一つだったのではないでしょうか。
真相は、ジャック本人しか知りません。
彼は、還るべき場所に還っただけなのです。
もうすでに姿を変えて、私たちのすぐそばの海まで来ているのかもしれません。



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