『自分と自分以外』(評価★★★★★) | 遠近法で描く中国 -2nd Season-

遠近法で描く中国 -2nd Season-

片手にピストル 心に花束 唇に火の酒 背中に人生を。 

副題:戦後60年と今
著者:片岡義男
発行:日本放送出版協会/2004年
ジャンル:日本再発見、エッセイ

日経新聞夕刊に掲載された「プロムナード」、WEBサイト「先見日記」に連載されたコラムを中心に、作家・片岡氏が遠近法で描く、戦後60年をテーマとしたエッセイ集です。
帯からの引用です。
「物心がつき始める瞬間というものがもしあるなら、僕にとってそれは、広島に投下された原爆の閃光を見た瞬間だったような気がする。こじつけるわけではなく、あの瞬間から意味のおすそ分けを謀るわけでもなく、まったく偶然に、物心ついて以来の僕は、あの瞬間から始まっている。この光だけは過去にならない。だから僕はいまもこの光の中にいる。(本文より)」

[目次]

第1章 子供の頃のまま

その光を僕も見た / 蟹に指をはさまれた
こうして覚えた日本語 / セメダインに出会った日
ワシントン・ハイツの追憶 / トマト、胡瓜、豆ご飯、薩摩芋
めだかと空と貨物列車 / お母ちゃんという人
縦書きか横書きか / 二百字詰め原稿用紙八百枚
雨の京都で下書きをする / なにもなしで始めた
もの作りの原点がここに / 作家とは何か
自分らしさを仕事にする / 考えるとはなになのか
やがて隠者になるのか / 子供のままの自分
内省のアクア・マリーン / 爆弾の穴について思う
五歳の僕がここにいる / 時間を見方につける仕事
過去とはつながっていたほうがいい

第2章 猫と日本語と東京の瞬間

一九五七年の春をさまよう / 「そいつぁ、いかすぜ」
学生さんと呼ばれていた / 死語と遊ぶひととき
ガールたちの戦後史 / 「がんばる」とはなにだったか
電車の中で食べました / 海苔を巻いたおにぎりの謎
引っ越しという自己点検 / 服を見ればわかる
スパム・アンド・ライスの日 / 東京の瞬間を生きる
庭にあらわれた猫 / 鮎並の句を詠む
「の」の字のコレクション / 「時代」は「自分」にまかせろ
「わからない」と答える人たち / 体に悪い日本語
身を守ってくれる日本語 / 日本語が消えていく
これからも生でいきますか / 近未来を書きませんか
映画の不安 / 「と思います」をめぐって
家庭から遠かった男たち / 提灯に誘われて

第3章 謝罪する男たちの国

強烈なキャラクターです / 自然から遠く離れて
いきづまりに立ち会う / 日は暮れた、道はどこ
庶民の不安はどこから / ただそれだけの十六年
団塊の世代という戦後日本 / 正社員という絶滅危惧種
社員証と高い付加価値 / 不況はなぜ終わらないか
仕事と結婚と性格の不一致 / それはもう終わったこと
物価とはなにか / 千四百兆円分の身の危険
この国の動き方 / 「抵抗勢力」と「バブルの崩壊」
長期低迷経済の丸飲み / なんとかしてもらいたい人の終わり
自分探しと日本の不況 / あのときの日本といまのこの日本
謝罪する男たちの国 / お詫び申し上げる人
性悪説でいこうか / 大統領は再選されるか
大統領命令と日本 / 「不断の努力によって」
現実に引きずられる国

あとがき


このエッセイ集は70年~80年代の片岡氏のエッセイの雰囲気も残し、かつ最近の片岡氏らしい歯切れのよい批評も収められています。
気になるところの引用です。
「自分で考える力。なにかを考え出す力。考えをまとめて方向を見つけ出す力。それを実行に移す能力。そしてその過程のなかで、なにごとかをひとつまたひとつと、達成していくという機能のしかた。自分とは、こういったことのぜんたいだ。(中略) 自分というものが、完成されたかたちで丸ごとどこかに転がっていて、それを見つければそれが自分になるという。探して見つかる自分があるとすれば、それは記憶をすべて入れ替えてつくるサイボーグのような自分だ」(59頁)
→簡単に「自分探し」という言葉を使う人たちへの批評であり、それ自体が本質を脱していることを明らかにしています。

「目を覚ます直前、ほんの一瞬、水の中に浮かんでいる感覚がある。その感覚のなかを自分は上昇していく。水のなかからその外へと、自分は出ていきそうになる。だから水のなかへ自分を戻そうとして体に力を込めると、そのとき目が覚める。眠っているあいだは誰もが水のなかにいる、という説をどこかで読んだ、あるいは聞いた。ベッドに起き上がるとき、自分の体の重さを自覚する。そうか、これが自分という存在なのだ。」(71頁)
→まさに片岡さんらしいものの書きかたです。どこか共感できませんか。

「日本社会が二極化しつつあることを、いまではほとんどの人が認めている。二極化とは、顕在する経済格差そのものであり、二分法の最たるかたちだ。下世話な言葉でもっとも端的なのは、勝ち組・負け組という言い方だろう。日本の経済が縮小し、弱くなっていく過程と、時をおなじくして出現した言葉である事実に注目すべきだ。勝ち組・負け組とは、たくさん稼いで羽振りが良いか悪いか、つまり金融資産のあるなしのことだ。」(94頁)

「経済の縮小は不況となり、それがディフレーションと結びつき、その螺旋階段をいまの日本は加速度的に下降しつつあるという。この事態と並行せざるを得ない新卒は、したがって就職難のなかにある。その就職難の核心にあるのは、いまの日本の新卒を社員として雇用することに、少なくとも短期的にはなんのプラスもないどころか、明らかにマイナスであるという、大学および大学卒業生というものの価値の、ほぼ全面的な失墜だ」(98頁)

「そのスタート地点から、「がんばる」はこんなふうに他律的そして受動的だ。他律的にそして受動的に受け止めた多くの「がんばれ」を、自分という人は自分で自分に向ける。自分はこうしてひとりだけの状態に置かれることになる。自分ひとりだけでやみくもにおこなう努力。「がんばる」はこういうものになりやすい。多くの人の知恵は参画しないしかけだ。「がんばれ」と言ったそのとき早くも、そう言った人たちは、「がんばる」当人との関係を、すっぱりと絶っている。「がんばれ」という言葉は、じつは酷薄な言葉なのだ。」(106頁)

「それなのになぜ「わからない」のかというと、考えてないからだ。なぜ考えてないのか、その理由はきわめて単純なものだ。考えられないからだ。ではなぜ考えられないのかというと、自前できちんと考えるための豊富な材料をまず持っていないし、歴史感などは皆無であり、おそらく歴史感という言葉の意味すら、もはやつうじないのではないか。そして、自分ひとりで最後まで論理をつきつめて考えをまとめる、というような訓練の蓄積も、悲しいかなゼロであるからだ。」(141頁)
→アメリカとイギリスがイラクと行った戦争を、日本は支持するかというアンケート調査に対して、半数を超える日本人が「わからない」と答えたそうです。

「目に見えないものの最たるものは、論理の道すじというものだろう。それは正しく考えれば正しく見えてくるものでしかないが、自分の頭で考えるためのいちばん最初の出発点は、「なぜ?」という質問だ。「なぜ?」という質問をすべて排除した勉強、それが暗記だ。自分にとって切実な出発点に立っていないから、暗記した知識はすぐに忘れる。だから何の役にも立たない。」(188頁)

「日本の経済はこれからも悪い状態が続き、前方にはさらに悪い状態が待っているだろう、と七十パーセントを超える人たちが思っているとは、自分たちの質の低さを七十パーセントを超える人たちが自ら認めていることにほかならない。彼らの質の低さが経済の低迷を招き、その彼らは低迷する経済を受け入れるほかにオプションを持たないから、そこに生まれていくのは長期的低迷経済だ。」(233頁)

「自分はこれからなにをしたいのか、どんな方向へいきたいのか、なにに喜びたいのか、なにを幸せと感じるのか、どんな時間をどのように蓄積させていきたいのか。自分と言う物語を求める、あるいは作ろうとする、もっと良いかたちでと内容で生存への、切実きわまりない希求。これがない、なにも見えていない、なにもわかっていない。そもそも考えたことすらないから、いまも考えることが出来ないまま、小さな日常のための品々は安くなったおかげで、時間をやり過ごすのはたいそう楽だ。」(239頁)


これまでに書いたような内容ばかりではないのですが、よくNHK出版がこのような趣旨の本を出せたなという思いがしました。
片岡作品に対しては、ぼくがファンであるがためになかなか最高評価をつけることがないのですが、このエッセイ集はかなりお勧めできる作品になっています。

自分と自分以外―戦後60年と今 (NHKブックス)/片岡 義男
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