愛についての考察は相当難しいものですね。いろんな書物や文献で愛の文字が量産されていますが、一義的な結論はありません。じゃあ、どこまでもいっても愛についてはループするのかっていうかというと一概にそうでもないように思います。いつの世も愛があるからこそ成り立っているし、人類も存在できているんではないかと思います。その部分には間違いないと思ってます。
前回、有島武郎の「小さき者へ」では、妻子に贈った美しくも切ない短編を紹介しましたが、今回は、遠く遥か昔、1300年以上前の万葉人が歌った愛についてです。
そもそも"愛"という字は”愛し(かなし)”と読んでいて、切なさや、いとしさ、かなしさ、つらさ、こわさなど、いろいろな意味を含んでいるそうです。この”かなし”という響きが日本語の美しさ柔らかさを優しさを感じさせてくれます。日本に生まれてよかったと思えます。この”愛し(かなし)”という言葉は、万葉集をはじめ、古今和歌集や伊勢物語ほか、日本の古典文学にはたくさん使われているということです。それほど愛されている言葉なんですね。
万葉集の東歌に
多摩川に曝(さら)す手作(てづくり)さらさらに
何(なに)そ この児の ここだ愛(かな)しき
という歌があります。
多摩川の清流に愛しい娘が税として都に送る手織の布を曝している。サラサラと流れる澄んだ水に、布はアクがとれてさらさらに(新しく白く)なる。どうしてこの娘はこんなにこんなに(さらにさらに)可愛いのだろうか
と愛でる娘を歌っています。いつの世も人を好きになるということは清々しくほっこりさせられるなぁって思います。
大伴旅人の歌には、
湯の原に鳴く葦田鶴はわがごとく
妹に恋ふれや時わかず鳴く
訳:湯の原で鳴いている鶴は、私のように妻を恋い慕うのであろうか。
鳴きどおしに鳴いている。
という、鶴の鳴き声に妻思う気持ちを歌った切なくも美しい歌です。
山上憶良は、
銀も金も玉もなにせむに
まされる宝子にしかめやも
訳:銀も金も宝玉もいったい何になろう。
これら優れた宝も子に及びはしない。
と、子を思う気持ちは何物にも変えがたいと歌っています。
また、田氏真上は、
春の野に霧立ちわたり降る雪を
人の見るまで梅の花散る
訳:春の野に霧が立ち渡って、あれは降る雪かと
誰もが見紛うほどに梅の花が散っている。
と、梅の花が散る姿に春に降る雪だと感嘆の歌を歌っています。
これからは、何れも妻や子や花を愛する姿を見事に歌っています。
いつの時代にも愛は影になり日向になり、万物を包み込んで、生の大事な部分を司ってるんだなぁって思います。考えれば考えるほど、触れれば触れるほど、難解なパズルへと変貌していく愛、素晴らしい。
前回の文で変テコな箇所があったので直しました・・・
失礼致しました。
つづく....