京都観世会例会 6月 雨月/夕顔/項羽 | 翡翠のブログ

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今日は一日、雨がひどく降るということで、行くか少し迷っていたのですが、6月の京都観世会例会へ。

 

演目は、「雨月」「夕顔」「項羽」。能の3本立てという贅沢なプログラム。3本全て、まだ観たことがありません。

 

「雨月」

西行法師が住吉に参詣し、老夫婦に宿を借りようとする。夫婦は、尉は時雨の雨音を楽しむため軒端に板を葺こうと言い、姥は板間に洩る月影を愛でるために軒端を葺かないと言ってもめるていると伝え、「賤が軒端を茅きぞわづらふ」という下の句に、上の句を西行に望む。西行が「月は洩れ雨はたまれととにかくに」と上の句を付けると喜び西行を招き入れる。

西行が眠りにつくと、末社の神が現れ老人は住吉明神の化身と教える。そこへ、宮人に降り遷った明神が現れ、西行をほめ、和歌を讃え、舞を舞う。やがて神は上って離れ、宮人は元に戻る。

 

和歌の徳を神が喜ぶというのは、「巻絹」に似ているように思います。神が感謝を伝えるために宮人(巫女)が降りて乗り移るという点も似ています。舞の中で、かがんで落ち葉をかき集めるような所作があったところが面白く思いました。

 

「夕顔」

源氏物語で読んでいて、能の元になった筋は知っていますが、能の舞台を観る機会はこれまでありませんでした。同じく夕顔を元にした能「半蔀」も観たことがなかったのですが、こちらは、やっと先日の京都薪能で舞台を観る機会がありました。

 

また、少し前に安田登さんのオンライン講座「立体的によむ 『源氏物語』と能」を視聴したのですが、そちらでは源氏物語の中から六条御息所と葵上を描いた「葵上」帖と能「葵上」。そして源氏物語「夕顔」帖と能「夕顔」「半蔀」について語られ、面白かったです。

 

「半蔀」と違って、こちらの「夕顔」は「何某の院」、源融大臣の河原院の跡で、夕顔が物の怪に襲われ亡くなった場所を舞台としています。謡本の解説には、夕顔の花の持つ情緒性は「半蔀」ほど無いとありました。「半蔀」は花の夕顔の精がシテという解説も読んだことがあるので、それに比べると「夕顔」は人の夕顔の霊がシテということかもしれません。

白地に白金銀の刺繍の入った衣装も、やわやわと美しいのですが、やはり先日の「半蔀」と同様、女性の舞部分が長く、なかなか、まだまだ味わいきれなさを感じます(眠くなるとも言う)。

 

「項羽」

草刈男が船に乗ろうとすると船賃を求められる。いつもは払ったことがないというと、刈った草木の中の1本の花を求められる。理由を尋ねると、その花は項羽の妃虞氏を葬った塚から生えた美人草だと答え、項羽の最後について語り、自分は項羽の霊だと明かし回向を頼んで消える。

夢に項羽と虞氏が現れ、自分たちの最後を再現して舞う。項羽は味方の裏切りにより四面に楚歌を聴くこととなり、妃虞氏は耐えかねて身を投げる。助けられなかった項羽は怒って戦い、最後は自刃して亡くなる。

 

妃虞氏は、夕顔以上にきらびやかで華があって美しい。舞を舞っている間は、橋掛かりから項羽がじっと見つめているのですが、恐ろし気な面を着けているのに、虞氏への愛が伝わる深い想いのまなざしを感じました。虞氏が身を投げる場面は、一畳台からそっと降りかがむだけで、そこまで身を投げる感は無かったのですが、ふっとかがむ場面は、ハッとしましたし、その瞬間に、手を伸ばし止めようとする項羽がまた、グッときました。そして、その後、間に合わず救えなかった項羽が槍をパンと投げ捨てるところは迫力でした。憤怒の奮戦で戦い、しかし遂に橋掛かりの幕近くで自刃する展開が、とてもドラマチックで劇としても面白味が大でした。

 

今回の演目の中で最も面白かったです。「夕顔」を観るために行ったのですが、項羽が面白くて、すごくて、豪雨の天気予報に行くのを迷ったのですが、行って良かったです。

 

今回、ロビーに「観阿弥祭」のお供えが飾られていました。観阿弥の命日として六月に観阿弥祭(東京観世会では祖先祭)を行っているのだそう。そして上演プログラムにも、かって観阿弥作と考えられていた「芦刈」「自然居士」「芭蕉」「猩々」の仕舞が上演されました(現在は、「自然居士」のみが観阿弥作だろうと考えられているそう)。