名古屋能楽堂 三月特別公演 玉鬘 是界 | 翡翠のブログ

翡翠のブログ

日々の徒然をつづっています。コメントは承認後公開させていただきます。

昨日は、名古屋能楽堂へ三月特別公演を観に行きました。今年の能、7舞台目。

演目詳細
能 金剛流  「玉葛」 シテ 熊谷眞知子
狂言 和泉流 「骨皮」 シテ 野村又三郎
仕舞 金春流 「西王母」 シテ 鬼頭尚久
仕舞 観世流 「田村 キリ」 シテ 久田三津子
仕舞 宝生流 「采女 クセ」 シテ 衣斐愛
能 喜多流 「是界」 シテ 長田郷

 

令和5年度の定例公演のテーマは「徳川家康と能・狂言」。

今回のチラシには、59歳の家康と9歳の秀頼が揃って権大納言に昇進した祝賀として、慶長六年(1601)三月十一・十二日に大坂城で行われた催しで、一日目に観世大夫の「天鼓」、二日目に金春大夫の「是界」を公演して互いをもてなしあったことが記されていました。

 

今年は大河「光る君へ」で紫式部が取り上げられていることもあって、源氏物語にちなんだ能を観に行くのを楽しんでいます。

今回の「玉鬘」は初めて観る演目でした。源氏物語の中で玉鬘の登場する第22帖「玉鬘」から第31帖「真木柱」までの十帖は、玉鬘十帖とも呼ばれるらしい。サイドストーリーとして、玉鬘は結構深く長く語られる女君です。玉鬘は頭中将と夕顔の娘ですが、先に源氏に見つかったことで源氏に引き取られ養父として世話を受けます。源氏は夕顔を愛していて、あっという間に夕顔を失ってしまったことに非常に傷ついていましたから、本心から形見として玉鬘を大切にする気持ちも感じられますが、一方で義理の父娘として以上の恋愛感情が垣間見えることもあるように思います。蛍の巻(25帖)で兵部卿宮(光源氏の弟)に蛍の明かりで玉鬘を透かし見せたり、柏木や夕霧といった若者たちに玉鬘への想いを競わせたりしているのも、ある意味、疑似恋愛、自分に変わって恋わせているようにも見えますし、自分ほどの男はいないという自信からに見えることもありました。が、最終的には冷泉帝へ尚侍としての入内が決まったにも関わらず、女房の手引きによって髭黒大将に想いを遂げられてしまい、その結婚を認めざるを得なかったのですが。

 

能「玉鬘」は、先週観た能「浮舟」に展開もテーマも似ているように思います。どちらも初瀬詣に来た僧が、船に乗ってやってきた女に出会い、僧に問われて、それぞれ女が浮舟と玉鬘の物語を語り、救いを求めて消える。僧が弔いをしていると、それぞれ浮舟と玉鬘の霊が現れ、執心が晴れたと回向に助けられたことを感謝し成仏するという流れ。まあ、能の展開としては前半に霊や神の化身が現れ、後半に真の姿を現し、苦悩を語ったり舞を見せたりするという流れは多いのですが、今回の、この2つは特にとても似ていると思います。

ただ舞の雰囲気が全く同じなわけではなく、先日の浮舟では水色の衣装で中性的な感じでしたが、今回の玉鬘は赤い衣装で、さらに片方の袖を脱いでいて女性らしい感じ。鬘の髪が一束前に垂れていて、それを舞の中で持ち上げたりする仕草もまた女性らしさを出しているように感じました。

 

手元の能楽手帳の解説では、「浮舟」は横尾元久という素人の作で、源氏物語によりかかりすぎている、観客が源氏物語を知っている前提で書かれており、謡からは理解が十分にならないと厳しい評価ですが、最近は類型にとらわれない女主人公の描き方が面白いと再評価されているともありました。そして、禅竹が能「浮舟」に心惹かれたということを書き残していて、それが禅竹の「玉鬘」執筆の動機になったと思われるともありました。なるほど、だから似ていると。

舞も、他の源氏物語の女君を描いた演目は優雅な舞を舞う三番目物(鬘物)で幽玄の風情を舞うのに対して、「浮舟」と「玉鬘」は三番目物の味わいを残しながら、狂乱のカケリ(異常な状態で動き回る様子を表す所作)を舞う四番目物(雑能、執心、物狂い、怨霊など様々)として描かれているとも説明にありました。

 

一方で、謡の言葉、筋を聴いていると「浮舟」は、薫中将と兵部卿の宮(匂宮)の二人から愛され、どちらも選べず耐えられず姿を消したところ、物の怪につかれ成仏できず苦しんでいる、と、苦しみの元が薫と匂宮のどちらも選べなかったこと、結果、逃げ出したことによる執心と推量できるのですが。

「玉鬘」の執心については、チラシの解説にも「玉鬘の苦しみの源が何であるかを能では語っていない」「その答えは源氏物語の中にあります」とあるように、謡には明らかには語られていません。「浮舟」以上に観客に背景知識を知っていることが求められているということでしょうか。

 

能楽手帳でも「ヴェールを通して見るような描き方が禅竹の特色とされているが主題がとらえにくい」「後半の悩みの根源に関して説明がない」「観客が源氏物語を読み熟知していることを前提としているのだろうが、戯曲とていの不備はまぬがれない」「しかし不思議な魅力がある」と厳しめの評価でした。そして手帳の著者の考えでは、「源氏物語で多くの男から密かに激しく思慕され、入内後に心に染まぬ髭黒大将の妻に迎えられ」「自らも千々に心を悩まし、多くの人の心を迷わせた業因が狂乱の原因としてある」とありました。能「源氏供養」において、源氏物語を書いた紫式部が嘘の話を書いたことによって成仏できず苦しんでいると描かれていたことも思い起こすと、当時としては、玉鬘もそのように罪があると考えられたのだろうと思いますが、今の時代で考えると、一方的に勝手に思われ争われて困り、やっと素敵と思った冷泉帝と結婚できると思いきや、全く好みでない髭黒大将に襲われ、結婚するはめになる全くの被害者で、それで執着が生まれたことを業として言われるのは哀れと思います。

 

ただ、実際の源氏物語では意に添わぬ結婚ではあったようですが、多くの子に恵まれ、最終的には子らの出世が足踏みして困ってはいたようですが、不本意な結婚にこだわり続けず並み以上の幸せをつかみ取った結構強い女であったようにも思いました。

浮舟と玉鬘は、最終的な生き方も思いも異なる二人の女性であるので、ここまで類型化したそっくりな演目とせず、それぞれに合った演目が生まれてくれていたらとも思いますが、どうなのだろう?能に詳しい人が見れば、それぞれに違いを感じて観られるのだろうか?

 

もう一つの演目「是界」は、スペクタクルな話。

唐の天狗、是界坊(善界坊)は唐で慢心する者を全て天狗道に引きずり込み、日本にも勢力を広げにやってくる。太郎坊に比叡山を狙うよう勧められ襲いに向かいます。

都に向かう比叡山の僧正を襲おうとするのですが、僧正が不動明王に祈願すると是界坊の術は破られ、地に落ち逃げていきます。

 

前シテでは是界坊も太郎坊も山伏の姿に素面で現れるので「あれ?」と思っていたのですが、後半では真っ赤な髪に面を着け、輝く金の上衣に鳥の羽の団扇を持ち、豪華で勇ましい。実際には悪者で、善者の春日龍神の龍らとは正反対のはずなのですが、同じようにダイナミックでカッコよくて、おお!と単純に舞台を楽しみました。