George Orwell "Shooting an Elephant" | 翡翠のブログ

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洋書読書会の課題本、

George Orwell "Shooting an Elephant"

 

表紙に象が描かれているものの、まさか本当に「象を撃つ」物語とは思わず、何か比喩的な話かと思いきや、本当に象を撃つ話だった。

 

ジョージ・オーウェルは『動物農場』と『1984年』は読んだことがあり、この作品も事前情報なく読んだ時点では、てっきりフィクションの小説かと思って読んでいました。事実の部分があるとしても、てっきり見聞きした話を元にしているとか、かと。ところが読書会に参加して、この話がエッセイであり、自分の体験を元にした自伝的な物語と知って、驚きました。

というのも、最初に読んだ時には主人公に対して、語られている心理描写が本当ではない、嘘をついている、正直ではない一人称の語り手のような気がしていたからです。そんな風に感じられる人物として人物造形を描いているのだろうと考えていたので、それが実は自分自身なのだとすれば、ずいぶん赤裸々なようにも、自身に対して批判的で皮肉的でもあるように思われました。

 

「帝国主義、植民地主義」を批判してはいるけれど、実際には体制の側の人間であるし、物語中にあるほど、体制側の警察官がいじめられるなんてことが本当にあるだろうか?と思ったり。ビルマ人ら現地人を「yellow face」と読んでいる部分も差別意識を感じたし、遂には象を撃つことになって、「happy sigh, as of people who see the theatre curtain go up at last,」と周囲の付いてきた人々が物見高く喜んで見物していると、ミャンマーの人々が、まとめて画一的に描写され、一人一人に異なる思いがあるとは全く描かれていないところも、自身の想いを繊細に詳細に描いているのに対して、おおざっぱでひとくくりに思いましたし。

 

象を撃つことになる葛藤の場面でも、「when the white man turns tyrant it is his own freedom that he destroys.」や、「every white man's life in the East, was one long struggle not to be laughed at.」「A white man mustn't be frightened in front of ‘natives’」と、作られた立場によって、その立場にあった行動が現地人側から求められる、現地人に笑われたり、怖れていることを知られてはいけない、だから、仕方なく、周囲の人の期待に応えるため、期待する姿であるため操り人形のように、自分の本当の弱さや恐れを知られまいとして撃ったと書かれていることが、言い訳のように読めて。そうしなければならなかったと自己分析しているが、そうしなければならなかった理由は本当はないと思え、自分を批判しつつ、実際はそれに流れ、その流れにのっている。自分の思うこと、考えていることを一人称的に言いながら、それが嘘をついている、正直でない語り手に思えたので、主人公がオーウェル自身ときいて驚いたのです。自身のことであるなら、書かなければ隠せていた思いを、こう明かしてしまうとは、自身を見つめて、その全てをさらけ出す、作家って因果な仕事だなあとも思いました。

 

ミャンマーの人側から描いた物語も読んでみたい。最近、アフリカや韓国など、英米以外の文学も少しずつ読む機会は増えています。外側から書かれていたことはあっても、その国の人の視点、想いが語られていない気はするので、そういったまだあまり知らない国、読んだことが無い国の人が書いた物語を読んでみたいです。