SFで、AI ものは、とても好きです。それも、あまり人類と敵対しないタイプのもの。ジェイムズ P.ホーガン「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」のコンピューター「ゾラック」のような。
SFマガジンの2月号は、「AI との距離感」というテーマ。口絵イラストはAI生成、特集扉の編集部の言葉には、その入力を受けての会話AI 「ChatGPT」の生成した文章が掲載されているのですが、それがまるで、私の感想文、私の感想ブログの文章のようで。すばらしい初めて知ったり感情を励起するような中身のある内容の文章ではないけれど、私のつたない、小学生のような浅い感想文レベルでは十分あって、評点的な宿題作文やレポートくらいなら、もう既に書けそう。
掲載されている短編、連載は、チマチマ少しずつ読み進めているのですが、紹介されている新刊から1冊、Twitter での紹介でも気になっていたので、年末~正月に読み、今年のSF1冊目になりました。
柴田勝家 走馬灯のセトリは考えておいて ハヤカワ文庫
短編集で、1話目の「オンライン福袋」が、まるでリアル、実際にあったことをドキュメンタリー的に書いているように読めて、あれ?SF小説と思って買ったんだけど違った?本編に入る前のリアル事情の説明?と、戸惑いながら読み進む・・・と、そこから、フッと現実と虚構の敷居をいつの間にか越えて、不条理小節か何かっぽく。「絶滅の作法」は、完全に人類は絶滅してしまっているのですが、描かれるその後が、妙にシュールで面白い。
しかし、一番心に残り、また読みながら色々考えては止まり、読んでは止まって考え、したのは表題作の「走馬灯のセトリは考えておいて」。故人のライフログや提供された情報を元に、人が死んだ後も、その人(プログラムされたAI)と会話が可能となった世界で、そのプログラムをする人生造形師(ライフキャスター)が主人公。バーチャルアイドルの中の人が病気で余命いくばくもなく、主人公が依頼を受けるが、作るよう依頼されたのは、その依頼人自身ではなくバーチャルアイドルを復元し、依頼者の死後に葬式代わりのラストライヴを行うというもの。
年齢的に、また環境的に「死」というものを、考える機会が増えてきました。健診にひっかかったり、身近な人が亡くなったり。自分と年の近い有名人が亡くなったり。それどころか、何の非も無く、ただ歩道を歩いていて、車が突っ込んできて亡くなる方もいて、死は遠くにあるとは思いたいものだけれど、どこにあるかは、全くわからないことに、ふと気づくと、寄る辺ない、不安な気持ちになることもあります。
私は、人のアイデンティティを、人格を、人を形成するのは、記憶と思っています。心とも考えられますが、その心、感情を形作るのも、記憶であり、経験と思っています。では、もし自分の記憶を、コンピュータなり、クローンなりに完全に移すことができるなら、それは自分であるのか? 理性的に考えると、そうだと思います。しかし、同時に、では、もし自分の記憶をそっくり残すことができるようになったら、自分が死ぬときに、全く何の恐れも悲しみも嫌悪もなく、「この私は消滅、でも、私’(ダッシュ)が残っているから、全く平気」とは、感情的には思えないようにも思っています。
この作中で残るプログラムは、私その人なのか? あくまで残された人が、スイッチ一つで呼び出したり、消したりできる存在で、自立したAI とは言い切れない。しかし、プログラムとプログラムが出会って、喜んでいる様は、新しい第二の私その人であるようにも思える。いや、そうはいっても、私そっくりな私ではないものとも思える。もう死んでしまった私は、そうであっても不満は持てないから良いのか?読んでいて、不安はかすかに残り、あれこれ夢想してしまうけれど、それでも、少なくとも物語の結末は暖かい。
ただ、本当の親は、いつかは死ぬ、子はそれを受け入れ、別個のものとして生き続けなければならないものなのだけれど、このキャストをいったん受け入れてしまったら、ずっと、親離れ、子離れの無いまま、手放すことはできなくなってしまいそうで、別の意味で恐ろしいかもとも読んでいて思いました。