源氏物語 レクチャー | 翡翠のブログ

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今日は毎週参加している源氏物語オンライン読書会の特別イベントで、読書会前にレクチャーがありました。講師の先生は、山本淳子(京都先端科学大学人文学部教授)先生。

 

私が普段読んでいる源氏物語の本は、小学館の古典セレクションという阿部秋生先生他の方々監修の本です。合わせて参考文献に読んでいるのが、以前に出版された「週刊 絵巻で楽しむ源氏物語五十四帖」朝日新聞出版という雑誌です。この雑誌、帖ごとの絵巻がたくさん紹介されていて絵本、挿絵的に楽しいのですが、加えて平安時代の文化等の背景知識、図解、和歌の説明なども載っていて非常に読みごたえがあります。その中に山本淳子先生の「御簾の内がたり」というエッセイがあり、連載を毎回楽しみに読んでいました。

源氏物語自体に対する解説はもちろん、源氏物語が書かれた平安時代当時に書かれた別の参考文献から周辺のできごとなどにも触れられて、とても楽しみに読んでいました。

 

この連載は、まとめて1冊の本「山本淳子 平安人の心で「源氏物語」を読む 朝日選書」にもなっていて、今回のレクチャーに先がけて読んだのですが、当時の連載以外の書下ろしもあって非常に面白く読みました。

 

今回のレクチャーのテーマは「紫式部と『源氏物語』」として、紫式部が、どのような経緯で源氏物語を書き始めたのか、源氏物語に込めた思いは何だったのか、をお話くださいました。

 

(紫式部日記)からは、夫を亡くした悲しみから物語を読み、友人と感想を手紙で交わしていた、守られた世界にいたのが、その後宮仕えに出て、「人生の苦」を見つめることになったことが紹介されました。

(紫式部集)からご紹介された和歌によると、夫には甘やかされ、のびのびと幸せで仲の良い夫婦であったらしい。そして夫の死から「なんて人は、あっけなく死んでしまうものなのか」と人生の、はかなさを歌う和歌も紹介されたのですが、これは、まさしく源氏物語のテーマの一つですね。母を亡くし、父を亡くし、繰り返し愛する人を亡くす源氏。先生がおっしゃるには、これは紫式部自身の体験でもあるのだそう。母を亡くし、姉を亡くし、親友も亡くし、夫を亡くした。式部自身の喪失体験が源氏物語に投影されていたのか、だからこそ、喪失の苦しみ、悲しみが、源氏の闇がリアルだったのだなあと感じます。

さらに、先生がおっしゃるには、「恋=乞・請(無いもの、不足のものを強く求める)」であると。だから、源氏は、手に入らない母、藤壺の愛を求め続けたのだと。これは宇治十帖では、薫に引き継がれていますね。手に入らない正しい出自、自分を癒し救ってくれるはずであった大君を求め続けている。

 

レクチャー最後で、先生が紹介くださった紫式部集の巻末の和歌は、とても素晴らしい歌です。私は以前に宇治十帖を読んだとき、あまり結末がすっきりしなかった、浮舟が自分の生を生き始めたようには思えなかったのですが、「紫式部のたどり着いた境地は「生きること」であった、その思いが浮舟に投影されている。身代わりであった浮舟が、人形(ヒトガタ)から人になるかどうかが浮舟の読みどころ」という解説を聞いて、今回の読書会で、もう一度宇治十帖を読み直すのが、一層楽しみになりました。

 

誰れか世に  永らへて見む  書き留めし
 跡は消えせぬ  形見なれども

 

紫式部と源氏物語の関係については、上にあげた山本先生がお書きになった「源氏物語」を読む」にもおりにふれ、取り上げられていますが、先生の近著「紫式部ひとり語り」 (角川ソフィア文庫)に一層詳しく、解説されています。「『源氏物語』誕生秘話。望んでいなかったはずの女房となった理由、宮中の人付き合いの難しさ、主人中宮彰子への賛嘆、清少納言への批判、道長との関係、そして数々の哀しい別れ。研究の第一人者だからこそ可能となった、新感覚の紫式部譚。年表や系図も充実。」(Amazon紹介文より)。紫式部が一人称で自分で語っているという体裁なのですが、レクチャー以外の和歌もたくさん紹介されていて、その和歌によって、紫式部に起きたこと、想い、考えがつづられていました。和歌は源氏物語にも、たくさん登場しているのですが、短い中にこんなにも思いを凝縮して表すことができるのだなと読むと驚き、込められた想いに共感します。

 

レクチャー後の質問タイムでも、たくさんの質問に答えていただけました。私が疑問に思った「源氏物語は二部で、きちんと結末がついてまとまったように思えるにも関わらず、なぜその後を紫式部は書いたのか」という点について、「書きたいものが、まだ紫式部にあった。光なき世の中を書きたかった。当時受けたであろう恋と政治の争いの物語、伊勢物語に影響を受けた物語は書いたから、今度は、ヒーローがヒーローでなくなった、ヒーローがいなくなった、愚かで、まどろっこしい人間の世界を描きたかったのではないか」というお答えでした。このお答えにもまた宇治十帖を読む気持ちが高まりました。

 

もう一つ、とても興味深い質問が会場から出た中にあって、訳本によって藤壺の源氏への感情の描かれ方が違うように思う、藤壺は源氏を、源氏との関係をどう思っていたのかという質問。これは様々な訳本をそれぞれが読んでいる読書会ならではの質問で、私もすごく知りたい部分でした。

これは、研究者の間でも諸説あるそう。そもそも藤壺の感情は、あまり明確に書かれておらず、推定できる個所は少ない。その何か所かの部分から推定して、たくさんの論文が書かれているのだそうです。山本先生のご意見では「藤壺は源氏と同じ想いではなかったと思う、源氏に忍び込まれた時の二人の想いも食い違っているし、もし心が合致していれば、一か所くらいはどこかでそれを示す歌を詠むだろう」とのご意見が説得力があって、なるほど!でした。それでも、多くの研究者の方が、今なお結論をつけきれず、議論されているというのも面白い。

 

ここまで10回の連続マラソン読書会に参加し続けて、ここで先生のお話を聴けて、とても良かった。これからの残りの宇治十帖を最後まで読みたい気持ちのとても強くなるレクチャーでした。