モモちゃんとアカネちゃん | 翡翠のブログ

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中止・延期になっている読書会の課題本、読書メモ、続き。

 松谷みよ子 ちいさいモモちゃん シリーズ

 

モモちゃんとアカネちゃん

「モモちゃんとアカネちゃん」「ちいさいアカネちゃん」の合本。

 

1冊目以上に、こんな児童書があるのか!?と衝撃でした。

しょっぱなから、パパとママが喧嘩中なのですが、その様子が絵本的でなくリアル。そして、とうとうパパは「靴」だけが帰ってくるようになり、ある夜、ママの元には死神がやってくる。そのときには、アカネちゃんの声で死神を逃れるものの、ママは森のおばあさんに出会い、パパは歩く木でママは育つ木で、二人は小さな植木鉢の中でからまって、枯れかけていると言う。そしてママは決心をするのでした。

 

児童書といっても、確かに幅が広くて、ヤングアダルトと分類されるものは、非常にリアルな現実が描かれていたり、大人が読んでも読みごたえがあるものがたくさんあるので、離婚や別れを描く本は、他にもあると思うのですが、モモちゃんとアカネちゃんが小さい幼児であること、しゃべる猫やモノたちなど、小さい子を読者対象としたようなファンタジーらしい内容であることを思うと、同時になんてリアルなのか、本当に対象は幼児や子どもなのか?と思う。むしろ、大人になった今読んでこそ、大人の読む本なのでは?と思ったり。

別れることになった夫婦の二人を二本の木として、その在りようが異なることから、別れがお互いのために仕方ないものとして描かれている部分に、とても納得できました。

 

ただ「歩く木」が仕事や世界を飛び回りたい活動てきなものをイメージはしたのですが、つい、気になってネットで他の作品や周辺情報など調べてしまったので、知った内容からは、もっと別の意味の「歩く木」かなとも思ったり。作品の中では、夫への非難めいたことは全く出てこないのですが、私なら納得できないし許せないなと思ったり。実際に、心の中がどうであったかわかりませんが。

「さようならはしても パパはパパ、パパのパパもパパのパパ」と歌い、母子で夫の両親の元を訪れ、娘とパパおおかみで山登りをし。

しかし、この絵本の続巻シリーズは、娘から離婚の経緯を知りたい、書いて欲しい、読みたいとの要請があってのものだそうなので、それなら父親を貶めるようなことは書かないかとも思ったり。それもと、仕事(芸)のためなら、そういう男はそれで仕方ないと思っていたのか、それでも愛していたということなのか。

 

アカネちゃんの涙の海

「アカネちゃんとお客さんのパパ」「アカネちゃんのなみだの海」

 

それでも、子どもが本当に大切なら「歩かない」こともできるのではないか、それでも「歩く」を優先したのなら、子どもを捨てたということではないのか?と、私自身は正直思ってしまうのですが、ただ本書を読んで、子どもはパパを愛しているし、それを取り上げたり嫌いに思わせたりさせてしまうのは、やはり親のエゴなのだろうとも思ったり。思ってもママのようには、ふるまえませんが。愛の差なのだろうか。

 

そして、だんだん死神のサインが心臓に増えたパパが、とうとう亡くなって、モモちゃんとアカネちゃんはお別れをするのでした。

 

少しずつ大きくなったモモちゃんと、アカネちゃんが、別れや死について考えたり、核実験や戦争について、疑問に思ったり、怒ったり、考えたり、そんな成長の後の追えるお話でした。

単行本「ちいさいモモちゃん」が出版されたのは1964年、最後の「アカネちゃんとなみだの海」が出版されたのは1992年と30年近くかかっての作品。文庫版3巻は2012年に発刊されており、文庫版あとがきには、松谷みよ子さんが2011年に起きた東日本大震災についてふれていらっしゃいます。そうして2015年に、松谷さんは亡くなられておられました。