おはようございます太陽

 

映画オデッセイアを見に行ったのですが・・・私はIMAXでは見ずに普通の、それも『吹き替え版』で見ております。

3時間の大作ですし、大きなスクリーンで起こるスペクタルを見るのに、吹き替えの方が楽に見られると思ったからです。

実際、私が見た映画館では、吹き替え版のスクリーンも満員でした。

 

このポスターを見たらわかるように、この映画は「ギリシア神話」の中のお話しを実写映画化したものです。

「オデッセイア」とは主人公の名前です。(オデュッセウス)

あらすじを書く前に、このお話しの全体像を知っておいたほうが良さそうです

ざっくりですが、こんな感じです。

 

◆前提は「トロイア戦争が終わった後」の話◆
ギリシア軍とトロイアが10年戦い、オデュッセウスは「木馬の作戦」を考えた知恵者として勝利に貢献します。

(勝ったのはギリシアの連合軍です)

 

ではトロイア戦争がなぜ起こったか?

トロイアの王子パリスがスパルタ王メネラオスの妻である美妃ヘレネを連れ去った(誘拐した)ことです。

 

◎なぜ誘拐したか?

きっかけは「一番美しい女神へ」と書かれた黄金のりんごりんご
ある結婚式で、招かれなかった「争いの女神」が腹いせにこのりんごを投げ込みました。

ヘラ、アテナ、アフロディテの3女神が「私のもの」と争い始めます。


◎審判に選ばれたのがトロイアの王子パリス  

(※日本の神話でもありますが、この頃のギリシア世界は神様や半神や人間がまざって暮らしていた時期のようです)
3女神はそれぞれ、パリスに贈り物を約束して自分を選ばせようとしました。

パリスはアフロディテを選び、彼女が約束したのは「世界一の美女を妻にする」ことでした。


◎その美女がスパルタ王の妃ヘレネ
パリスはヘレネを連れてトロイアへ帰りました。


◎ギリシア中の王が取り返しに集結
ヘレネの元求婚者たちは、「彼女の夫に何かあれば皆で助ける」と誓い合っていました。

ヘレネの夫メネラオスの兄で、ミュケナイ王のアガメムノンが総大将となり、大軍を率いてトロイアへ向かいます。

 

その後、10年かかった戦争がオデッセウスの知恵で終了したものの、オデッセウスは故郷へ帰るのにさらに10年かかったというこの10年の物語がこの映画なのです。

 

※実はオデュッセウスはこの誓いの言い出しっぺでした。 

そのため、家族と離れたくなくても戦争から逃げられなくなります。
また、選ばれなかったヘラとアテナは、トロイア側を恨みました。 

アテナがギリシア軍とオデュッセウスの味方になるのは、この経緯があるからです。

 

流れ星ちょっと脱線

アメリカ映画だからか、この映画もご多分に漏れず白人黒人有色人種すべて出演しています。

アジア人(まるで日本人)が下級戦士として船を漕いでたり

アテネとヘレナという女神や世界一の美女が有色人種でした。

ギリシアの彫刻などで自分の頭の中では神話の女神は美しい白人だったため

かなり混乱しました「これ誰??」ってね。(アテナ役はゼンデイア、ヘレネ役はルピタ・ニョンゴ)

でもこれが現代のギリシア神話なのですね。

ま、実際にギリシア周辺はアフリカや現トルコがあり、黒人もアジア人もいてたかもしれませんね)

 

さてやっと映画のあらすじです

①主人公は腕力より知恵と策略の人
力自慢の英雄ではなく、口先と頭で切り抜けるタイプです。

そのぶん、油断や慢心で自分を苦しめる場面もあります。


②神々が人間の運命に平気で口を出す世界
知恵の女神アテナは味方、海の神ポセイドンは恨みを抱く敵です。

嵐や漂流は自然現象ではなく、神の意志だと思って見ると腑に落ちます。

アテネを侮辱した罪によってオデュッセウスはその罰を受けて10年も流離ったのです。

 

③旅は「島ごとの試練」の連続
魔女キルケー、歌で船乗りを惑わすセイレーン、一つ目の巨人などが次々に現れます。

④故郷の留守宅では、妻と息子が待っている
妻ペネロペと息子テレマコスが20年近く待つ一方、財産と妻を狙う男たちが屋敷に居座っています。

帰郷を阻む神々や怪物と、故郷で迫る略奪者たちという二つの流れが、最後に一つになります。

←ペネロペ

 

神話好きな方ならご存じの

一つ目の巨人キュクロプス。

人間を豚に変えるキルケ。

船乗りを歌声で死へ誘うセイレーン。

六つの頭を持つ怪物スキュラ。巨大な渦潮カリュブディス。
これらが15分おきぐらいに突然現れて、どっきりびっくりします。とてもグロテスクです。

 

でも先も書きましたが、これらの受難は戦争を起こした罰なのでしょう

部下や仲間はみな死に、さいごはオデッセウスはたった1人で、さらに数年帰れないでいます。

 

トロイの木馬

このシーンも出てきますが、「そりゃあそうやね」と思うぐらい中では兵士がぎゅうぎゅうに詰まっていて(もちろんオデッセウスも入っている)

それですでに死者もでています。そのまま数日間身動きとれず中にこもったまま。

ここから出てきてもすぐに活躍できる人なんているんかな、なんて神話の話なのについついゲスいこと考えちゃいました。

 

似たようなことはあちらこちらで思うけど、やっぱり大迫力とスペクタクルでそんなことぶっ飛びます。

 

まとめの感想

あの~たとえば日本の神話を聞いていて、とんでもない話が出てきても

「へぇ~、そうなんだ~、もしかしたら深い何かを表してるのかな~」ぐらいは思うけど

特別感激したり、宗教のたとえ話みたいに心に響くまではいかないでしょ?

このお話しも淡々と「神話時代にこんなことが合ったんだよ、神様を怒られたら怖いよ」的なお話しですが

それを現代技術で圧倒的に見せてくれる映画です。

見といて損はないし、神話好きなら「おおお!」と思う事も多々あり、面白かったです。

でも、やっぱり全くなんの知識もないとIMAXでただのアトラクションに乗ったぐらいの感想になる気がします。

 

(今年28本目TV視聴含む)

おはようございますくもり

 

昨日夫婦で映画館にいって

私は「オデッセイア」

 

夫は「踊る大捜査線」を見てきました。

 

その報告はまた後日ニヤニヤ

 

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先日TV(NHKBS)で映画「チャンス」を見ました。【1979年 アメリカ】

出演はピーター・セラーズ、シャーリー・マクレーン

監督はハル・アシュビー

 

【まず余談】

私は今年に入ってシャーリー・マクレーンの映画を偶然ですが三作見ています。

「アパートの鍵貸します」

「マグノリアの花たち」

そしてこの「チャンス」です。 日本で言えば宮本信子さんバリにどんな役でも

自然体な演技がとてもお上手な役者さんですね。

 


◆感想まとめ◆
テレビ欄には『傑作コメディ』とあったのですが、コメディとして笑えるところはほぼ無かったですし、チャンスのことがいつバレるのか、こちらの身が縮む2時間のあげく、あのとんでもないラストでした。

◆あらすじ◆

軽い知的障害があって読み書きが出来ず、仕事以外の時間はテレビばかり見て過ごしている庭師のチャンスは、物心ついた頃から住み込みで働いてきた屋敷の当主の死を知らされるが、その意味を理解出来ないでいる。

 

メイドのルイーズからは「年上の女性と結婚しなさいよ」と忠告され、当主の代理人の弁護士から命じられて、今まで外に出たことがなかったチャンスは屋敷から出されてしまうことになった。

 

ところが出会っていく周囲の人たちは、彼の単純な言葉を、深遠な政治的・人生的発言として勝手に解釈してしまう。(それは身なりが立派だったから、チャンスは雇い主から古着なら着ても良いと命ぜられて、高級品の服や下着、高級な靴、高級なトランクなどを身につけていた(どれもかなり古い物だが)、人は第一印象でいろんな事を判断してしまうという筋書きになっている)
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この映画、単なるブラックコメディとして見るより、
「人は相手そのものを見ているのではなく、自分が見たいものを相手に投影している」という話として見ると、ものすごく怖い作品なんじゃないかな。

チャンス本人には、ほとんど「嘘をついている」という意識すらない。
庭のことを聞かれれば庭の話をする。テレビの話をすればテレビの話をするただ、それだけ。

ところが周囲の人間が、「これには何か深い意味があるに違いない」と勝手に意味を付けていく。

しかも政治家も、大富豪も、テレビ局も、みんな「自分に都合のいいチャンス」を見ている。

 

しまいには大統領とも会談し、世間はますますチャンスをもてはやす・・・

普通のコメディなら、主人公が勘違いされているなら「いつバレるんだろう、楽しみだな」と笑って見られるんですが、『チャンス』は違う。

バレてほしいのに、バレない。
そしてバレないどころか、どんどん出世してしまう。

「ちょっと待って、そんな話になるの!?」という居心地の悪さが延々続くんですよね。

そのうちに見てる方も、いや・・・
①本当に何か特別な人だったのかも
②ただの偶然にしてはおかしい
③でもやっぱり周囲が勝手に神格化してしまっただけなのか

最後まで分からない

考えてみると、これってチャンスの物語というより、チャンスを見ている人間たちの物語なんですよね。
「人は、自分が理解できないものに出会うと、勝手に意味を与えてしまう。」
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私も途中から
「あれ?この人もしかして本当に何か裏のある人だったのに
記憶喪失になってるって話??」とか混乱してきました。

でも「この人、実はものすごい人物なのでは?」と思ったらそれは、映画の仕掛けに完全に乗せられているんですよね。

私はこの映画、「チャンスが何者なのか」という謎を解く映画ではなく、「人間が他人を勝手に物語にしてしまう」ことを見せる映画なんだと思います。
だから見終わって「面白かった」より、「……なんだったの、今の2時間は😑」

と感じてしまう。

 

映画では最後までチャンスは謎の人物です

最後の最後には医師の一人がチャンスは軽い知的障害のあるただの庭師なのではと気がつくのですが、あえてそれを公言しません。

 

そしてそのまま映画はラストへ

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驚くべき事が、とてもひっそりと起こります。

 

え?ええ?えええ???~~~~~となって映画が終わります。

 

だから私は最初は「え?この映画にお金を払うの?」とさえ思いました。

でも、よく考えてみると、人間の恐ろしさをチャンスのそばで次々と見せる

そして最後は各自考えざるを得ない

そんな映画なのですね。

ちょっとチャンスに「チャップリン風味」を感じましたよ。

 

※ちなみに1980年のアカデミー賞の作品賞は「クレイマークレイマー」です。

ピーター・セラーズ は『チャンス』で優秀男優賞にノミネートされていますが最優秀をとったのはダスティンホフマンです。

 

※映画は当時のワシントンが舞台ですが

当時のワシントンはホワイトハウスはあるけれど、まだまだ殺風景で田舎のような雰囲気でした。


(今年27本目TV視聴含む)

 

おはようございます太陽

 

先日ブログ「かいごかいごブログ」のなるこさんとコメント欄でお話していたことなんですが

昔の本や手紙を読んでいると、「いひませう」「おつかひ」のような表記に出会うことがあります。

これ、声に出して読むと「いいましょう」「おつかい」なんですよね。

書いてある通りには誰も発音しない。

子供の頃からずっと不思議に思っていました。

一体なぜ、実際の発音と違う書き方が「正しい」とされていたのでしょうか?

AIさんによると

地球これは「歴史的仮名遣い(旧仮名遣い)」と呼ばれるもので、理由は単純明快でした。

発音の変化に、文字の方がついていかなかったのです。

もともと平安時代には、書いてある通りに発音していました。

「ひ」は本当に[hi]、「ふ」「へ」「ほ」も、今のようにあいまいにならず、はっきりした音で発音されていたのです。

ところがその後、時代が下るにつれて、言葉の途中に出てくる「は・ひ・ふ・へ・ほ」の音は、だんだん「わ・い・う・え・お」に近い、柔らかい音へと変わっていきました。

たとえば「言ひませう」の「ひ」は「い」に近づき、「ませう」の伸ばす音も、今の「ましょう」のように変化していきます。

つまり発音はどんどん移り変わっていったのに、書き言葉の方は古い形をそのまま後生大事に保存し続けた、というのが実態のようです。


江戸時代の国学者たちが古典籍を研究して「正しい仮名遣い」として体系立て、それが明治以降の学校教育でも規範として採用されたため、実際の発音とはズレたまま、明治・大正・昭和戦前期まで使われ続けました。

「では明治の人たちまでは、本当にあの発音で喋っていたのか」

答えは、否。

発音自体はもっとずっと早く、平安末期から鎌倉時代にかけてすでに今とほぼ同じ形に変化していたのです。


明治の人も、実際には「いいましょう」に近い音で話していました。

ただ書くときだけ、はるか昔の平安時代の表記を「由緒正しい」ものとして守り続けていた、というわけです。

このズレがあまりに大きくなったため、戦後の1946年、「現代仮名遣い」への改革が行われました。

当用漢字表の告示と同じタイミングで、学校教育も出版物も一斉に新しい表記へと切り替わる、かなり急な改革だったようです。実際の発音に近い、今の私たちが使う表記に整理されたのは、たかだか80年前のことなのですね。

デレデレこの話を調べながら、ふと思い出したことがありました。

今生きていれば100歳を超える、亡き父のことです。

父はずっと旧仮名遣いで文章を書く人でした。

子供の頃の私は、周りの大人や教科書はみな新仮名(新仮名遣いということにも気づいていなかった)なのに、家では父は

「いひませう」のような古い書き方をしているのが、正直なところ少し恥ずかしかったりしたのでした。

澄ました顔をして父に「ちがうよ」などと指さしで言ったりしていました。

でも今、こうして経緯を知ってみると、あれは「古い」のではなく、父が生きてきた時代の文化そのものを映す言葉だったのだと分かります。


明治・大正生まれの教育を受けた世代の方々にとって、旧仮名遣いは体に染み付いたものであり、戦後の急な改革の後も、そう簡単には切り替えられなかったのでしょう。(父は会社員ではなかったしね)

あの頃気恥ずかしく感じていた父の書き文字は、今思えば、ひとつの時代を生き抜いた証だったのかもしれません。