店を出て、駅とは逆方向、学校へ向かって俺は足を止める事なく走りつづけた。
走りながら考えるのは、頭の中で響いた長谷川と言う名の、隣町の道場の男の言葉。
『剣で決めようじゃないですか。俺が負けたら、お律さんには金輪際チョッカイを出しません。その代わり… 』
…その代わり… 自分が勝ったら慎太郎が律から手を引け、確かそんな様な事を言われんだ…
冷たい風が耳を刺すように吹き付け、俺の頭はどんどん冴えて行く。
…俺はそれを受けた。
相手は格下の剣士。
一度だって負けた事がない。
俺は手を抜かず、真剣勝負に挑み、そして勝った。
確かに勝った。
間違いない。
長谷川は悔しそうに顔を歪ませたけれど、それからは律の前に現れることはなくなった。
だけど…
その先は思い出したくない…
あの夏の花火大会の日、あの桜の木の下で雨の中打ちひしがれた記憶、あの時の感情が胸に湧き上がる。
胸が震え、冷え切っているはずの首筋に汗が伝う。
萎縮して行く心に足が止まりそうになり、俺は両手で自分の頬を打った。
思い出せ。
思い出さなきゃならない。
たぶん、そこに大野先生が抱えている何かを知るヒントがある。
コーヒーに浮かんだ花びらを見た時、俺は直感的にそう思った。
「クソッ、学校って…こんな遠かったかな…ッ」
11月の夜風は氷のようで、息をする度に肺が凍りそうになる。それでも俺は必死に学校まで走り抜いた。
時刻は7時過ぎ。
学校が近づき、外灯に照らされた校舎が夜の空に白く浮き上がっているのが見えた。その後ろには赤く輝く大きな月。そしてその光に呼応するように、学校の北側の空が青紫の光に染まっているのが見えた。それはあの桜の切り株がある方向。
…俺を呼んでる
そう直感して俺は息を飲んだ。
背中がざわざわと粟立つ。
俺は走るスピードを上げた。
既に閉ざされている正門を通り過ぎ、俺は通用門へ向かう。通用門も閉じられているが、正門ほど高くない蛇腹式の柵で塞がれている。
俺は息を整える事もせずに、柵の向こうへ鞄を放り投げ、斜めに交差しているその格子をギチギチと音を立てて よじ登った。
通用門の先は駐輪場。
柵から着地した俺は鞄を掴んで、駐輪場内の狭い通路を再び駆け出した。
そこを抜けると『立ち入り禁止』の看板のかかった簡素な鉄の柵が学校を囲む塀に繋がっていて、柵の先は すぐ林になっている。その林を分割する様に、川沿いに出る道が白く見えていた。
「通れないようにしてあるって小林先生が言ってたっけ…」
小林先生の言葉を思い出しながら、俺はまた柵に手を掛け飛び越えた。
俺は鞄を肩に下げ直し、今度はゆっくりと呼吸を整えた。
その先は、明らかに異様な色彩の光に包まれていて、一歩踏み込めば何かが起こることを暗示していた。
湧き上がりそうな恐怖心を押し止め、俺は一歩、二歩と前へ踏み出す。
ゆっくり、状況を確認しながら、その光の中へ向かう。
額に浮かぶ汗を拭い、少し進むとすぐに開けた場所が見え、俺はまた息を飲んだ。
そこには狂い咲きの桜が強い雨に打たれ、青紫色の光を放ちながらもボタボタと花を散らしている光景があった。
夜空は確かに晴れている。
けれど近づくと、俺の顔にも雨粒が当たり、一歩進むごとに容赦なく俺を濡らした。
そして、進むごとに重くなる足取り。
全身が泥のように重くて怠い。呼吸も酷く苦しい。息を吸う度に肺がゴロゴロと嫌な音を立てて軋む。
…なんで…?
込み上がって来た何かに咳込み、たまらずゴホッと吐き出すと足元の土が血に染まった。その跳ね返りで白い足袋に赤い染みが滲む。
驚きで目を見開くのと同時に自分が袴姿で草履を履いている事に気づき、これが慎太郎の記憶なのだと分かった。
…病気なんだ
このまま…死ぬのか
苦しさに耐えきれず膝を着いた時、
「慎太郎さんじゃないですかい」
飄々とした声が響き、俺は顔を上げた。そこには番傘を指した長谷川がニヤけた顔をして立っていた。
「どうしたんです、こんなところで。確か士官になったんじゃ… それにしては ずいぶん痩せ細って、見る影もねぇじゃねぇですか」
心配する口ぶりの割にその声は笑っているように聞こえた。
「長谷川… か」
俺の口を使って慎太郎が呟く。
「俺はね、先日まで上方に行ってたんでさぁ。商売でちょっとした金子が手に入りましてね。それで戻って店でも開こうかと」
尋ねもしないのに長谷川は意気揚々と語り、俺に向けて傘を差し掛けた。
…そうだ
慎太郎も戻って来たんだ…
方々 律を探し回り、病に倒れ、自分の命が尽きるのを察し、生まれた町に帰って来た。律を諦めることも出来ないまま。
「長谷川、律を知らないか… 探しているんだ、ずっと」
「お律さん? お律さんを探してたんですか?」
「そうだ。江戸へ行っている間に行方知れずになっていて… もう二年も」
「二年も探して? それはご苦労なことで… へぇ…もう二年にもなりますか」
「何か知っているのか、」
長谷川の言葉に俺は立ち上がり、彼の胸元を掴んで語気を強めた。途端に激しく咳込み血を吐き出す。
「うわぁ、高い着物なんですよ、汚さないで下さいよ」
それを見た長谷川が俺を突き放し、
「お律さん…勿体ない事をしました。まだもっと、楽しみたかったのに」
俺が触れた箇所を払う仕草をしながら言い、ふっと遠い目をして笑った。
その顔を見た瞬間、ぞくっと背中が震えた。
「お前… 律に何かしたのか」
俺はよろけた体勢を立て直し、長谷川に詰め寄ると、
「何って、親切ですよ。お律さん、お父上が亡くなって、慎太郎さんもいなくて、寂しい思いをされている様だったので」
長谷川は半笑いの態度を崩さず言った。
「…律に、何をした」
繰り返すと、
「だから、娘盛りにひとりきりで、さぞやお寂しいと思いましてね」
彼も繰り返して笑った。
「何をしたか答えろ」
「…あれもこんな激しい雨の夜でしたねぇ。寂しい女を慰めるって言ったら決まっているでしょう」
長谷川は俺の怒気を嘲笑い、
「慎太郎さんが悪いんですよ、長いこと お律さんを独りにするから」
ため息と共にそう付け足した。
「お前! 俺に負けて、律には近づかないと約束しただろうが」
男女の事に疎い慎太郎にも、長谷川の言葉が何を指すのかすぐに理解出来た。
込み上がってくる怒りで掴みかかるも、長谷川はひらりと身を交わし、
「お律さんも悦んでいましたよ。朝まで、何度も」
クククッと肩を揺すって笑った。
「嘘だ! 律は… 律をどうした」
怒りに震えながら問い詰めると、
「あんなに悦んでいたのに、明け方俺がちょっと うとうとした隙に家を飛び出しちまいましてね。追いかけたんですが… 俺の目の前で川にドボン、でさぁ」
長谷川は両手で飛沫が上がる様子を作ったあと、首筋を掻きながら残念そうに目を伏せた。
「律が川に…? 身を投げたのか」
問いかける声が震えた。
頭が真っ白になって、自分が今、呼吸しているのか、していないのかさえ分からなくなる。
「前の晩の大雨で川が増水してましてね。たぶん海まで流されちまったでしょうねぇ」
しみじみ語る長谷川は悲しんでいるようには見えない。
…それで律の行方を誰も知らなかったのか…
遺体が流されて見つからなかったから。
誰も、律が死んだことさえ…
「貴様…ッ」
俺はありったけの力を込めて長谷川に殴りかかった。けれどその拳はあっさり避けられ、奴は持っていた傘でガツンと俺のこめかみを突いた。
俺は目眩を起こして桜の根本に倒れ込んだ。
「そんな痩せ細った身体で何が出来るってんです。今なら俺が、楊枝一本で勝ちますぜ」
長谷川は笑い、
「まぁ、今のアンタに勝った所で面白くもなんともないんで、俺はこの辺で」
番傘を持ち直し、俺に背を向けて歩き出した。
俺は桜の木に凭れたまま、色を失くし始めた視界でその背中を見送るしかなかった。
腕の一本も動かす事が出来ず、意識が薄れて行くのを感じながら。
悔しさも怒りも、あぶくのようにゆっくりと弾けて消えていく。
死が、もうすぐそこまで迫っていた。
律…
すまない…
俺が側にいればこんな…
ゴホッと激しく何度も咳込み、胃の中のモノをぶちまけた瞬間、俺は俺に戻っていた。
もう雨の感覚もない。
身体も重くなく、いつもの学ラン姿だ。
口元を手で拭って呼吸を整え、顔を前に向けると、桜の木に凭れた格好のまま息絶えている慎太郎がそこにいた。
胸が掻き毟られるように苦しくなって、俺は声を上げて泣いた。
泣きながら、まだ光を放ちながら咲き続ける桜を見上げた。
桜は白い月を包み込むように広がって、一枚の絵画のように美しい。
そのあまりの美しさに、ぶつけ様のない悔しさと悲しさに、俺は泣き続けた。
『…律を』
そんな俺の耳に静かな声が届き、俺はハッとなって目を見開き息を止めた。
『律の魂を…救ってやってくれ』
それは慎太郎の声でハッキリと聞こえ、いつまでも俺の耳で余韻を響かせた。
「…当たり前だろ… 慎太郎」
それが言いたくて俺を呼んでたんだな…
ずっと…
俺は袖で涙を拭い、呼吸を整え、ゆっくりと立ち上がった。
つづく
今週も
読んで頂いてありがとうございます!
今日はヒロアカ٩( ᐛ )و