『グラン・トリノ』~父たる神と子なるキリスト~ | リュウセイグン

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長文多し。

(注)
『グラン・トリノ』の感想。
ネタバレ入ります。










うむ、やはりいい映画ですね。
アメリカという国、そしてそこに生きた男の魂……しかと見せて戴きましたッ!
と、イーストウッドにお礼でもいいたい気分です。
ただ、映画を観ていてその場で泣いてしまうような感じではないんです。


観終わって、スタッフロールで歌が流れる時とか、更にその後、色々考えている時に男泣きしそうな作品でした。


物語は人種差別主義的で古風なアメリカ男が、ひょんな事から隣に住むアジア系移民の少年と交流を深めて……みたいな話です。


この作品でやはり重要なのは、イーストウッドのキャラクター。
私は恥ずかしながら彼の出演作はあまり(というか殆ど)観ていないんですが、それでもウォルト・コワルスキーというこの男が、そのままイーストウッドひいてはアメリカ男の影であることはよく分かります。
ダーティ・ハリーの様に外国からの移民を侮蔑的に呼び、銃を我が身から離さない。


物語の中心人物であるタオの姉、スーを助ける箇所なんかは、ハリーの「弾があるかどうか、試してみるか?」というシーンを彷彿とさせます。


ただし、逆。


最後のシーンをも合わせて考えると、ハリーとは正反対。

ハリーでは最初に弾が出ない、と展開させて最後では同様のセリフでスコルピオを誘い、そこを撃ち返す

『グラン・トリノ』ではスーを助ける時は最初に指で銃を象って出し、次に本物の銃で脅す
一方ラストになると「ライターを出すぞ」と言って、本当にライターを出す


ハリーは
前半が「危険と思わせて安全」
後半が「安全と思わせて危険」

という対比であるのに

『グラン・トリノ』だと
前半が「安全と思わせて危険」
後半が「危険と思わせて安全」


って描き方をしてるんですね。
これはとても大きな意味があります。


が、その前に他の部分の話をしてしまおう。


まずウォルトが惹かれたのは姉のスーです。
彼女は、黒人三人にも怯まずに言い返し、全然臆するところがありません。
これはウォルト自身が他人に(コミュニケーションとしての)悪口を言って回るものと同様であり、またいじけたり虚飾のないところを示しています。だからこそ彼はスーを助けようとしました。

帰りの車の中でウォルトは開始してから最も饒舌になります。
「アジア野郎にもにも大したヤツがいるじゃないか」
という気分の象徴で、実際「なかなか見所があるな」というようなセリフまで言います。

スーの家でのパーティでは、モン族たちの料理や親しげな様子に心を動かされ、また占い師の言葉があまりにも的確だったので、より彼の心を捉えます。
「家族よりも奴等の方が身近に感じる」と独白するとおりです。

ここでちょっと面白いのは、モン族は結構アメリカと因縁のある民族だったって事。

モン族とアメリカの関係

モン族とは

ベトナム戦争時に、アメリカがホーチミン・ルートを叩く為に利用・教育し、ベトナム撤退後に共産主義勢力に追われたのが彼らという訳。


そんなモン族にかつてのアメリカの象徴のようなウォルトが共感を抱くというのはなんだか示唆的です。


スーの仲介で、弟タオの面倒も見る事になりました。
彼はチンピラ従兄の要請に逆らえずグラン・トリノを盗もうとしたのですが、ウォルトに見付かって失敗しました。
その償いという形です。

最初は相手にしていなかったウォルトですが、彼の実直さに気付いて次第に親しさを増していきます。
ウォルトは、アメリカ男のなんたるかを教え込み、一度は盗もうとしたグラン・トリノを手入れさせたり、仕事を斡旋してやります。

しかし、チンピラどもはそれが気に食わない。タオに怪我を負わせ、工具を壊す。
ウォルトも相手の所へ出向いて「タオに手を出すな」と脅しますが、それが裏目に出てタオの家は襲撃、スーもリンチに遭います。もう復讐しかない、と意気込むタオを制止します。
ウォルトは、自らの手で全てにけりをつけようとしていました。



さて、この方法が本作の重要なポイントです。



ウォルトはタオを一時的に地下室に閉じこめます。

チンピラどもの巣へ出向き、挑発をしてチンピラどもに自分を撃たせ、殺させる事で決着をつけました。
銃弾を浴びたウォルトは足を揃えて、両手を真横に伸ばした形で息を引き取ります
銃はなく、持っていたのはライターだけ。喋って住民の喚起を促し、「ライター出すぞ」と言ってライターを取り出す。しかしチンピラは銃を出すと勘違いして撃ってしまう……って筋書きです。
無抵抗の相手なので「長期刑になる」という。


これが『ダーティ・ハリー』とは対照的だという事は既に書きました。


町山智浩さんは、スコルピオはアンチキリストでハリーは神の使者にして裁きを司っていると言っていました。
作中ではスコルピオはジーザスと書かれたネオンをメチャクチャに打ち抜きますし、身代金引き渡し現場の十字モニュメントや、フットボール場でスコルピオが倒れた所でも頭のすぐ側に丁度十字のラインが掛かっています。フットボール場なんかはカメラが引くと位置がずれているので、意識して取ったシーンだと思われます。


ハリーは神の代理人、或いは自ら裁きを行えるという意味で神そのものだと言っても過言じゃない。

一方、ウォルトは自らが犠牲となって十字に倒れますので、これは当然キリストを意味します。
彼は一見、他者への裁きではなく自己犠牲で全てを収めようとした……ように見えます


でも、ウォルトは行動を起こす前に「あいつらが永久にいなくならない限りタオたちは幸せになれない」と語っています。じゃあ、長期刑に過ぎないコレが本当の解決になるのか? という疑問は結構な人が持つかと思います。

「出てきてしまったら、また元の木阿弥じゃないのか?」
またアメリカは時には物凄い長期刑になったりしますが、
「彼らの贖罪が、それだけでいいのか?」

と。

そんで自分は思うんですが、「それだけ」ってのは違う。


確かにウォルトは、無抵抗に撃たれた結果として相手を刑務所に送り込みました。
しかし、それは彼の本当の復讐ではない……と。


個人的な考えでは、彼の復讐は「チンピラに自分を殺させること」なのです。


意味が分からない?


『グラン・トリノ』を観ていると、ウォルトがずっと何か悩みを抱えているというシーンが度々出てきます。
そして彼が朝鮮戦争で勲章を貰ったと言うことも。
亡き妻が懇意にしていた神父も「懺悔があるんじゃないか」とウォルトに迫ります。
ウォルトも戦争で人を殺した事を認めた上で「命令じゃなくて自分の意志でやったから怖いんだ」というような内容を語ります、しかし赦しなどを請いはしませんし、最終的には神父に心を許しますが、それでも戦争についての懺悔もしなかった。


彼がそれを告げたのはただ一人、タオです。
復讐する気になって「人を殺した気分は?」と聞くタオに「知らなくていい」と答えるウォルト。


閉じこめた後で、本当の心を語ります。
「最悪だ、あれから毎日苛まれ続けてきた」
と。彼は無抵抗な少年兵を殺したのです。タオと同じくらいの。
だからタオには同じ思いを絶対させたくなかった。


「あいつには、お前らに割く時間はない」
ウォルトはチンピラどもに言います。
タオはこれからアメリカの魂を背負って、グラン・トリノを受け継いで真っ直ぐに生きていかなければならない
もう既に、タオには良い部分を教え込んできた
同時に、暗部を背負い続けてきた自分のようにはなって欲しくない。



それを背負うのは、お前達だ



そう考えると、ウォルトが自ら撃たれた理由が分かるのです。


相手を刑務所に送り込むだけではなく、

無抵抗の人間を殺した咎人としての苦悩を植え付ける

それならば、永久に手出し出来ないと考えたのも頷けます。
誰あろうウォルト自身が、ずっと後悔し続けてきたのですから。



左の頬を差し出して、自ら叩かれる事自体が相手の罰足りえる
のを、彼は知っていました。
それは赦しではなく、無抵抗の復讐です。
ちょっと突っ込んだ解釈かもしれませんが、ウォルトが殺人の重さを語った直後にわざと殺されに行っているのですから無理な推論ではないと思います。


ウォルトはキリストのように死にました
しかし、全くキリストな訳ではない。
殺人という大罪を犯しており、尚かつ人々の罪を贖った訳でもない。
むしろ自らの罪と同様の行為を他人にし向ける事で罰をなさしめたと言えます。
自己犠牲と裁き……この相反するかのような二つを兼ね備えた、より現代的な、よりアメリカ的なキリスト像として、彼は描かれたのではないかと思うのです。