『宇宙をかける少女』は結構面白いと思うのだが、一般的には評価が低くて少しばかり悲しい。
分かり難い、という言われ方がそもそも私なぞには実感が湧かなくて困る。
自転車乗るのが難しいと言われるようなもので、確かに大変な部分もあるけど乗れてみると簡単だし楽しいと思うのだが乗る以前で「ペダルの動きが悪い」だの「バランス取るのが難しい」と言われてしまうのに近い。
基本的に自ら断片的な情報を構築してモデルを創り上げる(さほど複雑ではない)のと、妙に細かいネタやリアリティ、そして出てくる有り得ない話に突っ込みながら楽しむのが良い。
が、どうも賛同して頂ける状況は少ない。
で、先日似たような作品を思い出した。
『大日本人』だ。
これは松本人志の監督作と言う事で妙な注目を集め、また妙な評価のされ方をした。
ハッキリ言ってしまうと、映画としては駄作であると言って良い。
テンポは悪くてダラダラしてるギャグは微妙だしオチは最悪だ。
しかし、少なくとも個人的には案外楽しめてしまった部分の多い作品だった。
松本人志のお笑いが分かる・分からない云々を語るつもりはない。
お笑いの事はよく知らないし、松本人志はどちらかと言えば好きではない。
ただこの作品はダメヒーローのダメモキュメンタリーとしてはなかなかにツボを心得ている気がした。
ヒーローとは超人であり、どうにもならない現実を容易に超越する存在の筈なのだが、主人公・大佐藤大は現実に押され続けるヒーローである。妻子には逃げられ、給料も中途半端、市民には非難されるとまるでダメである。
それを取材する側もダメ人間で、露骨にえげつない質問を浴びせ大佐藤いたぶる。
しかし現実性を超越出来ない、のはつまり現実に押し込められるのと同義であり、従ってこの作品には妙なリアリティが漂う。
現実を象徴しつつも現実には起こりえない様を描く映画(特にヒーロー物)や、概して製作者の意図を反映して良い部分・悪い部分のどちらかを隠して取り上げがちなドキュメンタリーの悪意あるパロディとして観られる。
作品自体のダラダラ感が、それを一層押し上げている。
つまりこれは映画としては物凄く半端なんだが、逆にダメな映像作品のパロディとしても観れてしまう。
だから途中経過をもっとメリハリ付けてラストでヒーロー物に回帰すれば「大佐藤が本物のヒーローになるまでの映画」として捉えられ、結構良い作品になった気もするんだが、松本人志はそういう「普通さ」を嫌ったんだろう。
だからメタ的な落ちとなり、斬新かもしれないが煮ても焼いても食えないような結末を迎えてしまった。従って駄作と言えるんだが、可能性としては悪くなかった。
『HOT FUZZ』がダメ警察物、バディムービーのパロディでありつつも最後に素晴らしいカタルシスを与えた事によって傑作の評価を盤石にしたが、『大日本人』も同様のポテンシャルを秘めていたのである。
とまあ長くなったけれども『宇宙かけ』も古典SFやスペオペのパロディとして存在しつつ、妙なリアリティに満ちている作品であると考えている。
一般評価は微妙なんだけれども、この時点では作品そのものを非難するに当たらない、と私は思っている。
なぜならばこちらが与えられた情報からの類推と、作中示される解答がほぼ一致しているからである。
作品世界の諸設定がキチンと決まっており、尚かつ視聴者に類推させる意図を以て情報を小出しにしなければ難しい芸当だと思う。
要するに「いい加減に見えても裏がしっかりしている」事を示している。
だから結構な期待をかけている。
しかし物語はまだ中盤。転ぶ可能性も否定出来ない。
ここから『HOT FUZZ』のような傑作となるか『大日本人』のような残念な作品となるかの分水嶺は、やはり後半の展開次第だ。