この店は都内でも屈指のモツ焼屋さんだけど14時オープンで稀少部位はすぐに売り切れになります。振替休日を利用して、開店前に並ばないと食べれないというサラリーマン泣かせのお店なんですが、ついに念願がかないました \(^o^)/
焼酎3杯飲んで上の写真の5皿食べて、計1600円♫ 安くて美味しい♫
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それはそうと、最近はTwitterよりミルチョをすることが多いんですが、病気で苦しんでいる人とやりとりがありました。
僕の父は平成21年12月に亡くなりました。父は晩年、人工透析をしていて、入退院を繰り返していましたが、平成21年の夏頃には自分の力で寝返りをすることも、食事をすることも、出来なくなっていました。喉元にあけられた管から最低限の栄養を摂取し、お腹にあけられた管から排泄をする生活です。
見舞いに行った僕に対して、、、
父『夜も身体のあちこちが痛くて、あまり眠れないんだ。だから、看護婦さんを呼ぶけど、結局どうしようもない。やり場がなくて、いらいらが募るよ』
僕『、、、、、そっか。。。』
父『お母さんに側にいて欲しいんだけど、ずっと一緒にいられないだろ。じゃあ、帰るね、って言われると、どうしようもない気分になるんだ。。。』
僕『。。。。。』
子供の頃の僕にとって、父の背中はとても大きく感じた。成人した僕は、ふと父の背中がそれほど大きくはなかった事に気付いた。そして、その夏の父の体重は40kgそこそこで、弱々しくて危なっかしくて、今にも壊れてしまいそうだった。
それまで僕は、そんな風に弱音を言う父に出会ったことがなかった。目の前の現実に対して僕は無力で、父に語るべき適切な言葉を見つける事が出来なくて、切なかった。
僕『どんなに苦しくても、最後まで悪態をつかないで、周りの人たちに愛される人生を全うして。希望はあるはずだから!!』
でも、そう言った僕自身、内心では希望がありそうだと、どうしても思えなかった。父はしばらくじっと僕の目を見ていた。僕は、僕の心が見透かされないように、必死で見つめ返した。
父『ありがとう。心配しなくても俺は大丈夫だよ』
僕『また来る。負けないで』
病室を出た僕に対して、父の主治医が呼び止めた。
主治医『息子さんですか、お父さんの件で少しよろしいですか?』
僕『、、、?』
主治医『実はお父さんのお腹の管なんですが、再度手術をさせていただきたいんです』
僕『あんなに体力が弱ってるのに、また手術するんですか? それは本当に必要な手術なんですか?』
主治医『必要かどうかと言えば、絶対に必要な手術ではありません。それで治る訳でもありません。。。』
僕『だったら、もう父に苦痛を与えるような事はしないで下さい。父はもう充分苦しんでいます!!』
その手術は父の寿命をひょっとしたら延ばすのかもしれない。でも、父があんな状態になった責任を僕は、その主治医に転嫁していたのかもしれない。父の身体が弄ばれているようで腹がたった。僕が父だったら、その終わらない苦痛は耐え難いし、苦痛の続く長い余生よりも、苦痛から解放された余生の方が幸せではないか、と思った。。。。。
そして、それから父は半年後に亡くなった。結局、父はその後、手術をした。父の葬式で、姉から、その後のやりとりについて聞いた。
姉『パパ、イクオのこと、あいつは馬鹿な息子だって言ってたよ。あん時、お医者さんに手術するな、って言ったでしょ? パパは、それでも生きたかったんだよ』
僕『、、、そうだったんだ。。。』
姉『あの時、イクオがはっきり反対するもんだから、お医者さんもどうしていいか、わかんなくなったらしいの。それで、パパに話したらしいんだよね』
僕『。。。。。』
言葉にならなかった。ただ、自分の弱さと父の強さに打ちひしがれた気分だった。あの時、僕の目をじっと見ていた父は、僕の心の隅々まで見透かしていてのかもしれない。僕は涙が止まらなかった。
それは、僕が父からもらった最後のメッセージだった。
それでも俺は生きたい。
それは、とても大きく強いメッセージだ。僕は、どんな事があっても生きる事に真摯でありたいと思った。僕には見えなかった光が父には見えていたのかもしれないし、ひょっとしたら命を粗末にしてはいけないという父の必死のメッセージだったのかもしれない。
苦しくても生きよう!!
僕が受けとったメッセージを、その人にも伝えたいと思います。
LET IT BE ☆彡