
~神戸新聞より~
6434人が犠牲になった阪神・淡路大震災は17日、発生から19年を迎えた。被災地は終日、深い祈りに包まれ、災害に強いまちへの誓いを新たにした。神戸市長田区の若松鷹取公園で開かれた追悼行事では、地域住民が作った約千本のペットボトル灯籠に火がともされた。午後5時46分に黙とうした後、だいち小学校の児童が「しあわせ運べるように」を合唱。暮れゆく被災地に子どもたちの澄んだ歌声が響き渡った。
その頃の僕は東京に居て、社会人1年生だった。当時は関東は地震が多いけど、関西は地震が少ないと思われていて、そんな大きな地震が阪神を襲うなんて、誰も想像していなかったと思う。被害の状況が明らかになっていって、被災地の交通網が遮断されていて、充分な支援物資が届かないこと、緊急的な人手が現地では必要となっていることがわかった。そして、人事部から新入社員など、緊急のボランティアとして派遣するとの辞令があった(僕にはお呼びがかからなかった)。当時の僕の上司は関東圏の倉庫にあった何千ケースものミネラルウォーターを船に積んで神戸港に送った。陸路が遮断されていて、トラックが使えなかったからだ。後から聞いた話では丸紅はヘリコプターで支援物資を運んでいたそうだ。
それから数年後、僕は大阪に転勤し、神戸の得意先を担当するようになった。まわりには当時を知る人が沢山いて、いろんな話をきくことが出来た。あの日から神戸には『All for One , One for All』の精神が根付いている事を知った。それは言葉にしたら、簡単なものだけど街や人に、その想いが浸透している事には少なからぬ感動や尊敬の念を抱いたりした。
そして、2011年3月11日、僕はたまたま振替休日をとっていて、自宅であの津波を見ていた。大変な事態になってしまったと感じた。それは沢山の人に沢山の影をつくった。そして、それは数年前の出来事で、影は今も強く残ったままだ。
僕は今度は近畿から、被災地の東北を見ていた。近畿圏にある倉庫から、被災地に食糧を送らなければいけないと思った。
ただ、今回は事情が違っていた。
陸路が遮断されていたことに加えて、津波による被害のため、船で食糧を届けることが出来なかった。当時はガソリン供給もままならず、ほぼ全ての運送会社から途中の給油を確保できなければ、運べないと言われた。歯痒かった。。。
僕が担当している神戸の得意先は、数十名の社員を現地に派遣し、ボランティア活動をはじめた。前回の震災の時に自分たちは助けてもらった。今回は自分たちが助ける番だ。彼らはそう言った。
近畿圏最大のスーパーマーケットの社長が取引先との会合で、ウチの商品は切れても構わないから、被災地に物資を届けることを優先して欲しいと言ったとの情報が入った。当時の近畿圏のスーパーも品切れが目立っていた。みんなが宅配便で、東日本に商品を送っていた。

例年だと、お花見で賑わう大阪造幣局周辺も、歓送会で賑わうはずの北新地も、人出はまばらだった。そんな気分になれなかった。影は日本中に広まっていた。
大阪では、おでんの事を『関東炊き』という。江戸時代に東京から大阪に拡まった名残らしい。その後、関東ではおでんが廃れ、関西では薄味になったり、ネタのバラエティが増えたりした。東京で、老舗のおでんを食べると、意外に出汁の色が薄いと感じる人も多いと思う。逆に岡山~九州のおでん出汁の色の方が濃いくらい。理由は1923年の関東大震災の頃、関西から来たボランティアが振舞った『おでん』が現在の関東の『おでん』の原型になっているからだ。東京の『おでん』は大阪の『おでん』を逆輸入されるカタチで復活した。
浅草にある『おでん』の老舗、大多福には『コロ』や『さえずり』といった具材があるけど、これは関西『おでん』のネタ。

この店のルーツは大阪だと感じる瞬間だ。
当時から日本には助け合いの精神があって、それが今でも残っていると思うとホッコリする
