悪ガキ、大沢少年ヾ(▼ヘ▼;)
野球好きの先輩に聞いた話で恐縮だが、「こいつは面白い奴なんだ!」
と熱く語る先輩が印象に残っていて・・細かいところは調べてみたww(^O^)
大沢少年は悪ガキで、旧 神奈川県立平塚工業学校に入学したが地元で
暴力事件を起こして中退。(ノ゚ο゚)ノ
神奈川商工高等学校に編入。元気があふれ過ぎている大沢少年に野球を
薦めた人がいて、野球を始めた。
「野球をやらなければヤクザにしかなれなかったかも知れない」
と後に本人が語っている。(`Δ´)
神奈川商工2年生時の1950年に夏の甲子園に出場したが、2回戦で敗退。
3年生時の1951年、全国高等学校野球選手権神奈川大会の試合で、
自信を持って投じたストライクをボールと判定されたり、確実にセーフだ
と思ったタッチプレーを二度もアウトにされるなど・・
大沢少年にはその球審の判定は不公平に思えた。
その試合はサヨナラ負け・・ww
試合後その審判をトイレに連込み、ボコボコにしたwww
当然だが、神奈川商工高は1年間の出場停止処分を受けた。(`ε´)
大沢少年の高校野球は終わった、野球部にも母校にも迷惑をかけた
最悪の状態で・・・(。>0<。)
このままなら・・ホントにヤクザにしかなれなかったかも知れないww
ところが、大沢少年にボコボコにされた審判は、度量の大きい明治男で
あったらしく、(お名前を調べたが不明でした)
後日、大沢少年の自宅を訪れ、自分が立教大学野球部関係者であると
名乗った上で、「君のような野球がうまくて元気のある選手が立教大学
には必要なんだ」とスカウトした。www
これを受けて、野球部推薦で立教大学文学部へ進学。受験勉強はまったく
しておらず、しかも試験当日、雪による電車の遅延のために2科目を欠席。
残る2科目は白紙の答案ではまずかろう、と英語は名前を書いたが他は
前の問題文を次の回答欄に書き、社会では空欄に日本地図を書いたと
本人が言っているwww (o_ _)ノ彡☆ギャハハ!! バンバン!
そうです。この大沢少年は、「親分」と呼ばれた大沢啓二さんです。
いつも、野球のことしか考えていないことは有名で・・・
この立教大時代に「レフトゴロ」を成立させたことがある。前位の走者
の封殺でなく、打者走者を一塁到達前に刺したことによるレフトゴロは
非常に珍しいこと・・( ̄□ ̄;)!!
プロ選手になってからも頭脳的な守備で鳴らし、とりわけ1959年の
日本シリーズ第3戦では、4連投4連勝の杉浦と共に日本一に貢献した。
打者の打球傾向によって守備位置を変えるという、現在では当たり前
になっているプレーを最初に行ったww。現存している写真を確認する
と打者によって20m以上、守備位置を移動しているwww。(+_+)
また、選手時代にライト前ヒットの際に、ボールを拾ってからフェンスに
向かって走り、二塁でランナーを封殺するトリックプレーを見せたこと
もある。∑(゚Д゚)
常に勝つことのみを考えていた人で、後楽園球場の三塁側ベンチに
盗聴マイクを仕込んだが、相手の作戦ばかり気にして思ったような効果が
得られず、1試合でやめたと著書に記している。
また、「引き分けでも優勝」だった 1980年後期最終戦
(対近鉄バファローズ戦)のときには反発力の異なる2種類の試合球を
用意し、近鉄の攻撃のときに反発力の低いボールが出てくるよう画策した
ことも明かしている。
多少犯罪まがいだろうと、勝ことのみを考えていた人でした。
サングラスを掛けた貫禄のある容貌、親分肌の性格とべらんめぇ口調から、
「親分」のニックネームで親しまれた。
ホテルで、周囲が「親分、親分」と呼びかけているのを聞いたスタッフが、
ヤクザの親分と間違えて戦々恐々としていたことがあるらしい。
ちなみに、現役時代のあだ名は、「ポッポちゃん」。\(゜□゜)/
南海のハワイキャンプ時に、O脚の鳩がふらふら歩いているのを見て、
選手の誰かが「大沢にそっくりや」と言った事によるらしいwww。
先日、78歳で人生を終えた「悪ガキ大沢少年」に一言。
あっぱれ!貴方はまちがいなく「親分」です。
合掌!
中日ファンの宇宙人 ムーム


