散策の時間 多磨霊園と是政散歩 | パパンズdeアトリエ

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芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

前々から、一度は訪れてみたいと思っていたのが多磨霊園です。


東郷平八郎、与謝野晶子、北原白秋、長谷川町子、上原謙、大平正芳などなど著名人が埋葬されている由緒ある霊園です。

 

正面門から望む多磨霊園  

 

京王線の多磨霊園駅で降りて、そこから徒歩で向かったのだが、これが結構遠い。
通りがかりの人に訊きながら、やっとそれらしい樹木に覆われた森があったので、正面門から入ってみたが、これが見当もつかないくらい広いのです。
案内地図が無ければ無理だなと思って事務所を探したが見つからなかった。
普通の霊園ではなく、広大な森の中で区画ごとに仕切られた墓地が並んでいて、とても目的の墓に辿り着くのは無理だと諦め、さっさと出てしまった。
「ここは、無鉄砲に探してもまず無理だな。ネットで探して地図を印刷してくるべきだった」と後悔したのです。
案内所が無いのは、ここは霊園で公園ではないので、案内地図が無いのも当然かもしれない。

ここはさっさと諦め、多摩川に向った。
西武鉄道の多摩川線の白糸台という駅から、是政を目指した。


それは自分が高校生の頃、国語の教科書に上林暁の『花の精』という小説に、この是政が登場するので、上京して、真っ先に向ったのがこの是政だった。

あれから、随分、時が過ぎたが、どうなっただろうかといういうことで、青春の思い出を辿って行ってみることにした。

西武鉄道 是政駅 

上林暁(かんばやし あかつき、1902年(明治35年)~ 1980年(昭和55年))は、日本の小説家で、昭和期を代表する私小説作家のひとり。高知県出身。東京帝国大学英文科卒。「花の精」1940年発表(作者38才)

国語教科書に掲載された『花の精』は、原文よりかなりコンパクトに編集されたものだった。
原作は23ページにわたる長文なのだが、教科書はそれらを大胆にカットされていたように記憶している。確か、教科書では樹木を伐根したので、その窪地に花でも植えようかと思い立ち、多摩川に月見草を探しに出かけた。といった内容だった気がする。

しかし、原作では若い庭職人に植えてあった月見草を伐根され踏みにじられたので、新たに月見草を探しに釣り仲間と一緒に出掛けた。という展開だったのだ。
 

多摩川堤防沿いの上から望む是政橋 

当時もあったと思うが、どんな橋だったか覚えていない。

 

昔の岩だらけの河川敷とは違い、今は広い野球グラウンドに整備されている。

 

グランドの向こう側、樹木が植えてあるのが多摩川の本流だが随分小さくなった印象がある。

 

自分が是政を訪ねた当時、その河原に咲いていた花は、多分、オオマツヨイグサではないだろうか。

 

オオマツヨイグサの花弁が開く瞬間
 

オオマツヨイグサ (大待宵草) 
アメリカ大陸原産で、日本へは明治のはじめに渡来して、北海道〜九州に見られる。海辺や河原などの荒れ地に生える。一般にツキミソウと呼ばれている。
 


省線南武線 戦前は鉄道省が管理していたので国鉄(今のJR)のことを省線と呼んでいた。

 

さすが南武線、今でもこうして貨車が走っているのに感動したのです。

帰途の道、是政から白糸台で降車し、徒歩で京王線の武蔵野台に向かったが、途中で分からなくなってしまい、通りがかりの人に訊ねた。

「武蔵野台はどの方向でしょうか?」

すると丁寧に道順を教えて下さり、「それでは良い旅を」と別れ際言ってくださったのです。

その何気ない別れの言葉が一期一会のように心に響き「良い旅を…」と幾度か頭の中で口ずさんだのです。

 

コーヒーブレーク

 

さて、青春の1頁を辿る道の散策だったが、あまりの景色の変貌ぶりに、別な場所に来たような気がしてならない。

確か、当時は、多摩川堤防の上から是政駅が見えたような気がしたのだが…。

改めて、『花の精』の原文を読んでみると、あの高校時代に読んだ印象とはまるで違っていた。

庭に花を植えるため、多摩川に月見草を探しに出かけるという、何気ない日常の一コマなのだが、帰りの電車(当時はガソリンカーだった)で、月見草が開花し、車内灯の光にうすぼんやりと輝いて咲いている幻想的な印象があったが、実は、もう少し現実的な内容だったのだ。

しかし、それが現実であり真実であり、歳を経るということなのかも知れない。

 

「少年老いやすく学成り難し」というが、何か夢のような浪漫が失せてしまうのが歳をとるということかも知れない。

重い病で、入院が続く妻を月見草を抱きかかえながら思い遣り、心細く、つい涙もろくなる作者の心境が、原作には描かれている。

嫁いだ先の亭主に先立たれ、出戻りになった妹のことなども肩に纏わり付き、気晴らしに是政に釣り仲間と共に、魚釣りと月見草狩りに出掛け、夜になり駅前の赤ちょうちんで一杯呑んで、今日の獲物を、友と分かち合い薄暗い夜道を、とぼとぼと歩きながら帰路につく。

 

この作品を発表した1940年、昭和15年はどんな年だったのか振り返ると、

日本は国連から脱退し、日独伊の三国同盟が締結され、近衛文麿が首相となり太平洋戦争にまっしぐらに突進していったのです。

ヒトラー率いる独軍が、ハーケンクロイツ(鉤十字)の旗を掲げ、パリに無血入城したのです。

野球では、巨人の川上哲治氏がホームラン王となり、大相撲では無敗の双葉山が快心の連勝をしたのです。

 

世相という薄暗い夜道を、ほろ酔いのように陶酔し、帝国主義の栄光と利権を求め、第一次世界大戦での敗戦国ドイツに課せられた膨大な借金の侮辱を晴らす為にも、あるいは資源を持たない日本が大陸に進出し、満州の利権を主張することなど、世界は戦争という暗闇に突っ走っていったのです。

それが現実であり、重い病の妻を抱えた昭和初期では、満足な医学的治療もできないという心細い現実からの、一時の逃避行の旅だったのです。

 

「それでは良い旅を…」

その言葉が胸にひっかかったのは、その為かも知れない。