パパンズdeアトリエ

パパンズdeアトリエ

アトリエ絵画スケッチデッサンなどの個展
芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

アトリエ習作絵画スケッチデッサンなどの個展

Make America Great  Again!
「アメリカを再び偉大なる国へ!」
Why does America have to act as the world's sheriff?
「なんでアメリカが世界の保安官をやらなきゃならんのだ?」
Tariffs are our weapon!
「関税こそ我らの武器だ!」
Have you forgotten 911?
「911を忘れたのか?」
Make America Great Sheriff Again!
「アメリカを再び偉大なる保安官に!」

 


伊蘭「パレスチナにイスラエルはイラン!」
米・以色列「イランにウランはイラン!」
伊蘭「オイルはお前たちにはウラン! ホルムズ海峡封鎖してやる!」
世界「イランことするな!」
伊蘭「どうしてもホルムズ海峡通行したいなら、みかじめ料を取るぞ!」
日「いつからあの海峡が伊蘭一家のものになったんだ? 任侠の風上にもおけねえ。ああん、ふざけんな!」
露「ああ、おそろしや、おそろしあ、おそロシア……?」
伊蘭「親分、下手な駄洒落なんか言ってねえでなんとかしてくださいよ」
露「うちだって色々忙しいんだ。こねえだ俺たちの裏金筋だったカスピ海もあの国にやられただろ?
    あの国さえ無きゃあうまくいくのか?」
伊蘭「そりゃあ海獣レビヤタンだって親分のもんでさ💛」
露「そうかお主も悪よのう!フッフッフッ~ん?」
中「うちの最新鋭で高品質のミサイル買うといいよ。今なら安くしとくよ💛」
伊蘭「肝心な時に動かないじゃあないか!そんなもんイラン!」

日・仏「一緒に、かめはめ波攻撃しちゃいましょうよ! せーの、かめはめはー

世人「あらあ? エゼキエル戦争ってもう始まったんじゃあないの?」
「でもエゼキエル戦争にアメリカは登場しないし、当時、アメリカ大陸は無かったでしょ?」
「じゃあ、AIに訊いてみようじゃない?」

質問 エゼキエル戦争が始まる兆候は何ですか
AIの回答 エゼキエル戦争が始まる兆候として、以下のような要素が挙げられます:
1.イスラエルの地政学的状況の変化:
 1967年の六日戦争以降、イスラエルが「イスラエルの山々」を支配下に置いたこと。
 パレスチナ問題の激化と周辺国との緊張関係の高まり。
2.国際的な同盟関係の形成:
 ロシア、イラン、トルコの連携が強まっていること。
 これらの国々がイスラエルに対して敵対的な姿勢を示していること。
3.中東地域の不安定化:
 イスラエルと周辺国との対立の激化。
 ガザ地区での紛争など、地域全体の緊張の高まり。
4.世界秩序の変化:
 国際情勢の急激な変化と新たな秩序の形成。
5.技術の進歩:
 世界中でリアルタイムに戦況を観察できる通信技術の発達。
6.宗教的な要因:
 イスラエルの宗教的重要性の再認識。
 終末論的な解釈の広まり。

世人「どれも満足しているようにも思えるが。あとは、『誰が進撃ラッパを吹くか』ということか?」

 

コーヒーブレーク アポカプリティックサウンド

 

黙示録を英語でApocalypseといい、神秘的な預言や啓示を暗示する。
その黙示録の中に、7つのラッパが登場し、ラッパが吹かれる度に神の裁き、不吉な災難が襲ってくるのです。
そのラッパの音が世界中で鳴り響いているそうです。

 

 

 

 

日本でも鳴り響いています。

 

 

それにしても天使はラッパが下手くそだなあ。
もう少し、ラッパ吹く練習をしてから世間に公表した方がいいと思う。
もし、上達すれば、あの有名なグレンミラー楽団にも採用されるかも知れない。
 

 

ラッパはこういう風に吹くもんだというお手本です。ではね~バイバイ

 

あ!懐かしい『The Glenn Miller Story 1954』があったね。古き良きアメリカだよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高見順と食道癌

 

高見順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年~1965年)は、小説家、詩人)
1963年に食道がんと診断され、同年10月に手術を受けた。
手術後は、病室で詩を書き続け詩集『死の淵より』を発表した。
この詩集は、氏の闘病生活を綴ったもので、食道癌と診断され手術を受けた前後に書かれた詩が収められている。
手術を受け、切羽詰まった状況に、身に迫る死を意識して上梓しているだけにその内容がリアルに肉薄する。

 

ぼくの笛 (詩集 『死の淵より』)

烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる

魂よ
魂よ
この際だからほんとのことを言うが
おまえより食道のほうが
私にとってはずっと貴重だったのだ
食道が失われた今それがはっきり分った
今だったらどっちかを選べと言われたら
おまえ 魂を売り渡していたろう
第一 魂のほうがこの世間では高く売れる
食道はこっちから金をつけて人手に渡した
魂よ
生は爆発する火山の熔岩のごとくであれ
おまえはかねて私にそう言っていた
感動した私はおまえのその言葉にしたがった
おまえの言葉を今でも私は間違いだとは思わないが
あるときほんとの熔岩の噴出にぶつかったら
おまえはすでに冷たく凝固した熔岩の
安全なすきまにその身を隠して
私がいくら呼んでも出てこなかった
私はひどい火傷やけどを負った
おまえは私を助けに来てはくれなかった
幾度かそうした眼に私は会ったものだ
魂よ
わが食道はおまえのように私を苦しめはしなかった
私の言うことに黙ってしたがってきた
おまえのようなやり方で私をあざむきはしなかった
卑怯とも違うがおまえは言うこととすることとが違うのだ
それを指摘するとおまえは肉体と違って魂は
言うことがすなわち行為なのであって
矛盾は元来ないのだとうまいことを言う
そう言うおまえは食道がガンになっても
ガンからも元来まぬかれている
魂とは全く結構な身分だ
食道は私を忠実に養ってくれたが
おまえは口さきで生命を云々するだけだった
魂よ
おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ
口さきばかりの魂をひとつひっとらえて
行為だけの世界に連れて来たい
そして魂をガンにして苦しめてやりたい
そのとき口の達者な魂ははたしてなんと言うだろう

 

ピロリ菌

 

昨年、自分は胃潰瘍になり、1週間ばかり入院した。

病院での生活は、窮屈で不便だが意外に楽しみもある。

何より、若い女性の看護師さんに、身体のあちこちを触ってもらえるのだ。

優しい声で「お変わりありませんか?」などと声をかけられると、急に元気が出るのです。

その退院の日、消化器内科の先生から、「一度、ピロリ菌の検査をしたら…」などと言われた。

ピロリ菌のことは知っていたが、最近、特に気に掛けたことは無かった。

「ああ…、それなら近々、定期健康診断があるので、そちらでやってもらいます。」と言い退院した。

 

ピロリ菌と呼ばれている菌の学名は、Helicobacter pylori(ヘリコバクターピロリ)と言うらしい。
 

ピロリ菌 名前は可愛いがとんでもない奴である

 

ヘリコプターのヘリコと同じで、「らせん」とか「旋回」という意味で、鞭毛と呼ばれる部分を回転させて移動する。
このあたりの機構は、精子も同じである。
尻尾のようなものを回転させて泳いで卵子に到達する仕組みなのだが、自然が考え出した方法は得てして奇策だ。
ピロリ菌は1979年にオーストラリアのウォーレンとマーシャルらによって発見された。
彼らは、胃炎を患っている患者の胃に、共通してこのピロリ菌が棲息しているのを知り胃炎の原因菌だと確信した。
 

発見という言葉

時に妙な気持ちになることがある。
「コロンブスがアメリカ大陸を発見した」というが、アメリカ大陸ははるか昔からそこにあったのだ。
コロンブスが発見するはるか前から大陸は、逃げも隠れもせずそこにあった。
もし、大陸が隠れていたのなら、それは鬼ごっこのように「○○ちゃん 見っけ!」と、言えるのだが、
大陸は最初からそこにあったのだ。
 

観測技術が進んできたので、今まで見えないものが見えるようになり、それまで不明だった病気の原因も分かるようになった。

胃腸病の原因は、体質や生活習慣でもなく、遺伝やその人の罪でもなく真犯人はピロリだったのだ。

自分の父親は胃が悪く、そのことで幾度も入退院を繰り返し、あげくには十二指腸を切除することになった。
三番目の兄も若い頃から胃が悪く、終いには胃穿孔を発症し、三途の川を渡ろうとしたことがある。

そして、晩年には高見順と同じ食道癌により他界した。

自分も、胃潰瘍を患い入院したが、その後のピロリ菌検査で陽性となった。
以前は、体質遺伝、あるいは形質遺伝のせい、などと思っていたが、実は、このピロリ菌に代々棲みつかれていたようだ。
病院の院長先生いわく「ピロリに呪われた家族」だったのだ。

 

聖書の時代

そこは現代のように医学が発達した時代ではなく、当時は、「病気は悪霊のせい」だとか、「本人の行いが悪いため
だ」とかいった風潮があった。

 

「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
弟子がイエスに詰め寄ったことがある。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と語った。

病気になって生命や霊魂、罪などについて深く考えるようになる。そして苦悶のうちに、何かに気付かされること、眼や耳は外界のセンサーなので内面は見えず、躓き、うな垂れてこそ初めて見えるようになるものがあるのです。

 

コーヒーブレーク

 

「胃腸病はその人の罪のせいでもなく、神が罰を与えたのでもありません。すべてあのピロリ菌のせいなのです。」

夏目漱石 胃潰瘍が原因で亡くなった。胃が悪いと憂鬱になる。漱石の顔は憂鬱感が滲んでいる。
 

英国留学の頃から、精神衰弱を患っていたという噂があるが、その元凶はピロリ菌だったのではないだろうか。
 

※ピロリ菌の検査は誕生日の定期健康診断の項目にはなってない。なぜなのか?

それにその検査は胃カメラが必須なので面倒です。

もっと、簡単な手続きと方法でピロリ菌検査、駆除をするべきだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

京王線幡ヶ谷 東美への搬入 
 

京王線の幡ヶ谷(渋谷区 はたがや)という駅は、多分、初めて降りる駅だろう。
初めて行く場所は事前にネットで調べてから行くようにしている。
最近、腰が悪いので、あちこち歩いて探し回るのが苦手になってきたからです。

東京に来て、もう半世紀以上住んでいるが、未だに東京はよくわからないのです。

 

新院展の搬入は、東美(とうび)という画材や教材などを扱っているこの会社が扱っている。

ネットで住所を打ち込んで、あれこれ操作していたら、いきなり地球儀が出て来た。
これから地球のどこかに行きたい訳ではなく東美という会社に行きたいのだが、思わず笑ってしまった。

 

幡ヶ谷駅に降りるのは、生まれて初めてだが、いきなり躓いた。
どちらの方向に進めばいいか分からないのだ。
駅前に出ると上に高速高架がある大きな通りに出たので、信号を待っているご婦人に尋ねた。
「えっと、ここに行きたいのですが、この方向で合ってますか?」
印刷してきた地図を広げながら目的地を指さした。

すると、そのご婦人は、「これは、こちらではなく反対側じゃあないかしら?」という。
「え?! この地図では上が北です。だから北口に降りたつもりですが?」というと、
その夫人は、駅の反対側だと主張される。
首を傾げ乍ら、駅構内の通路で反対側に出てみた。

都会では、ビルが邪魔で太陽が見えないせいか、方向感覚が狂ってしまうことが多い。
それに外は、酷いビル風が吹き荒れている。広げた地図がめくれて見づらいのだ。
それから、五,六人の地元の人と思われる人に訊ね、どなたも親切に教えてくれるのだが、どうも要領を得ない。
意外に都会の人は、住んでいる身近な地理を知らないのだと思った。
 

自分は、以前、東京に大雪が降った時、雪かきをして酷く腰を痛めている。
年々、それが酷くなり最近は歩くことも困難になっているようだ。
途中の公園でトイレに寄ったついでに、輪投げをしていた青年にも訊いてみた。
すると、スマートフォンを取り出し、どの方向に進めばいいかを示してくれた。
「そうか、こんな時にスマートフォンがあればいいんだな」と思った。
自分は、相変わらず昔ながらの第4世代のいわゆるガラバパゴス携帯なのだ。
「口と耳があるんだから誰かに訊けば分かるだろう」
都会の人は冷たいという印象があるようだが、決してそんなことはない。
何代か前を辿れば、ほとんどが地方出身の人達なのである。
 

「だってサー」と語尾にサーをつけるのは、東北弁の名残ではないだろうか。
東京の下町育ちの人は、サ行が上手く言えない傾向がある。
「おひる」が上手く言えず、「おしる」になるという。

電柱の住居表示などを見ながら、自分が目的地に近づいている確信はあったが、
「宅急便の配達員は、住居表示だけでよく目的地につけるもんだ」と感心する。
何人もの人に訊ねたが、どなたも丁寧に教えて下さる。
 

何気ない見知らぬ都会での一期一会、訊かれると「何が何でも教えてやる!」という気概を感じる。
「えっとね、俺の説明が分かりにくいな。もう一度、最初から丁寧に説明すると…」
などと、徹底的に自己分析をしながら、百メートルばかりの道順を懇切丁寧に説明しようという姿勢が満ち溢れているのです。

信号待ちのご婦人がいたので訊いてみた。
すると、「ああ東美なら知ってます。私も同じ方向だから」といい、一緒に連れて行ってくれることになった。
4,5分もしないうちにその会社の前に着いた。
丁寧にお辞儀をして、そのご婦人と別れた。
あとあとよく考えると、幡ヶ谷駅からそう遠くない場所にあったことに気が付いた。

人に訊くたびに目的地から遠ざかっていたのだ。腰が痛いというのに。

 

コーヒーブレーク

 

株式会社東美とは
1962年の創業で、美術関連用品の販売及び展示に関わるサポートを行う会社です。
渋谷区、幡ヶ谷という都会の下町工場のような雰囲気で、美術関連の販売や、イベントアシストなどを生業としている。
 

幡ヶ谷、初めて歩いたのだが、
幡ヶ谷の地名は、平安時代後期の1082年(永保2年)、武将・源義家(みなもと の よしいえ、1039~1106年)が
東北地方の陸奥・出羽を舞台とした「後三年の役(ごさんねんのえき)」から帰る途中に、この地にあった旗洗池(はたあらいいけ)にて源氏の旗印である白旗を洗い、傍らにあった檜(ひのき)に掲げて祝宴を行ったという伝説に由来するそうです。

 

 

東京都区内には、坂、谷という字が入った地名が多い。
関東平野というくらいで、ただの平野だと思うと、意外に坂や崖、谷などが多いのです。
多分、小さな川が造った地形なのだろう。
時折、気まぐれに流れを変える川が平地の地形を切り刻んで、谷や崖を永い年月をかけて造形していく。
「自然は、最も偉大な芸術家」だと断言した絵描きがいたが、その複雑な地形に合わせて町を作ると、真っすぐな路など無く、
直角に交差する曲がり角も存在しないのです。
 

第32回 2026 マスターズ大東京展

 

 

会場 東京交通会館・地下ゴールドサロン ギャラリー玻瑠 JR有楽町駅中央口・京橋口前
会期 令和8年3月29日(日)~4月4日(土)
開場時間 午前10時~午後5時
(但し初日は午後2時開場、最終日は午後2時まで)
 入場料 無料
展示作品 日本画、洋画、彫刻、工芸、書、写真、現代アートの7部門。
 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「毎年、2回の出展は厳しいね。だいたい題材に苦慮するし、今は免許もないので自転車で現場に行くしかないので…」
と、世話役の近所の奥様に告げたが、「皆、楽しみにしているからお出しなさい。」とのことだった。
 

「何か参考になるものはないか…」
 

アトリエに通っていたころのスケッチなどを、押し入れから引っ張り出し、あれこれ模索したら、以前、下書きだけ描いたままになっていた『富士山』と『エビラ沢の滝』の絵があった。
「これならその続きを完成させられるかも知れない。」
 

現在、製作中の作品です。


  静の富士山と動のエビラ沢の滝の絵

富士山の絵に取り掛かったのだが、富士山の絵を描くのは自分にとってはとても難しいのです。
浮世絵に度々登場し、お札の絵柄にもなっているほど、皆が良く知っているからです。
知り過ぎている題材は描くのが難しいのです、
ざっくりと描くと、銭湯の壁に描いてあるお馴染みの富士山になってしまう。
かといって、丁寧に描き過ぎると富士山の壮大さが失われ、細部にばかり囚われてしまう。
適度に丁寧に、丁寧過ぎず、かと言ってざっくりでも駄目、といった加減が難しいのです。

 

エビラ沢の滝は、道志川の支流、神の川という裏丹沢の渓流があり、近場には神の川キャンプ場もあり、週末などは親子連れで魚釣りも楽しめる。
今は、大雨による土砂崩れの影響で、残念ながら、その滝には降りられません。

エビラという字は箙のことで、弓矢の矢を納める籠のことです。

急遽、こちらの下書きの続きをやろうと思い立ったのです。

 

戦国時代、ここは甲斐の武田と、小田原の北条との国境だったところです。

戦闘に疲れた兵士が山中を彷徨っていたら、突如、目の前に悠然たる滝があり、そこで武具を脱ぎ捨て、汚れた身體を洗い清めた場所かも知れません。

最後までどちらを応募すべきか迷ったが、「キャンバスが大きく見える方がいいか?」という判断で、こちらの『エビラ沢の滝』に決めたのです。
自分は、何度も何度も描き直す習性があり、最後まで完璧に気に入ることなどないのですが、もう締め切りに間に合わないので、
こちらに決めました。

自分に自信があるのは、額縁とかイーゼル、キャンバスの布地張り、所謂、大工仕事で、いかに安く作るかがモットーなのです。
この富士山の額縁など、下地は、建築材の紙製の巾木で数百円程度のものです。

審査員は額縁を審査するわけでもないので、これでいいかと思う。

 

      自作の額縁と富士山

 

 

新日本美術院 2026年第32回マスターズ大東京展

 

会場 東京交通会館・地下ゴールドサロン ギャラリー玻瑠 JR有楽町駅中央口・京橋口前
会期 令和8年3月29日(日)~4月4日(土)
開場時間 午前10時~午後5時
(但し初日は午後2時開場、最終日は午後2時まで)
入場料 無料
展示作品 日本画、洋画、彫刻、工芸、書、写真、現代アートの7部門。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

電チャリを漕いで、城山湖方面に向かった。
 

 

ここが城山湖(しろやまこ)です。
 

特に目的がある訳でもないが、最近、運動不足なので、電動アシスト自転車を漕いで気の向くままペタルを漕いでみた。

 

チョビが存命の頃は、犬の健康と自分の健康の為にも、この城山湖の周回コースを散歩したものです。
この山道が、チョビにとっては嬉しいようで、ぐいぐい自分を引っ張ってくれるのです。

チョビは、ボールを投げても逃げるような犬で、変わった犬というより臆病な人の子のような犬です。
水も大嫌いで、水遊びなど全くしない犬です。
もともと、このチョビは、保健所で娘が殺処分されるはずの身元請負がない犬、保健所で誰も選ばない売れ残った犬を、

引きとってきたものです。

本来なら、救いの手を伸べた人に感謝すべきだが、このチョビに限っては全くその気配すら感じられない。

 

自分が相模川に散歩に連れて行くと、水場で美味しそうに頭を突っ込んで水を飲むのだが、どうした訳かどうにも背後が気になるようで、しきりに何度も後ろを振り向きながら水を飲むのです。
そのことを娘に話すと、どうやらその原因は娘にあるようだ。

娘がチョビを連れて散歩に連れて行き、チョビが美味しそうに小川の水を飲んでいると、後ろから突き落とすので、それで背後が気になるようになったようだ。
「押すなよ、押すなよ、押すんじゃないぞ!」と背後を警戒するようになったのだろう。
チョビを眺めていると、時々「こいつ前世は人間だったんじゃないか?」と勘違いすることがある。
そんなチョビも何年か前、旅立った。

 

尾根緑道の湖畔にて、2019年3月 逃げ足の速いチョビ

 

この尾根緑道に、鮎の道がある。詳細は後述。

 

ここが城山湖です。真ん中の鉄柱塔が揚水塔で、この地下深くに発電機がある。

 

ウシガエル

 

この周囲を取り囲むように周回山道がある。

城山湖と呼ばれる人造湖ですが、山の名前は、牡龍籠山(ぼたんごやま)や草戸山(くどやま)と呼ばれている。

名前の由来は、「龍神」を意味する「龍」(たつ)と、山の形状を表す「籠」(ごやま)から来ているそうです。
 

夏場の山道には、ウシガエルがたむろしている。
「グーゥ!、グーゥ!、」と大いびきをかいて寝る牛のような鳴き声が叢から聞こえ、その姿は、とても片手では持ち上がりそうもないほどデカいのです。

 

 

城山という地名

 

本当の城山は、相模川を挟んだ向うにあり、そこの頂上には山城の跡がある。

ここ相模の地は、戦国時代、甲斐の武田信玄と小田原を本拠とする相模の北条氏政とが、国境を接する土地です。
武田軍が攻めて来た時の為に、あちこちの山に狼煙台(のろしだい)の跡があり、城山と呼ばれています。
関東地方には「根小屋」や「根古屋」といった地名が残っています
国境の近くの山の麓に、寝る為の小屋を建てて、山頂の狼煙台に朝方出勤するのです。
山頂で寝ずの番で、敵を見張っている兵士と交代する為です。
狼煙に「狼」の文字が入っているのは、オオカミの糞を乾燥させそれを藁と混ぜて燃やすとよく燃え、煙が真っすぐに上昇するからだそうです。

なんでもオオカミの糞に含まれる硝酸塩が、その効果を発揮するそうです。


狼煙は次の狼煙台に引き継がれ、あっという間に小田原の本拠地まで届いたそうだ。
直ちに、敵を成敗するための軍隊が迎え撃つためです。
津久井城山公園には、山城があり、津久井城と呼ばれる。
 

津久井城(つくいじょう)と筑井城(ちくいじょう)の違い

 

津久井城は、戦国時代に後北条氏によって築かれ、根小屋式山城として知られています。

一方、筑井城は鎌倉時代に三浦氏(三浦半島の三浦一族)によって築かれ、戦国時代には北条氏の支配下にあった。

どちらも相模原地域の重要な城として知られています。

永禄12年(1569年)の三増峠(みませとうげ)の戦いなど、ここは歴史に残る、凄惨な闘いが展開された土地でもある。

 

津久井城は1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原攻めに伴い、数万という軍勢で山全体を取り囲み、ついに落城し、その後、秀吉から家康に領地として与えられたそうです。
 

城山発電所


城山湖に隣接する変電所です。ここで昇圧され配電されます。


大規模な純揚水式発電所で、地下230メートルに4台の発電電動機・ポンプ水車があります。
余剰電力を利用して、津久井湖の水を城山湖に汲み上げ貯留します。

電力需要の多い時間帯には、城山湖から津久井湖に発電により放流します。
公営電気事業唯一の純揚水発電所で、最大出力250,000kWで、12万戸の家庭の電力を賄うことができます。


☕コーヒーブレーク 尾根緑道、鮎の道、戦車道

 

津久井湖は相模川を堰き止めて出来た人造湖なのだが、その上流にある相模湖も人造湖なのです。

戦国時代、当然ながら人造湖など無かったので、ここは流れの激しい山間部の激流で、川魚が豊富で、

江戸までその川魚を運んだといわれる「鮎の道」が残っている。

また、この道は山間部にあり起伏が激しいので、戦時中は戦車の試験走行に利用され戦車道とも呼ばれている。