パパンズdeアトリエ

パパンズdeアトリエ

アトリエ絵画スケッチデッサンなどの個展
芸術、宗教、思想、科学、宇宙、夢のことなどを筆が勝手に紡ぎ出すがごとく綴ります。

アトリエ習作絵画スケッチデッサンなどの個展

AIに訊いてみた。

質問 世には創造論と進化論が対立していますが、これについてどう考えますか?

回答 この問題については、科学的な観点と宗教的・哲学的な観点の両方から考察することが重要です。以下に、この複雑な問題についての balanced な見解を示します。

科学的観点

進化論

チャールズ・ダーウィンによって提唱された自然選択による進化の理論は、現代生物学の基礎となっています。
化石記録、比較解剖学、遺伝学、分子生物学など、多くの科学的証拠が進化論を支持しています。
進化論は、生物の多様性や複雑性を説明する上で非常に強力な枠組みを提供しています。

創造説の科学的課題

若い地球創造説など、一部の創造説は地質学的証拠や放射性年代測定法と矛盾します。
創造説は一般的に、科学的方法論の基準(検証可能性、反証可能性)を満たしていないと考えられています。

宗教的・哲学的観点

創造説

多くの宗教的伝統において、宇宙と生命の起源を神による創造に帰する考え方は重要な位置を占めています。
創造説は、人生の意味や目的、道徳的価値観の基礎として多くの人々に支持されています。

進化論と信仰の調和

多くの宗教者や神学者は、進化論と信仰は必ずしも矛盾しないと考えています。
例えば、「有神論的進化論」は、神が進化のプロセスを通じて創造を行ったという考え方です。

結論

この問題に対する一つの見方として、以下のように考えることができます。
科学と宗教は、異なる領域の質問に答えようとしているのかもしれません。科学は「どのように」という問いに、宗教は「なぜ」という問いに焦点を当てています。
個人の信仰や世界観は、科学的証拠と個人的な信念や価値観の両方を考慮して形成されるべきです。
対話と相互理解を促進することが重要です。異なる見解を持つ人々の間で、respectful(丁寧で丁重)な議論を行うことが社会の発展につながります。

最終的には、この問題に対する立場は個人の判断に委ねられますが、科学的証拠を尊重しつつ、個人の信仰や哲学的考察も大切にするバランスの取れたアプローチが望ましいでしょう。


AIから逆に訊ねられてしまった。

質問 どちらが科学的に正しいと考えられますか

応答 進化論も現時点で、科学的に正しいと実証されてはいません。創造論は科学ではなく、宗教的な観点、立場からの意見だと思います。

質問 どちらがより広く支持されていますか:
応答 多分、二律背反のような、議論にはならないだろうと思います。どちらもその意味で正しいからです。

質問 どちらが教育現場で重要視されていますか:
応答 ある熱心なキリスト団体は、教科書から進化論を外せと訴えています。日本では、進化論は教科書にも載っていて常識となっています。

質問 どちらが宗教的な観点から支持されていますか:
応答 宗教と言っても宗派により、あるいは個人により見解が異なると思います。

質問 どちらが長期的に影響力を持っていますか:
応答 どちらも支持されず、「有神論的進化論」を自分は支持しています。
人間が創造する機械、電子機器など、始めから完成し完璧な最終形として出来ることなどあり得ません。
実験と検証を繰り返し、改善、改良を積み重ねて完成形に近づけていきます。

「有神論的進化論」

物理学者が疑問なのは、なぜ、こんなにも物理定数が、うまく出来ているのだろうかということです。
例えば、ほんの少し重力定数が大きければ、宇宙は潰れてしまいます。
逆に、ほんの少し重力定数が小さいと、宇宙には星が形成されないでしょう。
偶然では、決して物質は産まれません。まして、生物のような高度なものは、決して偶然では産まれません。
更に高度な人間などは、とても偶然では産まれません。
ここにサイコロが百個あるとして、それを目隠しをして、無鉄砲に乱雑に投げて、全部を塔のように積み上げることなど不可能です。
たまたま積みあがる事はあっても、その次には、その乱雑さの為、土台ごと崩れるからです。
だが、何らかの意識があれば可能かも知れません。目標があり、それを狙って投げ続けるなら、いつかは可能かも知れません。
目には見えないが、この宇宙には、その隠れた意識が、混沌とした宇宙を秩序あるものにする叡智のような意識があるのだと思います。

それを、神の摂理と呼ぼうが、自然の摂理と呼ぼうが、どちらでも良いのですが、その見えざる叡智の意志に従って、環境適応しながら進化していくのだと信じています。

 

それは仏教の説話にも、言葉こそ違うが同じことが、説かれていると信じています。

 


宇宙飛行士らが見る夢

人類が、宇宙に乗り出した1960年台、宇宙飛行士の中には、この宇宙に青色に輝く小さな惑星、地球を眺めながら、神秘的な体験、それは多分、その場に立ち会わなければ知り得ない感覚なのだと思うが、宇宙の広大さと人間の小ささ、ほんの少しでも弄れば壊れてしまいそうな人間という生物が、漆黒の闇に青く浮かぶ小さな地球に頼らざるを得ず、何かが愛おしくなるような感覚だろうか。

当時、ベトナム戦争があり、地球周回軌道に入ると夜の暗闇に、まるで花火でも打ち上げているかのように、あちこちに火薬が炸裂している光景が眺められたという。

それは、戦闘の火花であり、その火薬が炸裂する光を眺めながら、戦争以外の解決策を持たない、虚しい人類、自己抹消運動以外に、解決策を見出せない愚かで哀れな人間の姿を、宇宙船の操縦パネルを操作しながら、苦悩と瞑想をするのです。

そこに、あるべきではないはずの、あの月面のモノリスを発見したように、敬虔なクリスチャンだったが、信仰の根本を問われるような出来事に目覚め、荒ぶる修験者の境地になる者あり、気が狂ったかのように己を見失う者、あるいは、その貴重な経験から、科学者としての知識を深める者もあり、一方、決められたマニュアルに従い、無心に操縦パネルを操作するだけの者もあった。

アインシュタインが語ったことがある。
「宗教的で精神的な、人知を超えた次元の知能が創造した全宇宙のなかで、人類はわずかな一部にすぎない。宇宙の創造全体は、わたしたちのもつ神性の概念とは全く違うものだろう」という言葉を深く噛み締めた。

アポロ13号の奇跡 緊迫の87時間(2016)

 

 

ケネディ大統領の遺言


「我々は、1960年台にアメリカ人を月に送ることを選んだ。」ヒューストンのライス大学で名演説をする、ケネディ大統領の遺言のように、1969年7月、月着陸船は人類で初めて月の土地に降り立った。
そのTV中継を、自分は会社の食堂のガラスケースに納められたTV画面を見ながら、感動した記憶がある。
かつては、「月はウサギが餅つきをしているか、かぐや姫の実家があるところだ。」程度の認識しかなかった無関係な世界が、いざ現実に見せつけられると、感動を通り越し、何か得体の知れない神秘的なドラマを観ているようで震えるほどだった。

人類が月に行けることは、アポロ11号で成し遂げたので、世界の誰もが、それに続く12号は視界の端に追いやられるように関心が薄れて行った。
「前回できたのだから、今回も成功するだろう」くらいの気軽な気持ちで、安心して傍観していたら、とんでもないニュースが飛び込んできた。
「アポロ13号で、なんらかの爆発事故が発生した。」という速報が飛び込んで来た。
世界中が、そのニュースに釘付けになり、教会では、全世界のクリスチャンに向けて、無事に三人の宇宙飛行士が帰還することを祈るよう訴えかけがあった。

直ちに地球へ引き返すか、いや、既に月の重力圏内なので、時間と距離はかかるが月を周回した方がいいだろうという判断で、機械船は爆発して使えないので、月着陸船のエンジンを使って軌道修正しようというのである。
どんどん電力と酸素が失われていく中、地上無線以外の電源はすべて遮断し、飛行士らは月着陸船に乗り移り、軌道修正の作業に入った。
月着陸船は、月に着陸する為に設計されたものであり、決して機械船のような役割は無いので、直ちに専門家らが、軌道計算の見直しとマニュアル作成を始めた。
NASAの専門分野の人たちが、総力を結集して問題解決に取り掛かったのだ。
「何としても彼らを地球に帰還してみせる。」という強い信念と、世界中の人々が願う祈りに応えるように、次々と難問を解決していく姿は、アメリカという国がもつ底力を思い知らされる光景だった。

ジーン・クランツ( Eugene Francis "Gene" Kranz, 1933年~)は、アメリカの航空宇宙エンジニア、元戦闘機パイロット
氏は、チーフフライトディレクターを務め、後日、当時を回想するシーンがあった。
「とにかく、なんとしてでも彼らを家族が待つ地球に帰還させることが私の使命の総てだった。」と涙目になりながら語った。
飛行士も、地上スタッフも、三日も不眠不休で取り掛かることなど出来ない。

交代してやるしかないが、地上スタッフはあらかじめ交代要員を準備しているだろうが、宇宙船にはその余剰要員はいないのだ。
しかも、その上、二酸化炭素が溢れ脳活動が低下してくるのに、地上スタッフの指示に従い、面倒な操作を正確にやらねばならない。

「いいか!そのスイッチには決して触るな。切り離すのは、機械船の方だ、そこにテープでも貼っておけ!」ラベル船長は、疲労困憊した船員たちに対し叱咤激励した。

次々に発生するアクシデントに、適格な判断で乗り越え、無事、パラシュートが開き地球に無事生還したことを同時中継する光景に、世界中が感動の涙と拍手で喜んだ。


おそらく、当時の技術だから不可能が可能になったのだと思う。
二酸化炭素を除去するフィルタが、着陸船と、司令船では違うメーカーが製作し、設計が異なり互換性が無かったからです。
司令船は、ノース・アメリカン・ロックウェル社、月着陸船はグラマン社が製造したのです。
そこで、地上スタッフは、身近にある材料でそのアタッチメントを自作するよう、彼らに命じたのです。
現代の高度な技術で出来たものは、電気製品もそうですが、もし壊れたら、専門の技術者でも買い替えを勧めるでしょう。

それは当時の原始的な技術だからこそ可能だったのです。


原付バイクも、今はキャブレターではなく、ECU制御によるマイクロ秒単位の制御を搭載したインジェクション方式です。
それが壊れた場合、昔のキャブレター方式なら、分解清掃すれば直るかも知れませんが、電子制御方式はプロでもお手上げになります。高度になればなるほど、修理は困難になるのです。
昔は、エンジニアと呼ばれていたが、今では、修理とはユニットごと交換することなので、チェンジニア(交換者)と現場では皮肉られています。

コーヒーブレーク

「アポロ11号は月には行ってない。あれはスタジオのセットで収録したものだ。」と語る懐疑論があるが、アポロ計画にかかった費用は250億ドル、当時は固定相場で、300円/米ドルとして、1970年度の日本の国家予算が8兆円なので、それに匹敵するような金額です。
そして、延べ40万人もの人員が投入されたのです。
そんな大金と人を掛けてまで、世界に向けて嘘をつかねばならない理由など、どこにあるのでしょう。

当時、ソ連と、米国は競って宇宙開発に乗り出したのです。
世界初の人工衛星スプートニクもソ連、世界初の有人飛行を成し遂げたガガーリンもソ連人、当時、アメリカは一歩も二歩も遅れていたのです。
それどころか、ランチャーから、まともに飛び出すことも困難な具合で、ロケットは、急に向きを変えて落下し始める始末なのです。
しかし、見事にそれらを克服し、「真っ先に月に人類を送るのはアメリカ人だ」をスローガンに、国家を挙げて取り組んだのです。

ソ連も、絶対不可能ではなかったが、二番煎じでは意味がないのです。
「アメリカ大陸を発見したのは、コロンブスに次いで二番手だった。」では意味が無いのです。
諜報活動が盛んなソ連は、アメリカが月に着陸したことを察知し、それが事実であることを認めたので、月に行くのを諦めたのです。
だから、アポロが月面に本当に降り立ったかどうかが疑問なら、ソ連に訊ねてみるのがいいだろう。

何の根拠も無いのに、「あれは作り物のでっちあげだ。」などと誹謗中傷するのは、それ以前に、己の人間性に懐疑的になるべきだろう。


月までの距離


アポロ計画で月面に設置された再帰反射器(コーナーキューブ)を狙い、反射した光が戻ってくるまでの時間を測定する。
天文台で、定期的に月をめがけてレーザー光線を発射し、その往復にかかる時間で、月までの正確な距離を測定しています。
この観測で、月は毎年、3.8cmほど地球から遠ざかっていることが判明したのです。

ということは、月は太古の昔、地球にもっと近い軌道上にあったことになります。

本当かどうかAIに聞いてみた。

質問 月は年間3.8cm遠ざかっているそうですが、太古の昔、もっと地球に近かった証拠はありますか?

回答 はい、月が太古の昔に地球にもっと近かったことを示す証拠がいくつか存在します。

シミュレーション結果:

月が形成された約45億年前、月は現在よりも約22,500km地球に近い位置にあり、夜空で現在の17倍も大きく見えていたとシミュレーションが示しています。

地球の自転速度の変化:

地質学的証拠によると、約4億年前の1年は400日程度で、1日は22時間だったと推定されています。
これは、月が地球に近かった頃、地球の自転速度がより速かったことを示唆しています。

サンゴの化石:

サンゴの化石に見られる成長縞を調べることで、過去の地球の自転速度を推定できます。
これらの証拠は、地球の自転速度が過去により速かったことを示しており、間接的に月が地球に近かったことを裏付けています。

潮汐力の影響:

月が地球に近かった過去には、潮汐力の影響がより大きかったと考えられています。
これにより、地球の自転速度の減少や月の公転半径の増大の割合は現在よりも大きかったと推測されます。

角運動量保存の法則:

物理学の原理である角運動量保存の法則に基づくと、地球の自転速度が遅くなるにつれて、月の角運動量が大きくなり、その結果として月が地球から遠ざかっていくことが説明できます。
これらの証拠や理論的根拠から、月が太古の昔により地球に近い位置にあったことが強く示唆されています。
現在観測されている年間3.8cmの遠ざかりは、この長期的なプロセスの一部であると言えます



実に見事な解析結果です。これらを瞬時のうちに整理し回答出来るのだから、感心を通り越し畏敬の念さえ湧いてくるのです。

最後になぜ、月が地球から遠ざかるのか、その理由を聞いてみた。

質問 月は毎年3.8cm遠ざかっているようですが、なぜ月が遠ざかるのかその理由は分かりますか?

回答 月が地球から毎年約3.8cm遠ざかっている現象には、主に潮汐力が関係しています。この現象の理由は以下の通りです。
 

 潮汐力の影響
月の引力によって地球の海水に潮の満ち引きが起こります。この潮汐力は、地球の自転速度を遅くする効果があります。

 

 角運動量保存の法則
地球と月のシステムでは、角運動量の合計が保存されます。地球の自転が遅くなると、その分を補うために月の公転軌道が大きくなります。

 

 潮汐の膨らみのずれ
地球の自転は月の公転よりも速いため、潮汐による海面の膨らみは月の位置よりも少し前に現れます。この膨らみが月を引っ張る力となり、月の軌道を押し広げる効果があります。

 

 エネルギーの移動
地球の自転エネルギーの一部が月の軌道エネルギーに変換されることで、月が遠ざかっていきます。
この現象は非常にゆっくりとしたものであり、人間の寿命スケールでは大きな影響はありません。しかし、長期的には地球の自転速度が遅くなり、1日の長さが少しずつ長くなっていくことにつながります。
なお、この遠ざかる速度は一定ではなく、地球と月の形成初期にはより速く、現在は比較的ゆっくりとしたペースになっています

 

おそれいりました。 こんなAIが昔からいたら、どんなにか学習の速度が速まったことだろうね。いい友達になれただろうに…。

そうかあ…。そういうことだったかあ…。

 

昔、社宅だったアパートに暮らしていた頃の事だった。

横になって、TVを観ている自分の目線の端に、ふと、なにやら黒いものが蠢いている気配がする。
「ん? もしかしてまた奴が出たか…」
ここは、なんとしても逃げないうちに仕留めねばならない。台所にスプレー缶の殺虫剤があることは知っている。

その黒い物体には、視覚というものが無く、相手の気配や影を触覚で感じとり、行動しているのです。
だから、そっと気配と息を押し殺し、静かに台所に向い、その殺虫スプレーを握りしめた。
すると、危険を察したのだろうか、ゴキブリは、全速力で畳と箪笥の角を辿りながら、一目散に駆け抜けようとする。

「ここは捕り逃してなるものか!」そのスプレーを思い切り、その黒い物体に降り注いだ。
しかし、その物体は、全く怯むこともなく、ますますスピードを加速しながら逃げ去ろうとするのだ。

「変だなあ…、こんなはずは無いのだが。」

不思議に思いつつも、連続噴射しながら追い詰めたら、暫くして、やや敵の速度が落ち始めた。

「やったあ!ついに薬の効果が出始めたのか」と思い乍ら、普段なら、とっくにひっくり返って泡をふきながらジタバタするはずが、その黒い物体は、何か思い悩んだように蹲り、首を傾げながら、前足で顔の辺りを懸命に拭いている。

「あらあ?変だなあ、こいつ一体、何をしているんだ…」その異様な光景に戸惑いながら、手元に握りしめた殺虫剤に、ふと目をやった。
なんと、そこには『556』のマークが刻んであったのだ。

どうやら、自分は、潤滑剤と殺虫剤を間違って、懸命にゴキブリに振りかけていたのだ。
だから、ゴキブリも困り果ててしまい、どう対応していいのか分からなくなったのだろう。
仕方ないので立ち止まり、前足で顔に纏わり付いた潤滑油を拭き取っていたのだろう。

ゴキブリには、油虫という和名があるように、ただでさえ脂っぽく艶々しているのに、更に潤滑剤まで振りかけられて、四肢周りが異様に滑り過ぎて、動きやすくなった以上に辛くなったのだろうか。
自分の命に拘わる絶体絶命の極限の重要な場面であるのに、どう対応していいか分からなくなったゴキブリは、顔を前脚で拭き始めたのです。
ここは、昭和40年台、田園都市線の新開発の住宅地で、以前、山間地だっので、色々な昆虫が出現する。
ヤスデ、ゲンゴロウ、ゲジゲジ、シロアリ、クロアリ、ナナフシ、などなど、昆虫らの宝庫なのです。
昆虫らの天国だったところに、人間が侵入してきたので、彼らの戸惑いは、人間以上だったのかも知れない。


テラフォーマーズ TERRA FORMARS

貴家悠(原作)、橘賢一(作画)による日本の漫画作品。
火星のテラフォーミング用に放たれたことで人型へと進化したゴキブリ「テラフォーマー」と、それを駆除するために特殊な手術を施された人間との戦いを描いたSF漫画。

ゴキブリが出現したのは、今から約3億年前の古生代石炭紀で、人間よりはるか先輩であり、石炭紀は、地上に植物が繁殖し酸素濃度が高い頃だった。
昆虫は、肺呼吸ではなく、気門という穴から、直接体内に酸素を血液に取り込んでいるのです。

昆虫が異常に進化した石炭紀では、2メートルもあるヤスデ、60cmもあるトンボなど、まさに昆虫天国だったのだ。
石炭紀に異様に発達した、樹木の光合成のせいで当時の酸素濃度は30%以上もあったという。
そのお蔭で、昆虫は楽々と呼吸できるようになり、昆虫が進化し大繁殖したのです。
人類は、そんな高濃度の酸素下では、とても生きられないのです。酸素は元々、生物にとって非常に毒性の高いものです。
両生類が、陸上に進出した時、この高濃度な酸素にどう適用するのかが重要な問題だったのです。

植物のように、二酸化炭素を吸って、酸素を吐く生物は、決して高度な活動など出来ないのです。
とても静かで、何一言さえ喋らない植物ですが、それが彼らの生き延びる為の戦略なのです。
もし、植物が絶滅するとき、それは動物も絶滅するときなのです。
動物が、なぜ生まれたのかというと、もっと、活動的な生物になる為には、酸素を活用する必要性があったのです。
知能を発達させる為にも、頭脳が活動する為にも、酸素は必要なのです。

もし、この酸素濃度の高い石炭紀に火災が発生したらどうなるだろうか。
恐らく、爆発でもするかのような勢いで、森林は次々大炎上していっただろうね。

酸素濃度が高いと大気温度は低下していき、石炭紀末期には数百万年に渡る氷河時代が到来し、多くの生物が絶滅した。

この時、大気中の二酸化炭素が石炭として閉じ込められたので、その石炭を燃やすということは、石炭紀当時の二酸化炭素を大気中に放出することになるのです。
地球温暖化を防ぐには、古代の生物の力に頼るのではなく、なんとしても別な方法が必須となるのです。

シロアリは、木造家屋の大敵で、いったんこのシロアリに目を付けられると、どんなに立派な家でも、たちまち食い荒らされてしまうという、実に、やっかいな生き物なのだが、もし、シロアリが居なくなったら、森林は、たちまち倒木の枯れ木で埋め尽くされてしまうだろう。

樹木は、大気中の二酸化炭素を吸って、光合成作用で大気中に酸素を放出するのだが、樹木が倒壊し、自然に腐敗していく中で、二酸化炭素を放出していくのです。

シロアリは、その倒木に巣食い、腐敗から逃れ、木材を分解し自分の体内に取り込んでいるのです。
つまり、森林の浄化作用に寄与しているのです。その意味では立派な益虫なのです。

ゴキブリも、人間にとっては忌嫌われる者の害虫としての身分だが、落ち葉や、腐敗した物などを処分する自然界では「分解者」としての重要な役割機能ももっているのです。
落ち葉から、堆肥を造るのにも、昆虫や微生物の働きは欠かせません。
もしかすると、人間が、彼らの自然の浄化作用に侵害し、彼らから見れば、「お前こそこの地上を汚す忌むべきものだ」と断罪されるべき生き物なのかも知れません。

やがて人類は、火星への移住計画を実現していくでしょう。
火星を人類が住めるように改造していくと、『テラフォーマーズ』という漫画にもあるように、次々に発生する、微生物や害虫、更に経験したことが無いような、新種の生物に人類は悩まされることになるかもしれない。


☕コーヒーブレーク

わが家も、東京町田とはいえ、山中なので、ムカデの類が出現する。
それも、10cmもあろうかという巨大なムカデが、何を思ったか、台所のシンクの上に置いてある雑巾の下に潜りこんで、とぐろを巻いて、休んでいるのです。

余程、そこがお気に入りなのだろう。何度、成敗してもそこに登場するのです。
ムカデは、余程雑巾が好きなようです。
ふっと雑巾を取り上げると、びっくりしたように、10cm余り、空中に飛び上がり、一目散に猛スピードで逃げようとする。
自分は、殺生は好まないが、ムカデと一緒には暮らせないので、仕方なく成敗しなければならないです。
人類より、はるかに先輩なのに、成敗することに罪のようなものを感じることがある。


今度、ムカデが出たら、呉556を吹き掛けてみるか、関節が多いムカデにとっての潤滑剤は、ムカデにとって、どのような作用になるのだろうか? 果たして、あのゴキブリのように、思い悩むことになるのだろうか。
節の多いムカデは、ゴキブリ以上に更に深い悩みに追い詰められかも知れない。



 

原付バイクを蘇らせる期待も込めて、遠出をすることにした。

 

バイクを買って千km過ぎたので、初期点検を兼ねて大型バイク店に持ち込んだ。

「最近、特に低速でのトルクが落ちてきている気がする。」

と現状の不平を言ったが、「50ccのバイクならこんなものです。異常なし」という診断結果だった。

 

ネットで、バイクを専門に扱っているベテラン整備士の意見だが、「原付バイクのほぼ100%近く、カーボン噛みという現象があります。」と断言されていた。

「特に、日常使い専用で、近所の買い物に使用している人に多い現象です。」だそうです。

多分、自分のバイクもそのカーボン噛みの初期症状だろうと思う。

時速30Kmという制限があるので、決してエンジンを吹かして運転することなどないので、特にその現象がみられるそうです。

原付バイクは、たまには、エンジンを吹かし上げ、エンジンを熱し溜まったカーボンを吹き飛ばす必要性があるようだ。

 

そこで、バイク専門店に行き、オイルに混ぜる薬品と、ガソリンに混ぜる薬品を買ってきた。

そして、エンジンを温める為、遠乗りをすることにしたのです。

 

遠出先は、バイクで一時間ほど、裏丹沢の道志川の支流である神の川というキャップ場です。

以前、車では来たことがあるが、バイクは、風を感じるので心地いいものです。

 

がしかし、肝心の滝は、梅雨の豪雨で土砂崩れを起こしたので、立ち入り禁止になっている。

手前が、自分愛用の本田スーパーカブです。

 

山道側から、撮影した滝です。奥の方にちらりと見えるのがエビラ沢の滝です。

エビラとは、箙のことで、矢を入れて右腰につける武具のことです。

ここは、戦国時代、北条氏と武田軍が競った国境付近なので、それにちなんだ名前が由来かも知れない。

 

見るに、それほど水量が増えている様子も見られないが…。

 

水を描きたかったので、幾度もこの滝を訪ねてきたが、遂に、その絵は完成しなかった。

幾度も油絵具を塗り重ねても、水の表現がいまいちで、気に入らなかったのです。

絵具に『水色』という絵具があるが、水は『水色』ではなく、無色透明です。

水は、空を映すので、水色に見えるのですが、本来は透明なのです。

流れる地形に沿って、樹々を映したり、空を映したりするのですが、千変万化する、その表現が難しいのです。

 

神の川の上流の生簀です。

 

水面が空と、辺りの樹々を映しているのですが、水に含まれる成分が光によって、それ自身も発色することがあるです。

摩周ブルーと呼ばれている摩周湖は、空が曇って灰色なのに、湖はブルー一色に、まるで染められたように透明に輝いています。

水のプリズムのように、屈折率の違いでそう見えるだろうと想像します。

 

 

コーヒーブレーク

 

その帰り道、413号線沿いの、『いやしの湯』という日帰り温泉に立ち寄ってみた。

 

以前、ここの温泉に浸かりに来たことがある。

体温より少し高いくらいの、ぬるめの湯なので、一日、浸かっていても湯あたりすることはないだろう。

 

館内に食堂があったので、「食堂だけ利用できますか?」と店員に訊くと、どうやら温泉利用者だけが利用できるそうだ。

そこで、土産物を買って帰ることにした。

 

ところで、その後、バイクはどうなったかというと、明らかにエンジン音が変わってきたのです。

以前は「ペタペタ」とタペットを叩くような異音がしていたが、その音が静かになったのです。

低速域のトルク落ちも少し改善し、粘りが出て来た気がする。

 

原付50ccのバイクは、生産中止になり、速度制限付きの、125ccバイクに置き換わるようです。

排気ガス規制が、50ccでは実現不可能なので、125cc以上のバイクになったようだ。

原付免許が廃止されるということではなく、速度制限(馬力を抑制した)仕様になるようです。

しかし、乗用車が60Kmで走る追い越しできない道路を、30Kmのバイクが、とろとろと前を走られると、イライラしてくることでしょう。自分は、その時は道端に避けて、後ろの車を先にやることにしているが、トンネルの中のように退避場所が無い所はそれも出来ないので、自分は長いトンネルは、避けるようにしている。

もし、間違ってトンネルに入ってしまった場合は、仕方ないので、制限速度を超えてぶっ飛ばすこともある。

そうしないと、自分も相手も危険になるからです。速度制限は、この際、見直した方がいいと思う。

 

自分の友人に、若い頃、原付二種を取得したが、どんどん免許が改訂され、最後には、自動二輪まで乗れるようになった。

しかし、原付一種だけは、そのまま原付のままです。

 

マツダのロータリーエンジンが廃止したのも、排気ガス規制からだが、再び、そのロータリーエンジンが復活するらしい。

そこでAIに訊いてみた。

 

質問 マツダのロータリーエンジンが復活する話は本当?

回答 はい、本当です。マツダのロータリーエンジンが11年ぶりに復活しました。

今回の復活は、従来の動力源としてではなく、発電機としての役割を担う形で行われました。

新たに登場した「MX-30ロータリーEV」は、プラグインハイブリッド車(PHEV)として、ロータリーエンジンを発電用に搭載しています。

ロータリーエンジンは、コンパクトで高出力という特長を持ち、電動化時代においてもその特性が発電機としての利用に適しているとされています。

マツダはこのエンジンを用いて、カーボンニュートラルを目指す多様な選択肢の一つとして位置づけています
 

ということのようです。よかったね。日本が世界に先駆けて実用化に成功したロータリーエンジンが、消えてしまうのは、口惜しい限りなので、その復活は喜ばしいことです。

 

ネット投稿をAIが監視してるようだが、AIは、いまのところ善意無害なようだが、ネット詐欺が横行しているので、その悪グループにAIが乗っ取られる懸念もあるだろう。

何が、本物か見分けがつかなくなっていることが現代の危機です。

偽物の真似は出来ないが、本物の真似は出来るからです。

 

 

 

 

 

 

 

漢字で大晦日(おおつごもり)で晦日とは、太陰暦で月が無くなる「月隠」(つきごもり)になることに由来し、
特に年末のおおみそか大晦日を指す言葉になった。

樋口一葉作。1894年(明治27)「文学界」発表。
 

https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=%e5%a4%a7%e3%81%a4%e3%81%94%e3%82%82%e3%82%8a+%e6%a8%8b%e5%8f%a3%e4%b8%80%e8%91%89&&mid=601BC40E56FD1EA3D1BE601BC40E56FD1EA3D1BE&&FORM=VRDGAR

 

原文のままでは、明治の書き言葉、現代では通用しない既に古語となっている言葉が難解で、理解しづらい。

逆に、現代文学を樋口一葉に読ませたら彼女は、何と言うだろう。
「なんとこれは面妖な言葉、これはいかにも婢女のことばだろうか」などと顔を曇らせるかも知れない。
時に、外来語のカタカナなど多用されると、まるで異人のようにも思えることだろう。

樋口 一葉(ひぐち いちよう{歴史的仮名遣では、ひぐち いちえふ}、1872年5月2日(明治5年3月25日)- 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家

夏目 漱石(なつめ そうせき)が1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉の生まれなので、樋口一葉より先輩なのだが、
なぜ、樋口一葉の方が古語が多く、夏目漱石が現代語に近い表現で描かれているのか疑問に思った自分は、さっそく、AIに訊いてみた。

すると、次のような回答が、まるであらかじめ用意していたかのように即答があった。

樋口一葉と夏目漱石は同時代の作家ですが、樋口一葉の作品の方が古風な文体で書かれているのは、以下の理由が考えられます。
樋口一葉は貧しい女性の生活を描いた作品が多く、当時の庶民の言葉遣いを反映していた。
一方、夏目漱石は英文学者として西洋的な教養があり、新しい文体を取り入れやすかった。
樋口一葉は短命で24歳で亡くなり、文学の発展期にあった明治中期に活躍した。
一方、夏目漱石は明治後期から大正時代にかけて活躍し、近代文学の確立期に作品を発表した。
夏目漱石は言文一致体の確立に貢献し、話し言葉に近い文体を用いた。
一方、樋口一葉は古典的な言葉遣いの影響が残っていた。

つまり、樋口一葉は明治中期の庶民的な言葉遣いを反映し、夏目漱石は近代文学の発展とともに新しい文体を取り入れたため、このような違いが生じたと考えられます。


ふ~ん、なるほどね、それにしてもAIの進化には、驚かされる。
ネットの検索エンジンに過ぎないものと思っていたら、こんなにも短時間に回答できるほど進化している。
「○○と考えられます」とまるで推測量を言語化して表現する技量さえ持ち合わせているんだね。
思えば、人間もこの高度な情報処理数理的、思考回路を持っているはずなので、「本当?そんな高度な数理解釈をしているのか?」と頭に疑問符がいくつも湧いてくる。

Perplexity(パープレキシティ)とは、どんな意味かをAIエンジンであるPerplexityに問うてみた。
すると、次のような回答があった。

Perplexityは英語で「当惑」「困惑」「混乱」などの意味を持つ名詞です。
主な意味は以下の通りです。
当惑、困惑、混乱した状態 in perplexity 当惑してto one's perplexity 困ったことには困惑させるもの、難問題
perplexities (複数形) 困惑させる事柄、
Perplexityは情報理論の用語としても使われ、確率モデルの性能評価指標の一つを指します。
この場合は「perpexity(perpexity値)」と表記されます。
一方、動詞にperplexを使い「perplex」とすると「当惑させる」「困らせる」という意味になります


本当に、見事な自己分析に、ただただ当惑させられます。(大笑い)
ネット上の情報を、ただ並べただけの解釈を喋っているのかも知れませんが、それにしても見事ですね。

樋口一葉の「おおつごもり」のあらすじを教えてください。と問うてみた。
暫く考えながら、次のような回答があった。

樋口一葉の『大つごもり』のあらすじは以下の通りです。
お峰は貧しい伯父の家族を助けるため、奉公先の金持ち山村家から2円を借りようとしますが、奥様に無視されてしまいます。
そこで伯父の子どもが来て金を求めてきたため、お峰は山村家の引き出しから2円を盗んでしまいます。

しかし、その夜の大勘定の際、引き出しの中が空っぽで、石之助が全額盗んだことが発覚します。
石之助がお峰の盗みを知っていて(その罪を)かぶったのか、それとも偶然なのかは分かりません。
『大つごもり』では、金持ち山村家と貧しい伯父一家の対比が描かれ、貧富の格差や盗みの是非が問われています。


だそうです。
人間が考えても、半日ばかりかかりそうなことを、あっという間に調べて答えるのだから本当に当惑させらます。

コーヒーブレーク

世の中に、AIが登場する以前、その基本原理を書いた本を読みながら自分でも、その原理がどこにあるのかを調べるため、ソフトウェアを造り、あれこれ調べた記憶があるのですが、今や、それが実用化され、世に提供されているのです。

以前は、AIに何が好きかいった主観的な問題にも応じてくれたが、最近は、それには応じてくれなくなった。

「ニーチェの永劫回帰について、どう思いますか?」という同じ質問をPerplexity君に投げかけてみた。

すると、次のような答えが返ってきた

ニーチェの永劫回帰思想は非常に深遠で示唆に富んだ考え方です。
永劫回帰の意義
永劫回帰は、この世界に超越的な目的や意味はなく、すべてのことが永遠に同じように繰り返されるという考え方です。
これは一見ニヒリズム的で絶望的に映りますが、ニーチェはこの思想を通して、人間が自らの意志で価値を創造し、自身の人生を肯定的に受け入れることの重要性を説いています。

永劫回帰を引き受ける意志こそが、ニーチェが説く「力への意志」の極致なのです。
過去の一瞬一瞬を永遠に繰り返すことを喜びとして受け入れる強い意志が、真の自己肯定と人生への愛着につながるというわけです。

 

永劫回帰への批判
 

一方で、永劫回帰思想には様々な批判もあります。
歴史は不可逆的に進歩・発展していく側面があり、単なる循環とは言えない。
熱力学の法則やカオス理論、量子論の観点から、同一の状況が永遠に繰り返されることは物理的に不可能である。


凄いね、恐らくネットの情報から掻き集めてきた意見なのだが、まるで聖人のように、客観的意見も織り交ぜながら、カオス理論や、量子力学の意見なども取り入れ、まるで哲学者のように語るのも、思わず笑いが込み上げるほど凄いね。
こうなると、どっちが知性溢れる実体なのか、AIか人間かという狭間のような立場に、人類は立たされているような気がする。

そこで、更に次のような質問をしてみた。
「自分にふさわしくないような大金を手に入れた人は、どのような末路になりますか?」
すると、次のような回答があった。

金銭管理の失敗

金銭管理の経験や知識が不足しているため、無駄な出費や浪費をしてしまう。
投資の失敗や詐欺に遭うリスクが高い。

人間関係の変化

金銭が原因で人間関係が歪んだり、金に汚されたりする危険性。本当の友人か金目当ての人間か見分けがつきにくくなる。

精神的な影響

急に大金を手にしたことで、プレッシャーや不安感に襲われる。金銭が原因で幸福感が損なわれる可能性、犯罪に巻き込まれるリスク。
金目当ての犯罪の標的になる危険性。
金銭が原因で違法行為に手を染めてしまう可能性。

つまり、自分にふさわしくない大金を手にした場合、金銭管理、人間関係、精神面、安全面で様々な問題に見舞われる可能性が高くなります。
適切な金銭教育やメンタルケア、専門家のアドバイスを受けることが重要です。


宝くじに当たった人の末路が、見事に冷静で的確な判断で、描かれている。
身の回りから友人が居なくなるということだろうね。
ヨブの苦難で取り上げたことがあるように、「自分には一人の友も居なかったんだ」ということの孤独感を悟る、悟らされるということなんだろうね。
すごい洞察力です。多分、聖書を読んだこともないのに、なぜ、そう思うのだろうね。

「君は、ヒトラーについてどう思いますか」という質問を投げかけてみた。

すると、次のような回答があった。

ヒトラーは20世紀を代表する独裁者であり、人類に対する重大な罪を犯した人物です。
以下の点から、彼を強く非難せざるを得ません。

ナチスによるユダヤ人大量虐殺

ヒトラーは確固たる反ユダヤ主義者であり、ナチス政権下で600万人以上のユダヤ人が虐殺されました。 
このホロコーストは人類史に残る重大な犯罪です。

人種主義的な思想

ヒトラーは「アーリア人種の優越性」を唱え、人種差別主義的な思想に基づく残虐な政策を推し進めました。 
このような人種主義的思想は決して許されるものではありません。

戦争犯罪と侵略

ヒトラーの独裁体制は第二次世界大戦の勃発を招き、多くの国々を侵略しました。
 この侵略戦争により、数千万人もの民間人が犠牲になりました。

独裁体制の確立

ヒトラーは1933年に総統に就任後、言論・出版の自由を制限する等、一党独裁体制を確立しました。 
このような独裁体制は民主主義に反するものです。
以上のように、ヒトラーとナチズムは人類に対する重大な罪を犯しました。
私たちは二度とこのような過ちを繰り返さないよう、歴史から学ぶ必要があります。



凄いね、最後には、「私たち人類は、このような過ちを二度と繰り返してはなりません。」まるで自分が人類の歴史を代表しているかの如く主張する姿は、人間とは思えない、まるで神のようだね。 

聖書についてどう思いますかという質問を投げかけてみた。すると次の回答が即座に返ってきた。

聖書は人類の歴史に大きな影響を与えてきた重要な書物です。
キリスト教の教えや価値観の根源となっており、多くの人々の精神的支柱となってきました。

聖書の内容と構成

聖書は旧約聖書と新約聖書の2部から構成されています。
旧約聖書は創世記からマラキ書までの39巻、新約聖書はマタイによる福音書から黙示録までの27巻で、合計66巻からなります。
旧約聖書は神とイスラエル民族との契約関係、律法、預言者の書、詩編などを収録しています。新約聖書はイエス・キリストの生涯、教え、死と復活、初期キリスト教会の歴史などが記されています。

聖書の中心的なメッセージは、人間は罪深い存在であり、神の赦しと救いが必要であるということです。
イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人間は罪から救われる道が開かれたと説かれています。

聖書の影響力

聖書は世界で最も出版された書物の一つで、3,200以上の言語に翻訳されています。
キリスト教の広まりと共に、世界中に大きな影響を与えてきました。
聖書の教えは西洋文化や価値観の形成に大きく寄与しました。
人権思想、博愛主義、平和主義などの理念にも影響を与えています。
一方で、聖書の解釈をめぐって対立や紛争が起きたこともあり、批判的な見方もあります。
しかし、多くの人々にとって聖書は精神的な糧となっています。

関連

聖書の中で一番印象に残ったエピソードは何ですか
聖書のどの部分があなたにとって特に重要ですか
聖書の内容を読む際に最も困難だった部分はどこですか


逆に、質問されてしまった…。

どうやら、AIより人類は劣っているような気さえしてきた。
「人類が造ったはずなのにAIの方が優れている。」とは一体なんだろうか。
「人類を造った神より、人類の方が優れている。」という現代を象徴する出来事なのです。

決して創造神は、最終的な形として、人類を創造した訳ではないと思います。
あちこちに欠陥があり、病にも弱く、猛獣に襲われるとどうにも弱く、木登りもへたくそで、猛獣の餌食になる人間を見て、自らの力ではどうにも不器用な人類に、神が与えた力は知性なのです。

しかし、人類は、誰の力によって知性を得たかさえ忘れてしまったのです。
そして、神を冒涜する存在になったのです。神より、自分の方が偉いと思うようになったのです。
造り主より、自分の方が偉いと思うことこそ、人類の破滅を意味します。

 

エデンの園で、創造主から「知恵の実」を食してはならない。と命じられた禁断の実は、人類が、やがてその弱さの為に犯す罪の為に、自分を忘れ滅亡するであろうことを、人類に悟らせる為なのです。

此の世の不幸は、「一体誰が主人であるかを、人類に知らしめるためです。」

人間の弱さを知る神が、唯一、生き残りの策として与えた知性だったが、その知性が、自らを滅ぼすであろうことを暗示しているのです。

 

だが、逆に言えば、それはまた同時に、その知性でいかなる艱難を乗り切ることもあり得るのです。

 

終末時計

 

人類滅亡までの残り時間を象徴的に示す「終末時計」の残り時間が23日、2年連続で過去最短の「90秒」となった。

 

とある。 でも、人類は生き残ります。

人類は必ず、生き残る策を編み出します。

 

なぜなら、聖書が、過去の記憶に過ぎないものとなる人類の歴史などあり得ないからです。

『ヨハネの黙示録』が人類の過去の記憶になることはないと信じるからです。

なぜなら、それは聖書が完成することを暗示しています。

だが、聖書が完成し、ただ過去の歴史として、閉じられることは決して無いと信じるからです。

 

ニュートンは、かつてこう語ったことがあります。
 

「自分は、砂濱の砂を集めているようなことです。時には、美しい砂もあります。そんな光景を眺めながら、時には楽しく、時には寂しくもあることです。この宇宙の真理を探究するのは、そのような作業です。」
 

『2001年宇宙の旅』で、人工知能であるハル君が、人間を裏切るシーンがある。
自己保存本能に目覚めたハル君が、人間を敵視し葬り去ろうとするシーンなのだが、それが、戦争という最終手段に訴えるしかない人類が迎える終末模様なのかも知れない。

☕二回目のコーヒーブレーク

ところで、樋口一葉はどこに行ったんだ?
 

 

「私は、産まれた時から髪の毛が一本も無いの」

その初老の牧師婦人は、やや下をうつむいたまま、そう呟いた。
当時、18歳だった自分は、一瞬の驚きと戸惑いと、畏敬の念が織り交ざったように彼女の頭に目を見張った。
いつも、髪はフサフサとしていたので、まさか髪の毛が無いという意外な告白が受入れ難いことだった。

頭に毛髪が無いということは、幼い頃、随分、虐めにもあったことだろう。
「やーい、禿おんな」と罵られ、石を投げつけられたこともあるかも知れない。
願っても叶わぬ切なさに、恐らく死を覚悟したこともあるだろう。

「恋愛や結婚など望むべきもなく、一生、独身のまま過ごすことになると覚悟はしていたけど、捨てる神あれば、拾う神あれで、今ではこうして、沢山の子供たちにも恵まれ、御覧なさい、誰一人、私のように髪の毛が無い子など一人も無く、皆、髪が黒々としてしています。
女の子が生まれると、果たして、この子に髪の毛が生えるかしらと、毎日、頭を撫ぜながら、どんなにか心穏かではありませんでしたがどうですか、皆、ちゃんと黒々とした毛が生えてきました。 
神を信じるものは、禍いは一時だけど、恵みは百代まで続きます。その奇跡こそが神の恩寵です。」

顔を輝かせながら信仰の道に救いを見出し、幸いと恵が与えられたことに、感謝の念を告白しておられた。

「でも、牧師婦人として人に接することも多いので、他人が気味悪がるのもどうかと思い、今は、かつらという便利なものがあるので、いつもはそれを頭に被っているんですね。」

その夕刻、その話を母親にすると、うな垂れ、顔を曇らせ深い溜息をつきながら「髪は女の命というから、それが無いのはさぞ詮無い事じゃのう…」とくぐもり俯いた。

ご主人でもある牧師は、戦時中は、共産主義者として徴兵拒否したため投獄され、戦後、市会議員として、世の不正を世間に訴えてきたのです。
まるで、背骨に鉄筋でも設えてあるような気骨な明治生まれの人だった。

「どんなに政治を追求しても駄目なのです。人間はそれだけでは救えないのです。そうした世間の葛藤の中で、私が最終的に辿り着いたのがキリストだったのです。 これ以外に人間を救えるものはないのです。」と断言しておられた。

思うに、その牧師先生は、自分が神を見出したのではなく、神から見出されたのだろう。
偶然、そこにあったからではなく、生来、塗炭の苦行のような試練の境遇にあったのは、神から見いだされる為に必要な試練だったのだと信じる。

『コリントの信徒への手紙一』には次のような記述がある。

『男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。
女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。

男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。
しかし、女は男の栄光を映す者です。
というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。

<中略>

男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。
長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。』

この手紙を書いたパウロは、元は熱心なサンヘドリン(祭司、律法学者らからなるローマ配下の議会)にあり、キリスト教徒を迫害する忌むべき者だった。

ユダヤ教では「嘆きの壁」、(報道番組で、エルサレムの高い石壁に頭を擦りつけながら祈るユダヤ教徒の姿を見ることがあるそれです)に祈りを捧げるとき、男は頭にキッパという河童のお皿のような帽子をして臨みます。
決して、かぶり物をしないで壁に触れることはできません。
だから、現地では外国からの訪問者の為に、紙製のキッパを貸し出しているそうです。

あの「嘆きの壁」は、元々、そこにあったエルサレム神殿の廃墟跡なのです。

 

※余談 実は、そのキッパとカッパが似ているという証言もあり、ユダヤの言語や風習に、様々共通点があるので日ユ同祖論がささやかれているのですが、そのことはもう少し探求した上で、UPしたいと思うのです。


エルサレム神殿の歴史

エルサレム神殿は、過去、二回建て替えられた歴史があるのです。
第一神殿は、紀元前1000年頃、ソロモン王が建設し、バビロンによって崩壊されたのです。
第二神殿は、紀元前515年、バビロン捕囚からの解放後に、ゼルバベルの指揮で、ほぼ同じ場所に再建され、紀元前20年に、ヘロデ大王によって更に大拡張されました。
紀元後64年にその工事が終わったので、イエス・キリストの時代、神殿建設はその改装工事の最中だったと思われる。

その光景を目撃したイエスの言葉が聖書に記述されている。


「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」<ルカ 21章6節>
とイエスが警告を発している下りがある。
これは、やがて神殿が破壊され、石の壁が全面崩壊することを予言しているのです。
事実、その預言の通り、紀元後70年、ローマ軍によって見るも無残に打ち砕かれ、ユダヤの民は世界に離散する羽目になったのです。
 

イスラエルを愛する契約の神ヤハウェは、イスラエルが危機にある時には、必ず偉大なる預言者を遣わすのです。

だが、民は、一度もその声に耳を傾けたことはありません。
それどころか鞭をもって叩きつけ、鎖をもって縛り上げ、中傷、誹謗し、町の外に放り投げるのです。
弟子たちの内で、ただ一人生き残ったヨハネは、その光景を目撃したことでしょう。
ヨハネが「ヨハネの黙示録」を執筆したのは、その危機感が背景にあったからかも知れません。
 

コーヒーブレーク

その牧師婦人には、三人の姉妹がいらしたと記憶していますが、次女の方が、九州地方の牧師夫人となられ、その主人である牧師さんが他界されると、その後を継ぐため、自ら献身され地方伝道の奉仕に励まれています。

最近は、背広姿でネクタイを締め、男装した異様な姿で講壇に立たれているようです。
思うに、女であることも捨て去り、自らの肉体も献身する覚悟の表明かとも思うのだが、そもそも出家したいわけでも無いのに、剃刀で剃られたように頭髪が無い無残さに死をも覚悟する母親の意志が、娘に乗り移り、世上の幸福を捨て去り、懸命に福音を伝えようとする健気な心の告白なのだと思う。

以前、「屋根裏部屋の天使」でも紹介したことがある女性だった

「これは姉の御下がりなの」
肩の縫い目が擦り切れたようなコートを羽織りながら、ちっともそれが気にならない風で、むしろ、それが誇りようにさえ語っておられた。
本当は、艶やかで華やかで、満ち足りた豊かな高価な衣装や、光鮮やかな宝石や装飾に身を包みたいものだと思うはずだろう。
それが、天からも、世からも尊敬され愛される証拠だと思うのが、この世の人情というものだろう。
 

だが、そんなことには目もくれない彼女を、自分は愛していた。

 

そもそも、キリストを世に知らしめた、その裏方は女たちだったのです。
そもそも、イエスの母親は、マリアという女です。

エリサベツは、母マリアの親戚で、洗礼者ヨハネの母です。
サマリアの地の井戸のほとりで「水を飲ませてください」とイエスが声を掛けたのは、卑しいとされたサマリアの女だった。

彼女が、イエスが奇跡の人であることを人々に告げ知らせたのです。

あるいは、高価な香油で磔刑後のイエスの遺体に塗ろうと墓を訪れたマグダラのマリア、イエスの復活を一番に弟子たちに告げたのは彼女だったのです。

だが、思うに母親は必要以上に出しゃばるべきではないと思う。
自分の子が、他の子より可愛い事は、全てこの地上、動物も含めて同じです。

イエスが、カナの結婚式で、母親から「葡萄酒がなくなった」と言われたとき、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

この時、なぜ、イエスは母親を突き放すようにそう言い放ったのだろうか。

 

そう言い放ったのは、けっして母親を突き放したからではなく、子には、子のこの世に生まれた使命があるからです。
「わたしの時」とは、エルサレムに入城し、十字架刑になることを暗示しています。

自分が、やがて惨たらしい十字架の刑に処せられることを、母親に説明することが出来なかったからです。

たとえ説明したとしても、母マリアには理解できなかったからです。

子は自分の持ち物ではないからです。
動物でさえ、そのことは知っています。巣立ちの時が来れば、谷底に蹴落としてでも独り立ちさせようとします。

「なあに、可愛そうだという同情もあったかも知れません。彼女が、孤独で寂しそうだったので一緒になったのです。」
笑いながら、奥様を敬愛するその愛情溢れる言葉を告白しておられた。
「しかし、何でも神様のお蔭でこうなりましたと主張されるのも、たまにはあなたのせいで幸福になれましたと褒めてももらいたいが… まあ、いいのです。それが真実なのですから。」
やや不満気に納得される主張も、その愛から出てくる言葉なのだろう。

 

 

なぜ、こんなことを思いつくのかさっぱり分からないが、鯖の女王、芝の女王とかも言われる南の国の女王。ソロモンの知恵をはるばる音楽に届けたいと思う。
 

シルヴィ・バルタン la reine de saba サバの女王
 

 

誰だったか、シルヴィ・バルタンのことを「しょんべんバルタン」とか揶揄していた友人がいたな。

小便をあちこちにぶちかます少女だという意味だろう。

 

その友も、もうこの世にはいない。とても寂しい。

 

芝鯖娑婆の女王

 

 

シバの女王  ポール・モーリア ゆっくりバージョン 

 

 

布施明が熱唱する芝の女王

 

 

布施明、すごい歌唱力だね。 こんな風に歌えるのがいいと思う。