言葉の意味から考える“経世済民” | 門前小僧、習わぬ今日を読む

門前小僧、習わぬ今日を読む

反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
アイコン,ロゴ画面はイラストレーターtakaさんより。
takaさんの詳細情報はブログ画面にて。

経世済民は“世を経(おさ)め、民を済(すく)う”と書く。
なぜ“治める”ではないのだろうか。

 

経世済民の“経”は元々経糸(たていと)、

つまり織物を作るとき布のベースになる糸のことを指す。
 

その並べ方によって、多様な布を織ることができる。
つまり“経”と書いて“おさめる”と読むのは、

世の中の人材や事業、或いは貨幣や物資、設備を糸に喩えて、

その並べ方、工夫によって民を救う、と言う意味の表れだろう。

 

原始的な織り方では、経糸は上下に分け、

そこに緯糸(よこいと)を通して織る。
経糸は上だけに集めても下だけに集めてもダメで、

バランス良く配置する工夫をしなければならない。

 

 

 

仮に経糸を物資や貨幣、

緯糸を人材や事業と当て嵌めて考えれば、

上にも下にもバランス良く物資や貨幣が行き渡らせ、

それが人や事業と交流することによって、

一つの布、

すなわち経済社会というものが出来上がる。

 

例え同じ質の糸を使ったとしても、

配置や織り方次第で色味や美しさが全く変わるという。
 

つまり、この布が美しくなるかどうかは、

糸の配置と職人の腕次第。


どんなに素晴らしく豊かな人材や物資、貨幣、設備があっても、

その並べ方、工夫によっては台無しになることもある。

 

当然、糸の配置が無茶苦茶ならば、

美しいどころか布としての強度も保てない、

脆弱な織物になってしまう。
 

 

 

翻って、我が国日本の織物、経済の出来栄えはどうであろうか。

 

 

経糸たる物資や貨幣は上、大企業や資産家に集中し、

下の庶民にはほとんど配置されない。

 

そんなところに人材や事業たる緯糸を通したところで、

布としての強度も保てない、

不細工で脆弱な布織物にしかならないのは明白だろう。

 

そうした糸の配置、構造に配慮せず、

ただ大量に糸をつぎ込めばいいとか、

節約すればいいとかいう発想で、

良い布などできる訳がない。
 

美しく、強靭な布を織るためには、

糸の配置や構造への配慮が必要になる。

 

一つの布織物を作り上げるための糸の配置、

構造への配慮と工夫。


それこそが民を救うのだ、

 

と言うのが、

経世済民と言う言葉の真の意義だろう。