経世済民は“世を経(おさ)め、民を済(すく)う”と書く。
なぜ“治める”ではないのだろうか。
経世済民の“経”は元々経糸(たていと)、
つまり織物を作るとき布のベースになる糸のことを指す。
その並べ方によって、多様な布を織ることができる。
つまり“経”と書いて“おさめる”と読むのは、
世の中の人材や事業、或いは貨幣や物資、設備を糸に喩えて、
その並べ方、工夫によって民を救う、と言う意味の表れだろう。
原始的な織り方では、経糸は上下に分け、
そこに緯糸(よこいと)を通して織る。
経糸は上だけに集めても下だけに集めてもダメで、
バランス良く配置する工夫をしなければならない。
仮に経糸を物資や貨幣、
緯糸を人材や事業と当て嵌めて考えれば、
上にも下にもバランス良く物資や貨幣が行き渡らせ、
それが人や事業と交流することによって、
一つの布、
すなわち経済社会というものが出来上がる。
例え同じ質の糸を使ったとしても、
配置や織り方次第で色味や美しさが全く変わるという。
つまり、この布が美しくなるかどうかは、
糸の配置と職人の腕次第。
どんなに素晴らしく豊かな人材や物資、貨幣、設備があっても、
その並べ方、工夫によっては台無しになることもある。
当然、糸の配置が無茶苦茶ならば、
美しいどころか布としての強度も保てない、
脆弱な織物になってしまう。
翻って、我が国日本の織物、経済の出来栄えはどうであろうか。
経糸たる物資や貨幣は上、大企業や資産家に集中し、
下の庶民にはほとんど配置されない。
そんなところに人材や事業たる緯糸を通したところで、
布としての強度も保てない、
不細工で脆弱な布織物にしかならないのは明白だろう。
そうした糸の配置、構造に配慮せず、
ただ大量に糸をつぎ込めばいいとか、
節約すればいいとかいう発想で、
良い布などできる訳がない。
美しく、強靭な布を織るためには、
糸の配置や構造への配慮が必要になる。
一つの布織物を作り上げるための糸の配置、
構造への配慮と工夫。
それこそが民を救うのだ、
と言うのが、
経世済民と言う言葉の真の意義だろう。
経世済民は“世を経(おさ)め、民を済(すく)う”と書く。
— 門前小僧仮面 (@monzenkozo21) October 22, 2022
なぜ“治める”ではないのだろうか。