政治的対立構造の本質~左右対立からの脱却の意義 | 門前小僧、習わぬ今日を読む

門前小僧、習わぬ今日を読む

反グローバリズム、反新自由主義、反緊縮財政。
アイコン,ロゴ画面はイラストレーターtakaさんより。
takaさんの詳細情報はブログ画面にて。

最近、政治的な対立を表現する議論として、左右イデオロギー対立軸からの脱却が叫ばれ、これと取って代わる上下の対立軸の存在が一部でクローズアップされています。

 

そこで、そもそも左右イデオロギー対立というものを何となく概観しつつ、上下の対立軸の意義について考えてみたいと思います。

 

ちなみに、思想史の流れとか、そういうマニアックで細かい話は抜きで。

 

左右対立の原点

 

そもそも、左翼・右翼の名前は、

フランス革命期の議場の配置に由来します。

この言葉はフランス革命期の「(憲法制定)国民議会」(1789年7月9日 - 1791年9月30日)における9月11日の会議において、「国王の法律拒否権」「一院制・二院制」の是非を巡り、議長席から見て議場右側に「国王拒否権あり・二院制(貴族院あり)」を主張する保守・穏健派が、左側に「国王拒否権なし・一院制(貴族院なし)」を主張する共和・革新派が陣取ったことに端を発し、続く「立法議会」(1791年10月1日 - 1792年9月5日)においても、右側に立憲君主派であるフイヤン派が陣取ったのに対して、左側に共和派や世俗主義などの急進派(ジャコバン派)が陣取ったことに由来する。

 

Wikipedia - 左翼・右翼

まぁ要するに、

右翼は守旧派・保守派、

左翼は急進派・革新派

という構造ですね。

 

ところが、この捉え方自体が、

既にこの左右両極の関係性を見誤るポイントです。

 

そもそも、こういった政治的対立軸を表現するうえで、

新・旧のような、時間概念が入ること自体が不適切です。

 

なぜかというと、

時代が進めば新旧の関係などすぐに形骸化するからです。

 

例えば現在の日本政治において、

自民党は保守派で右派、

共産党は革新派で左派

などと呼ばれていますが、

この30年、改革を進め、革新的であったのはどちらの方か?

そして今現在、憲法を改定し、その他の改革を強行採決も辞さずさらに推し進めようとしているのはどちらの方か?

既存の規制を維持しようとしているのはどちらの方か?

現行憲法を維持しようとしているのはどちらの方か?

 

これらを考えれば、

 

自民党の方が左派・革新派であり、

共産党の方が右派・保守派であることは明白です。

 

さらに、

保守派がなぜ既存の秩序を守ろうとしているのか

革新派がなぜ既存の秩序を破壊し、から新しい秩序を構築しようとしているのか、

その理由が全く見えてきません。

 

政治問題である以上、誰かの意図が必ず裏にあるわけですが、

その問題が、これらの表現からは全く見えてこない、

つまり背後にある誰かの影すら覆い隠してしまうということです。

 

政治というのは、所詮今現在起こっている問題、

すなわち

今現在起こっている利害関係問題の調整

がその役割ですから、

政治的対立軸を表現するうえで、時間的概念を含むような表現方法は詭弁の入り込む余地を与え、間違ったイメージを与える可能性が極めて高くなります。

 

では改めて、こうした時間的概念を抜いたうえで、

先に挙げたフランス革命期の議場の配置を見てみます。

 

当時その時、どのような政治対立があったのか

を純粋に抽出するということです。

 

「憲法制定国民議会」時の配置

右翼:「国王拒否権あり・二院制(貴族院あり)」を主張する

左翼:「国王拒否権なし・一院制(貴族院なし)」を主張する

 

「立法議会」時の配置

右翼:立憲君主派・フイヤン派

左翼:共和派や世俗主義派(ジャコバン派)

 

いずれの場合も、

右翼は当時既得権益を握っていた国王・貴族側の権利を主張する人々、

左翼はその既得権益を自分のものにしようとしている国王・貴族以外の人々

 

が陣取っていたことが解ります。

 

つまり、利害が衝突する人々の対立構造が存在するだけなのです。

 

現代日本のウヨパヨ糞争

 

では、現在の日本における左右対立構造はどうなっているでしょう?

 

正直、書くのをうんざりさせられるほど複雑で多種多様に渡る主張がある上に、同じ右翼・左翼の中にも対立構造があったり、あるいはネトウヨ・パヨクが敵認定したものがネトウヨ・パヨクとレッテル貼りされた結果カテゴライズされるなどして、何が何だかよく解りません。

 

それでも、ネトウヨ・パヨクの関係性は、割とシンプルです。

B層用にカスタマイズされているからかもしれませんね。

 

 

これ以外、例えばフェミニズムを巡る論争では、

左派にフェミニストが多く、これに批判的な層がネトウヨと呼ばれたりする構造と言うものがあったりと、必ずしも左右対立とは直接的に関係のない構造が疑似的に左右対立に組み入れられているというような現象もよく見られます。

 

これも、日本の左右対立構造を複雑化し、庶民からドン引きされている要因の一つでしょう。

 

左右対立構造の変遷と

上下対立構造

 

さて、フランス革命期に話を戻すと、

左右対立軸の構造は、

右派:封建主義的・絶対主義的支配体制の支配者側

左派:封建主義的・絶対主義的支配体制の被支配者側

 

ということができるでしょう。

 

革命が進むにつれて、封建主義的支配者が排除されて行きましたが、

最終的にこの構造にどのような変化が起こったのかといえば、

 

右翼:資産家・富裕層・経営者等、経済的強者

左翼:庶民・貧困層・労働者等、経済的弱者

 

となり、いわば

 

それまで王族や貴族が持っていた既得権益が資本家や地主にスライドしただけということができます。

つまり、既存の権益所有者から、別の所有者に権益が移動しただけということです。

 

これを、ロベスピエールは封建地代の無償廃止(農奴解放)、黒人奴隷制の廃止(のちにナポレオンによって無効)など、貧困層、社会的・経済的弱者の利益となる政策を恐怖政治の暴力をもって実施します。

 

つまり、恐怖と暴力を使って、富裕層から無理やり権益を奪い取ったのです。

 

最終的にロベスピエール独裁が倒れる原因となった最高価格令(物価統制法)、最高賃金法も、物価の高騰による庶民生活の破綻を防ぐ目的、最高賃金法は彼の支持基盤でもあった中小ブルジョワジー(中小企業)が、大資本に比べて資本力に劣る彼らが過度の賃金上昇に困らないように取られた政策とも言えるため、

ロベスピエールが実施した政策のほとんどが中間層~貧困層の利益を増やそうとした政策であったと考えられます。

 

これらは典型的な、国家権力を持って経済自由を抑制する統制経済と呼ばれるものです。

 

フランス革命期の左右対立の変遷は、暴力を含む政治抗争の結果によって、右派が目まぐるしく変わるという経過をたどりました。

 

そして、最終的には左派の独裁→消滅という結果に至ります。

 

フランス革命初期の封建主義支配層が排除され、独裁に至る一歩手前の段階における左右対立構造こそ、現代にも通じる左右対立構造の本質です。

現代日本のネトウヨvsパヨク対立など、見せかけだけの似非対立だと断言できます。

 

すなわち、

右翼:資産家・富裕層・経営者等、経済的強者

左翼:庶民・貧困層・労働者等、経済的弱者

であり、つまり政治的対立構造とは、経済的事由に基づく対立構造と同義で、言い換えれば賃金を巡る対立と言っても差し支えないと言えるでしょう。

 

さて、このシンプルな構造にはいくつかの複雑な問題が絡みます。

一つは、以前物価に関する記事でも出てきた

労働者=生産者=消費者

という問題です。

 

この問題こそ、ロベスピエール独裁が倒れる原動力となった問題で、物価と賃金を抑制する制度設計は、

経済的弱者の生産者としての一面を無視したものであり、

 

作物をもっと高値で売りたい農民、

もっと賃金が欲しい労働者の反発を招き、

 

ロベスピエールらが権利を代弁しようと考えていた人々の手によって、自らが打倒されてしまいます。

 

最終的に、彼らが消滅した後、

 

右:経済的強者

 

vs

 

左:経済的弱者

 

という対立構造のみが残ることになります。

 

この構造、どこかで見覚えがありますよね?

そう、昨今一部で叫ばれている上下の対立軸というやつです。

 

要するに、一周だか何周したのかよく解りませんが、

政治的対立軸は、

フランス革命期の原点に回帰しているのが現代社会と言えるのです。

 

そして、この経済的強者と経済的弱者の対立構造を、いちいち左右にする必要はありません。

フランス革命期では、たまたま経済的強者が議場の右側に陣取り、

経済的弱者が左に陣取ったというだけで、右だの左だのには本来意味などないからです。

 

またこの構造を階級闘争と捉えるのも、

国民主権の民主主義国家では不適切でしょう。

国民主権の民主主義国家では、

単純な論理で考えれば、

本来ならば経済的弱者の方が政治的に絶対優位であるからです。

 

政治の本質的役割

政治の本質的な役割は、二者以上の人間の利害関係の調整です。

この調整には、奪い合い、譲り合いといった二種類の側面があり、

基本的には前者の側面が強いものです。

 

フランス革命期に起こった左右政治対立の本質もこれと同じで、

暴力の行使すら躊躇なく行われる当時において、

純粋に奪い合いという政治の側面が強く表れた結果、

政治的対立相手との共存ではなく、

一方が一方を弾圧、あるいは打倒することで政治的決定がなされるという極めて暴力的かつラディカルな政治決定がなされていたことになります。

 

経済的平等の本質

 

フランス革命期に掲げられた三大理念は、

現在では自由・平等・博愛と言われますが、

革命初期には自由・平等・財産でした。

 

このことからも、

そもそも政治的な対立構造の原点に

‟利益”というものが絡む証左であるともいえるでしょう。

 

このうちの‟平等”ですが、

要するに

俺たちにも儲けを寄越せ!

という意味での平等です。

 

いわば人間の欲望に、

平等という見栄えの良い包装をした言葉に過ぎないのです。

 

誰かが利益を独占するのではなく、

公平に分配すべきである、という発想は、

 

当時事実上様々な権益・利益を独占していた

‟持てる者”、

王族・貴族、そして資本家や地主

 

に対して、

 

”持たざる者”、

労働者や農民ら一般庶民

にとっては、

 

一方的に利益を要求できるスローガンでした。

 

しかしながら民主主義の下、

資本主義と貨幣経済が発達した現在では、

国家、すなわち政府が絶大な力を持っています。

 

単純に論理的に考えれば、

民主主義の政治において、

数の多い経済的弱者が、

数の少ない経済的強者に対して

負けることはあり得ません。

多数決で政策を決定する民主主義国家においては、

経済的弱者の優位は揺るがないはずなのです。

 

つまり、国民主権という民主主義国家では、

常に多数派の経済的弱者は‟持てる者”となっているのです。

 

しかしながら、

実態はそうなっていません。

 

結局、経済的強者が国家の意思決定権に近い人間と近い関係性を持ち、政治的な決定を下してしまうからです。

 

それ故に、この国民主権・民主主義という政治体制も、

その可能性を残しながら経済弱者が‟持てる者”としての地位を占めるようなものになりえていないというのが実情です。

 

歴史的には、

かつては冷戦構造という環境が経済的弱者に有利に働き、

先進国においては、

経済的弱者にとって極めて有利な状況を作り上げることになりました。

 

しかし、

 

冷戦終結後、経済的強者の逆襲が始まります。

 

すなわち、新自由主義の台頭です。

 

経済的強者の逆襲

様々な手法を用いて、経済的強者は自らに有利な環境・国家を手に入れようとします。

 

彼らが己の利益を求めようとするのならば当然と言えるでしょう。

環境的には、自らの利益を脅かす可能性があることも考えれば、

それも必死に。

 

絶大な力を持ち、多数派である経済的弱者が主導権を握れる可能性のある政府の力を弱めることで、

本質的に経済的弱者に有利な構造を持つ民主主義国家において、

自らに有利な構造を作り上げる。

 

そのためのメソッドが財政均衡主義、緊縮財政と、規制緩和です。

 

財政均衡主義の布教によって政府の力の源泉である通貨発行権の活用を抑制、あるいは禁じ、

緊縮財政の推進によって政府の力自体を弱め、

規制緩和によって経済的強者の力の抑止力を弱め、

相対的に経済的強者の力を強める。

 

株取引などの規制緩和によって、労働者に矮小化された資本家としての立場を限定的に与え、自分たちの味方につける。

 

かつて経済的強者の利益を弱者に分配するためのスローガンだった平等というスローガンを逆手に取り、

井手英策のように‟痛みの分かち合い”などというレトリックを用いて、

経済的弱者から搾取しようとする。

 

また、経済的弱者にとって真の利益は何かが解らなければ、

政治の場で権利を主張することもできません。

様々なデマや彼ら経済的強者にとって都合のいい情報を常に流し続けることで、民主主義国家の主権者たる経済的弱者の正常な判断力を奪い続ける。

 

右翼:経済的強者

左翼:経済的弱者

 

という既存の政治的左右対立構造の本質を気づかせないように、

様々な不純物を左右それぞれのイデオロギーに盛り込むというのも一つの手段です。

 

その結果、厨二病罹患者が考えたヒーローとそのライバルのように、

様々な設定がてんこ盛りの訳のわからないモノになってしまいました。

 

誰かを叩くだけのルサンチマンイデオロギーもその一つ。

 

そもそも、誰かを叩くだけのルサンチマンイデオロギーというのは、

いわば理想論に過ぎず、誰も幸せにしないことの方が多い。

なぜならルサンチマンとは、誰か、特に経済的弱者の利益を代弁しているわけではないからです。

それによってある経済的強者が倒れたとしても、経済的弱者の鬱憤が晴れるだけで、誰も利益を享受することはありません。

 

政治的左右対立構造と

経済的左右対立構造の関わり

経済的な左右対立では、

右:自由経済

左:統制経済(計画経済)

となりますが、これもある意味で政治的な左右対立構造、

すなわち

右翼:経済的強者

左翼:経済的弱者

という構造を敷衍した側面があります。

 

統制経済では、極端なものでは経済を国家が全てコントロールし、

分配も全て国家が決めるというものです。

極めて単純に、論理的に考えれば、

民主主義・国民主権国家の場合、

統制経済下では民意によって、つまり圧倒的多数派を占める経済的弱者が一方的に利益を得られる可能性があると考えられるものですが、

 

実際は国家や政府を運営するには権力構造という前提が必要である以上、政治的強者と政治的弱者とを二分する構造からは逃れられません。

 

ソ連や東欧諸国、そして中国や北朝鮮の例を見ても明らかなように、国際関係上の問題などにより技術革新が停滞し、

ソ連は崩壊、東欧諸国や中国は自由主義経済に舵を切り、

北朝鮮は他国からの支援を命綱とする貧国に陥ってしまいました。

 

反対に、

 

自由経済では、経済への国家の介入を忌避します。

つまり、経済において絶大な権限を持つ政府の介入を排除することは、経済的強者の行動を絶対的に束縛する存在を排除することになり、経済的強者の利益・有利に繋がります。

 

こうして表現してみると、自由経済とはいっても、

結局のところ統制経済的な側面を強く持つということがお解りかと思います。

 

なぜなら

地球上に絶大な力を持つ国家や政府が存在する以上、

その国家・政府の介入を排除し、

経済的強者が有利な環境を作るには、

国家や政府自体を規制や条約でがんじがらめにして、

無理やり作るしかないからです。

 

結局、自由とは言いながら、

自由経済も極端なものでは設計主義的な側面を持ち、

行き過ぎれば極端な統制経済と同じ側面を持つということです。

 

その代表格が欧州連合、EUであると言えるでしょう。

 

国際条約に基づいて、

共通通貨を用いて各国政府の通貨発行権を剥奪し、

さらに関税を撤廃することで政府の関税自主権も剥奪して、

大資本・強い供給能力を持つ企業が圧倒的有利な形で経済的弱者国の所得を吸い上げる、まさに経済的強者のための統制経済です。

 

TPPやFTAも、関税の撤廃等国家や政府の権限を規制することによって、自由貿易・自由経済を実現しようとするわけですから、

自由などとは名ばかりの、単なる統制経済に他ならないのです。

 

ゆえに、真の自由経済とは、

極端な自由主義的統制経済と、

極端な社会・共産主義的統制経済との対立の狭間に、

たゆたうようにして存在する儚い存在でしかない、

ということが出来るでしょう。

 

つまり、両者が拮抗していなければ、

真の自由は存在できない、ということです。

 

真の自由とは、

そうあらんとした人間たちの意思を注ぎ込んだコップを撹拌した末に、

偶発的に生まれるコップの上面に浮かぶ絵柄のようなものです。

 

そのような偶発的にしか存在しえない真の自由を、

はたして追い求めることが人間に出来るのでしょうか。

というより、そんな真の自由を求めることが、

人間の幸福につながるのでしょうか。

 

所詮人間には、己の理性や知性の基づいて、

極めて設計主義的に、計画的に社会を構築しようとすることしかできません。

 

その上、

神の意図によってしか得られないようなものが得られたところで、

人間にとって幸をもたらすモノかどうかも解らない。

 

今現在似非の自由が蔓延しているとはいえ、

真の自由を求めることすら、

人間として意思を持つのであれば、

無責任と言える態度であると私は考えます。

 

イデオロギーからの脱却と、

イデオロギーの放棄との違い

 

人間は、特定のイデオロギーから脱却することはできても、

イデオロギー自体を放棄することはできません。

こうありたいと欲するのが人間だからです。

 

何が大事なのか、

何を求めるのか、

何が幸福なのか、

 

こういったものを持ち続ける以上、

何らかのイデオロギーがその人間を支配します。

イデオロギーとは、人間の意思そのものです。

 

自分にとって利益不利益関係のないイデオロギー、

例えば

何者かを攻撃するだけのイデオロギーも存在しますが、

それは決して相手だけでなく、自分にとって何ら意義のあるものではない空虚なイデオロギーです。

 

自分にとって有益であるイデオロギーこそ、

その人だけでなく、他の誰かにとっても有益である可能性を必ず秘めるイデオロギーであり、

それが大人数か少数かの違いしかありません。

 

イデオロギーを放棄しようと志向することは、

いわば人の身でありながら、

神の視点に立とうとすることに他ならず、

単に厨二病的な無為と断ぜざるを得ません。

真の自由とやらを求めることも同じです。

 

左右対立からの脱却と、

經世濟民

最後に、私なりの左右対立構造からの脱却を個人的な感想として述べさせていただきます。

 

ここまでの内容も、私の知識の範囲内で考えたものに過ぎませんが・・・。

 

 

 

 

私の認識では、經世濟民とは、一言で表すと

 

誰もが損をしない社会の構築

 

にあると考えています。

 

政治的対立構造において、政治による利害関係の調整の結果は、

①右が一方的に得をする(左が一方的に損をする)

②左が一方的に得をする(右が一方的に損をする)

の二者、つまり

 

力の強い側が反対側の利益を奪うという構図に陥りやすい。

 

しかし、ここで国家、あるいは政府という存在が絡んでくると、

話は変わります。

 

政府は、通貨発行権を持つがゆえに損得といった概念からは解放された存在です。

つまり、人間同士の利害関係からは無縁の経済主体ということができるわけで、政府が一方的に損をしていても、誰も困らないわけです。

 

それどころか、

政府が損をすれば、

反対側の国民は得をする構造になっています。

少なくとも金融資産というものに限定すれば。

 

政府の赤字は国民の黒字

 

というわけですから。

 

このような政府の特徴を上手く活用すれば、

経済的強者も、弱者も、

両者が得をする、

少なくとも損をしないような社会というのは実現できるはずです。

 

例えば企業などで法人税を増税したとすると、

この点だけ見れば企業にとっては損ですが、

取られる前に賃金に多くを回せば労働者の可処分所得が増え消費が増加し、売上が上がるかもしれないし、

国民の可処分所得が増えていれば、その状況で法人税を取られる前に設備投資をすれば、来期以降に売り上げを伸ばすことができるかもしれない。

 

一時損をしても、それを取り返せるような社会、

一時損をしても、最終的には得になって帰ってくる社会。

 

一方が貪欲に、相手の利益を一方的に奪い去ろうという悪意がなければ、

 

あるいは

 

一方が、相手に損をさせたいという意図でもない限り、

 

誰もが得をするという社会というのは構築可能でしょう。

 

自分の得が、誰かの得になり、自分の一時的な損も、誰かの得なる。

最終的に、自分も得する。みんなも得する。

 

どっちに転んでも、みんなハッピー。

 

經世濟民とは、

限りなく強欲で、

にもかかわらず他者への思いやりに満ちた、

人間味溢れるイデオロギーである

と私は信じています。

 

私にとっての左右対立構造の脱却とは、

まさしくこの漫画のセリフなのです。