早期教育から平和教育へ | モンテッソーリな時間~バイリンガルに魅せられて~

モンテッソーリな時間~バイリンガルに魅せられて~

中2の娘とワーキングママによる2歳からのホームモンテッソーリとバイリンガル育児の足跡を綴っています。

 

エレメンタリー教師養成講座にて約1ヶ月半に渡り学習してきた「平和教育」。今から5年前、モンテッソーリ教育と出会った頃には、早期教育としか捉えていなかったこの教育法。

 

「就学前に、読み・書き・算数までやるんだって!!」

 

目を輝かせながら、夜な夜なそう夫に話した記憶があります。

 

でもいざ実践を試みると、読み・書きの前段階の日常生活の練習にて、すでに挫折気味。マニュアルに書かれた通り練習をして子どもに提示しても、全く見向きもしない2歳児。それより、自分の遊び慣れたオモチャの方が断然良いらしく、母を置いておもちゃ箱へ一目散に走り出します。

 

自分自身の未熟な提示にイライラ。そして準備した提示を無視する娘には、もっとイライラ。書籍に書かれていた「正常化」なんて、我が家には理想論でしかありませんでした。

 

そんな究極の早期教育のイメージしかなかったモンテッソーリ教育。あれから5年という月日が経ち、「平和教育」というある意味モンテッソーリ教育の核心へとやっと辿り着こうとしています。そして今見えるこの景色は、5年前のあの頃とは全く違ったものであることを実感しています。

 

モンテッソーリ教育においての教育とは、子どもに知識を与えることではなく、平和を実現するための手段であること。

 

なかなかこのシンプルなことが、3歳から6歳のプライマリーの頃には見えづらかった気がしています。

 

そして当時は、「平和教育」と聞いても、「おしごと」がどう平和教育へ繋がるのか全く未知の世界でした。

 

平和と教育―平和を実現するための教育の意義 (1975年) 」にこんな一節があります。

 

モンテッソーリにとって平和とは、そのまま決して単なる政治的、国際法的、経済的、その他の重大事件なのではなく、すべてを含んだ人間学的なもので、まさしく宇宙全体のかかわる根本事であった。モンテッソーリが信じて疑わなかったことは、平和を「戦火のやんだ状態」と解する単なる「消極的な概念」をもってしては、何ものも得ることができないということである。そのような平和は、次の戦争をいつもすでに内にはらんでいるからである。モンテッソーリにとって真の平和とは、全世界が「正義と愛」にもとづいて「調和」をした状態であって、それは「正常かつ「健康」な、本来そうべきと考えられている状態である。

 

では、果たしてこの平和をどう実現させていくのか。

 

「方策はただ一つ。正しい教育を通じてあるのみ。」

 

それがモンテッソーリ教育です。この壮大すぎる課題を一つ一つ解決していくのが、モンテッソーリのエレメンタリー課程とも言えるでしょう。

 

モンテッソーリのエレメンタリー課程では、日々の教室の活動を通じて、ピースメーカーになるための平和的な解決な仕方や理解を深めていきます。モンテッソーリ教師は、「平和」をただ教科として教えるだけでなく、平和を志す人間として自らが示していくことが求められています。

 

そのためには

 

●宇宙の原理を理解し、平和的な意思で行動することの重要性を理解する。

●子どもに教えるスキルを学び実践する。 これらのスキルは実践することで習慣となり、自分自身の理解と平和への理解を明確にすることができる。

 

早期教育的なものとして捉えて出発したモンテッソーリ教育。誰かよりも先に行くこと、誰かよりも秀でること、誰かよりも劣ること。「競争」も「賞罰」も存在しないモンテッソーリ教育の意味が、ここに来て更に分かるようになりました。

 

小学校生活では当然競争も賞罰も存在します。そして今の社会を生き抜いていくには、やはりこれらを知る必要性もあるのでしょう。ただ、行く先は競争も賞罰も超えた世界平和であること。心から願っています。

 

<参考文献>
P・オスワルト, G・シュルツーベネシュ編『平和と教育ー平和を実現するための教育の意義』、エンデルレ書店、1975、3貢。

 

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