例えば「P」の話がいつか「Q」の話になり「Q」の話をしているうちに話題は「R」に移り「R」の話が途中から「S」の話になる、という現象を、延々と。

◇ひとこと◇ 2015.1.15

6年近く放置し、シナプスの気まぐれでふと見てみれば、よく分からない機能がたくさんと、(多分大半はダミーの)足跡がぽつぽつ。また、単に一方的に書き殴るだけと思いますが、修正、再開しようかなと思います。

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アルバム

残したいものを残すためのもの―なのだろうけれど。


一卵性双生児の片割れとして生まれた。今はそうでもないと思っているが、幼い頃は特に見分けがつきにくかったらしい。
ほとんど記憶にないくらいの年齢までは、親がまとめた個別のアルバムがある。先日何かの拍子に見てみたところ、確かにどちらがどちらか分からない。おそろいの服なんか着せるからなおさらだ。本人ですらそうなのだから、他人から見たらもはや難易度の高い間違い探しになる。ただしよくよく見ると、微妙に表情に違いがある。何となくカメラを意識してポーズを取っているのが妹で、「またかよ」とでも言いたそうな何となく迷惑そうな顔をしているのが自分だ。考えてみれば、カメラを向けられるたびに迷惑に感じた記憶もあるような、ないような。

アルバム自体はおそらく保育園に上がる前くらいの年代で終わっている。要するにずっと家にいた年代で、親が写真を撮る機会が多かったということだろう。よく「かわいい盛り」と言われる年代でもある。それ以降の写真と言えばあるのかないのかすら分からない。
特に自分の昔の写真に興味はない。そもそも記録を残したりそれをもとに過去を振り返る習慣はあまりない。足跡はあまり残さない方が楽だ。このブログだって長い目で見たら例外ではない。ウェブの海に埋もれてひっそりこっそりできるから、続いているだけで。

そのせいかどうか、昔のことを案外覚えていない、と友人に言われる。思い出したくないことは思い出して夜中に寝られなくなるのに、捨てられている記憶は案外多いらしい。どうせ忘れるなら忘れたいことを忘れたいものだけれど、そういうものに限って「考えないようにする」くらいしかできないという理不尽。
そうやって忘れたくないことを忘れてしまうのを補うためのアルバム、なのだろう。自分の足跡よりもそれ以外に覚えておかなければならないと思うことの方が、私には断然多いけれど。

記憶への無頓着さを気づかせてくれた友人は高校時代からの友人で、進学先が同じ東京だったこともあって時々行き来していた。彼女を含めた友人数人で東京の名所を歩く「おのぼりさんツアー」を企画したことがある。それを記録したアルバムは冊子ではなく既にCDROMだった、と思う。

それで、さてどこに行ったか思い出そうとすると、確か浅草とか都庁の展望台ぐらいしか思い出せないことが、また記憶の理不尽。


次回「展望台」



ノート

つながりは唯一、9年前の自分の筆跡で。


高校2年の担任で物理を教わった先生が8月、突然亡くなった。47歳だった。
会社の宿直を終えて朝、自宅に戻り、昼前の葬儀に参列した。暑い日だった。
私が会場に着いたときにはもう、会葬のホールは高校生や学校の先生方でいっぱいだった。
集まった参列者が会場に入りきらず、ロビーに急遽椅子が並べられた。
その椅子の一つに座り、遺影ではなくロビーに飾られた思い出写真を眺めながら弔辞を聞いた。


祖父の法事以来、葬儀や法事は、生きている人間が区切りをつけるためにやるものだと薄々感じていた。しかし、弔辞を聞いても、焼香を終えても、葬儀のあとも、まったく区切りはつけられなかった。

高校2年のときは、よく気にかけていただいた。夏に成績が落ち込んだときには励ましてもいただいた。
3年への進級時にご異動になった際、離任式後に少しお話する時間があった。
なりてがいなかった学級委員を引き受けたこともあって気にかけてもらってていたと、そのとき伺った。
先生のご異動は本当に残念でだった。それでも卒業してからまたお会いできると疑っていなかった。

先生が入院される前、検査で市内の病院を訪れた日、偶然私もその病院にいた。
整形外科の診察室前のロビーで、先生らしき後ろ姿を見かけていた。
2年前の春高バレーの県予選でも、おそらく監督かコーチとして来られた先生を見かけた
先生が勤めておられた高校にも仕事で行った。
仕事で気持ちに余裕がなかったとはいえ、どうしてそのときに、一言声をかけなかったのか。
特に病院のロビーでは、あんなに長かった待ち時間で、どうして声をかけなかったのか。
先生がその後すぐに入院されたことを考えると、なおさら機会を逸したことが残念だ。

後悔しているということすら今では伝えられないという事実が、本当にどうしようもない。

先生に教わった物理の授業のノートは、実家でそのままになっていた。
力学の運動方程式から始まって、ずいぶん几帳面な図解と文字が並んでおり、開いてはみたものの、後悔とどうしようもない思いが先立って、すぐに本棚に戻した。
当時から成績は悪かったが、物理自体は嫌いではなかったし、今でも興味だけはある。
社会に出ていろいろなものが見えるようになった今、先生と思い出話をしたかった。

学生時代から始めたブログを、自分の感情を吐き出す場にはするまいと、決めていた。
しかし、先生に声をかけなかった後悔がなかなか消えない。
同窓会を開いても先生にお会いできないというのが本当に残念で仕方ない。
卒業前に異動された先生のお写真は、アルバムにすら残っていない。
ただ、先生の授業のノートを、今はじっくり眺めることができないにしても、残しておくつもりでいる。
9年前の、高校時代の自分を介して、先生を偲ぶしかない。。


次回「アルバム」

引き出し

貧乏性と、相性が悪いもの。


仕事でも私生活でも、紙類などを重ねて入れてしまって探すのに苦労することが多い。
大体がすぐ捨ててもよさそうなものを何となく一応取っておいたため、箱の空間に積もって地層ができる。
箱だから目当ての何かを探すときは地層ごと取り出さないといけない。紙類なんかはひどいときは引き出しと上の引き出しの間をすり抜けて机の裏に落ちてしまい、いちばん下の大きな引き出しをどうにか外して探し出す羽目になる。そもそも深さのない引き出しは紙類を入れるものなのか、どうか。勝手が悪いのはわかってはいるのだけれど。

衣類の整頓も苦手で仕方がない。もともと数を持っていなかったのが社会人になったら必要に迫られてかなり増えたせいだ。ぎりぎりまで寝ていたい朝は、どうしたって洗濯したてでハンガーに掛かっている服の方が選ばれる可能性が高い。タンスの奥にある衣類なんて、年に数回出すか出さないかなのに、捨ててしまうには惜しい貧乏性だ。
ましてほとんど黒か白の、彩りに乏しい中身だから、一回引き出しに入れてしまうと探すだけで疲れる。広げてみないとどの服かすらわからないことだって多い。どこに何を入れたかなんて、半年も経つと忘れてしまったって不思議ではない。決して数は多くないはずなのにこうなるのだから、世の中の「衣装持ち」な人はどうやって整理しているのだろう。
衣替えの度にいちいちひっくり返すのは面倒なのだが、なんとか着られそうで、季節をしのげそうな分だけの衣類が見つかると、最近ではほっとするようになった。それは買い物がおっくうになっているのであって、そのことは自分でも、ちょっとつまらない気がするが。

仕事場の机の前には春頃、段ボール箱を置いた。これも貧乏性と相性が悪い。
資料のファイルや冊子類がどうしても収まりきらなくなったからなのだが、箱があるとついつい取っておかなくていい資料までそこに入れてしまう。早い段階で取捨選別するのが仕事場の環境を快適に保つポイントなのは分かっている。けれども情報貧乏性というか、必要が不必要かの判断に自分で自信がないというか。ファイルの冊子も増え、どんどん積み重なって今では下から2段目の引き出しまで開けられなくなりつつある。
その引き出しに入っているのは、主にメモに使った過去のノート約30冊。そうそう掘り返すことはないのだが、かといってそうやって油断していると、引き出しの前には物が積み重なるばかりになりそうだ。


次回「ノート」

カードケース

真夏のワンピース柄と、印伝細工の「華」。


 手元にあるカードケースは、ポイントカードを入れるプラスチック製と、名刺入れの2種類。そのうち、学生時代から使っていたプラスチック製が先日壊れた。本体をゴムでとめているだけの簡素なもので、劣化していたゴムがぷつりと切れた。半透明の、赤や青、黄色などのチェックで、田舎の子供が真夏に着るワンピースによくありそうな柄。もったいない、というよりも新しいものを探すのが面倒で、違うゴムでとめて今でも使っている。

 

 カード類の整理は苦手だ。そうそう使用頻度が高くない店のポイントカードは作らないようにしているが、それでもたまる。必要なときに限って行方不明になることもよくある。ポイントカードならともかく、運転免許証を失くしたときは周囲に呆れられた。上京時くらいしか使わないSuicaに至ってはかばんに放り込んだまま。キャッシュカードなんかは財布に入れているから大丈夫、と思うのだが。

 最近は使う店も絞り込まれてきたので、使いそうなものをそのケースに入れて車の中に放り込んである。どうせ移動は車なのだから、これで忘れることもないだろうと思っていたら、車の中に入れたままうっかり財布だけ持って買い物に行くこともある。会計のときまで気づかないから手元にない旨を伝えてレシートにスタンプを押してもらうが、そのレシートを持って再度買い物に行くことは、まずない。


 もう一つの名刺入れの方は、学生時代お世話になった先生が卒業・就職祝いに、「就職したらすぐ必要になるんだよ」とくれたもので、鹿の革に漆で模様をつけた、印伝細工の花柄のもの。臙脂の地にベージュの花が浮き上がり、持ち物も着るものも黒っぽい地味なものが多い中で、模様のとおりの「華」になっている。先生は「丈夫なものじゃないから間に合わせに」と言っていたが、そういう先生のことと、新入社員時代(今でもそれに毛が生えた程度だが)の色々が染み込んで、とても間に合わせでは終わらせられない。

 

 ここ数年、やたらと人に会うことの多い部署にいる。その名刺入れもだいぶ馴染んでふくらみ、追加追加で印刷した名刺はゆうに1000枚を超える。人からもらった名刺も当然そのくらいに上るわけで、もう会わないだろうという人もいれば何度も連絡を取り合う人もいるので、とりあえず印刷した名刺が入ってくる青い透明な箱に分類して入れて会社の机の引き出しにいれている。

 それをそろそろ分類しなおそうと考えているうちに、だんだん引き出しの容量が限界に近づいてきた。それでなくても机の上とほかの引き出しは使用者の容量を超え、ついに段ボール箱まで置く始末。1カ月に2回ほどめぐってくる宿直のときに片付けて、せめて名刺はファイリングするなり使い勝手の良い形にしたいのだが、なぜだかいつも後回しになり、着々と臨界点に近づいている。



次回「引き出し」


 

印章

中国・上海の、「散歩」の思い出。




 初の海外旅行で中国を訪れたのは、もう5年も前になるだろうか。まったくの一人旅で、英語はそこそこ、中国語は知識なし。パスポートの取得もリコンファームも何もかも初めてで、今考えれば無鉄砲限りない。


 3泊4日だったと思う。経済成長中か、その前夜ぐらいの時期だっただろう。ガイドブックにある観光名所にはほとんど足を運ばず、電車で蘇州に行き、上海の街中の路地裏をひたすら歩いた。



 「水路の街」「東洋のベネチア」といわれていた蘇州の水路は少し細かい路地に入れば残飯が浮いていて、上海の路地裏は、どこにでもあるような小奇麗なデパートに何だかアンバランスな漢字の看板の表通りとは違い、3階建てくらいの住宅に道路をまたいで紐がわたされ洗濯物がはためいていた。蘇州に行く途中の霧の田園風景と、ほこりっぽい灰色の駅で改札に集まった人の雑踏も覚えているが、どうも自分がその場にいたという実感がない。それだけ現地の雰囲気にコミットしていなかったということだろうと今は思うし、そんなところしか見てこないから、旅行というよりは散歩に、それも金のかかった散歩に近かったのだ。



 それだけ名所に興味はなくても博物館には足を運んだ。青磁や書などをみて、何となく赴いたミュージアムショップで父への土産に選んだのが、おそらく水晶でできた透明な印章だった。値段も何も忘れたし、そもそも人に贈ったものなのだが、なぜか上海旅行といえば思い出すのは、蘇州の水路と上海路地裏の洗濯物と並んでそれなのだ。


 父は、実際にどこかの店で名前を彫っただろうか。いや、引き出しの中かどこかで眠っている可能性が高い。勿体ないのか興味がないのか、どちらなのかは分からないが、存在自体贈った方が覚えていても、贈られた方は覚えていないことは十分ありうるだろう。



 母や妹、姉に贈ったカードケースは好評だった。光沢のある青や紫、紫がかった赤の、布製だった。免許証か保険証入れにでも使っているはずだ。ただ、その旅行で自分は手元に何を残したのか、それが思い出せない。写真も撮ったかどうか、ただ筆談に使ったメモ帳と散歩の記憶のみ。初めての海外旅行にしては、いや初めてだからというのもあるのか、「記念」が少ないと苦笑するしかない。




次回「カードケース」

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