例えば「P」の話がいつか「Q」の話になり「Q」の話をしているうちに話題は「R」に移り「R」の話が途中から「S」の話になる、という現象を、延々と。 -2ページ目

チェス

先を読むということを理解するまで、20数年。



 オセロや将棋は子供の頃から身近にあったが、チェスは意匠に惹かれていただけだった。


 姉はオセロが得意だったし、中学のときに最初にチェスのルールを覚えようと本を買ってきたのも彼女だった。オセロで対戦することもあったが、どうも勝った記憶がない。どういうふうに戦略を立てるのかわからなかった。先を読むとか「相手がこうきたからこうすればいい」という思考回路が、まったくなかったのだ。そのことに気がついたのはごく最近で、社会に出て同僚を見ていて、ああ、そういうふうに考えれば自然なんだなと気づいた。


 


 直接のきっかけは、車を運転していて前方が赤信号のとき、助手席にいたその同僚が、「スピードを落とさなくてもいい」と言ったことで、歩行者用の信号が点滅しているのをいち早く見つけていたらしく、同僚は「先を読んで運転しなきゃ」と続けた。気を抜くとぼんやりしてしまい、信号無視しかけたり青信号でなぜか止まっていたりする私としては、そんな同僚がうらやましい。


 学生時代までは、感覚だけで生活していても支障はなかった。それが社会に出てみたら、とてもそれでは間に合わない。目指す結論があるとして、そこにたどり着くにはどのタイミングでどういう手段を講じればいいのか考えなければやっていけない。いまだにそれを感覚だけでやってしまって、失敗することが多い。



 チェスとかオセロで「勝つ」ということ自体、私はわかっていなかった。チェックメイトに至るまでの1手1手にどういう戦略が込められるのか以前に、戦略と言う言葉すら、理解していなかった。まだ身に着いたとはいえないけれども「そういう考え方がある」とわかった今、何となく論理ゲームのスマートさが際立った気がする。


 少なくとも、感覚だけで生きていた中学時代、美術の自由課題で印章用の石を使ってチェスの駒を彫っていたときよりは、確実に一歩進んだはずだ。




次回「印章」


 


画鋲

気がつけばどんどん減っていて、なくなったのがどこに行ったのかわからない恐怖。



 3年生までいた小学校で、夏に「はだし運動」なるものをやっていた。名前のとおり裸足で生活するのだが、校内だけでなくグランドなど外の敷地も、原則雨の日も風の日も、おかまいなしの裸足生活だった。芝生も土も、砂利道もアスファルトも関係なしで、今もそれぞれの感触が思い出せる。野生児に近いが、当時は何の疑いもなくやっていたが、足に生傷が絶えなかった。


 むしろ学校の中の方が油断しているから危険なのだ。小学校に画鋲はつきものである。当時の画鋲と言えば金色の直径1センチくらいの円盤に針がついている代物で、針の先端が上を向いて転がってしまうことがままある。踏んづける友人を見るたび、見ているこっちが痛かった。


 私は秋冬に上履きの上から踏んでしまうことはあっても裸足で踏むことはなかった。おそらく6年生までいたら1度は踏んでいたかもしれない。



 その点今の画鋲は球体に針がついていたりして、踏んだ時に針が刺さる心配もなさそうだ。ただ、気がかりなのが買った当初から時間が経つにつれてどんどん数が減っていくことである。冷蔵庫の後ろにでも落ちているのか、棚の隙間に落ちているのか、なくなるはずはないのだからどこかにあるのだ。それがわからない。踏む恐れだけでなく、どこに行ったのかわからない恐怖もある。



 話は変わるが、中学時代の美術の課題で出たボックスアート(箱を含めて中に立体作品を作るもの)で、妹が画鋲を使って小さなチェスの駒をつくり、チェックメイトの盤上を再現していた。むろんナイトは作らずにすませていたが、精巧にできた凝ったものだった。今思うと、箱庭的な印象があって、日本人らしい。




次回「チェス」


 


写真立て

飾りたい写真ばかり、増えている。



 2月に行ったチベットで、40枚ほど写真を撮ってきた。風景ばかりで中にはチベットらしくない写真になってしまったものもあるけれど、その空気だけはできる限り鮮やかに残しておきたいと思い、帰国する前から写真立てやフレームを買って部屋中に並べておこうと思っていた。


 それが今、引っ越してみて、なんだかそんな余裕がなくなってしまった。まだ部屋の壁際に段ボールが積み重なっていて、それが片付くまでは飾る気がしない。クローゼットの収納のまとめ方に苦戦しているせいもあり、まだ雑然として予想以上に生活感溢れる部屋になってしまっているのも、写真を飾る気になれない原因の一つになっている。 



 そもそも、写真嫌いでカメラを向けられると仏頂面ばかりしていた数年前まで、アルバムすらもあまり要らないと感じていた。それが今は、飾っておきたい写真がたくさん増えた。それほど切り取って残しておきたいものが増えたのだろう。


 


 先日、大学の卒業式を終えた。卒業式、謝恩会と、数は少ないけれど大切な友人たちと写真を撮った。何だかよくわからないがビデオカメラまで向けられた。会えなかった友人もいたのが心残りではある。けれども一日があっというまで、しんみりする時間もなかった。そのくせ今頃になってちょっとしんみりしている。


 私は言葉足らずの上にあまりしんみりするのも好きでないし、表現力もなければ素直でもないから面と向かっては言わなかったけれど、大学の友人たちには本当に会えてよかったと思う。などと、ここに書いてもしょうがないのだけれど。


 


 写真に残るのは過ごした時間のほんの少しの部分ではあるけれど、全体を思い出すのには十分である。その空気を身近に感じられるようにするために写真をいつも見られる場所に置きたいから、写真立てが欲しい。なぜ画鋲で壁に貼らないのか、というもっともな問いがあるかもしれない。
 それは要するに、床に落ちて行方不明になった画鋲がこわいから、なのだ。




次回「画鋲」


欲しいものリスト

手帳の後ろの方にある欲しいものリストを見返してみる。



 15項目ほどあるうち、ほとんどが手付かずのままになっている。値段が高すぎてあきらめた青磁のカップ、姉に頼まれていたのに私が先送りにしていたらいつの間にかなくなってしまった犬のぬいぐるみ等、手に入れていない理由は様々だ。無印良品の湯飲みや白檀の香水など、入手できた数少ない例もある。


 なかなか自分の買い物のペースがつかめない。衝動買いしてしまうこともあるし、迷った末にやめてしまうこともある。欲しいものリストだってあってないようなもので、リストに載せてはいないけれど機会を見て購入したいものもたくさんある。実際手帳に書き出しているものと頭の中にあるものがあり、ほとんどが頭の中の方にあるのだ。だからリストだけ見れば随分つつましいのだが、本当の物欲はそんなものではない。欲しいものをリストにして忘れないようにしていること自体、けっこうな物欲だと思う。


 特に最近は、引越しや就職、卒業式、謝恩会などのイベントが間近なのもあって、リストに載せるまでもなくほしいものや必要なものが雪だるま式に増えていく。



 とりあえず、就職するまでに最低限必要なものは車や家電製品であるが、これに付随して細々と必要なものが出てくる。さらにそのほかに揃えたい家具が出てくるから、とんでもない物欲スパイラルになる。目下の悩みはソファベッドと敷物と靴棚で、見れば見るほどきりがない。こだわらなければよいのだが、それができれば苦労はしない。


 そしてもう一つ、先日チベットまで旅行に行ってきたため、現在旅行貧乏なのである。きっと就職する頃にはほとんど無一文だ、と言ったら妹が「潔くていいじゃない」と一言。



 その旅行で撮った写真を新しい部屋に飾るために、写真立ても欲しい。プロがその土地を撮った写真集も欲しい。物欲は雪だるま式、というのを身をもって感じている。




次回「写真立て」


「読めなくなった」というよりも「読めていなかったことに気がついた」。

 

 以前から文章や表現を咀嚼することができていなかったと、ここ数年で実感している。言ってみれば本ののどごしと食感のみしか味わっていなかったのである。当然、解釈することが苦手である。

 高校の国語の読解問題レベルにすら達していないことには高校時代から何となく気がついていたように思う。設問を見なければどんな意味が隠されているのかまったくわからなかったし、それこそ考えようともしなかったけれど、それでも読めていると思っていた。

 当時は国語の成績がよかったから読書も「できていた」と思っていたのだろう。ほんとうは成績と理解の可否、問題文や教材をこなすことと本を読むことは別で、たぶん私は学校教育以外の軸を持つべきだったのである。

 本棚の中身に一貫性がないのはそんなふうに「読めていない」せいかもしれない。売れている本とか気に入った作家の作品とかよりも、その時々で読みたいと思ったものが何の脈絡もなく並んでいる。個々の本ならともかくその本棚の中身の総体が何だか気に入らないのは、そのうちの何冊も「読めていない」という罪悪感と苛立ちのせいでもあると思う。


 高いところを見つけると、気まぐれはあるがだいたい登りたくなる。読めていなかったことに気がついた以上どうしても読めるようになりたいのだが、逆に本からは遠ざかりつつある。読みたいときが読めるときなのだろうが、最近は読めそうな本を選ぶようになってしまった。

 読んでみて受けるイメージがどこかで引っかかって消化できず、後味の悪いものは苦手である。裏を返せば打たれ強さが足りない、あるいは正面から物事を考えることができないということだと思うが、それは読書に限った話ではない。


 今も続いている高校時代の友人たちとの文通では、本の話題で盛り上がっていた。それぞれ読書が好きな人間が集まっているのだ。

 人の読書話や本棚は好きで、友人の読みたい本リストにも興味津々である。一方で私の読みたい本リストは本棚と同じように新しい項目も増えず二重線で消される項目が増えるばかりで、欲しいものリストの項目だけが増えていっているのが、何だか悩ましい。



次回「欲しいものリスト」