アルバム | 例えば「P」の話がいつか「Q」の話になり「Q」の話をしているうちに話題は「R」に移り「R」の話が途中から「S」の話になる、という現象を、延々と。

アルバム

残したいものを残すためのもの―なのだろうけれど。


一卵性双生児の片割れとして生まれた。今はそうでもないと思っているが、幼い頃は特に見分けがつきにくかったらしい。
ほとんど記憶にないくらいの年齢までは、親がまとめた個別のアルバムがある。先日何かの拍子に見てみたところ、確かにどちらがどちらか分からない。おそろいの服なんか着せるからなおさらだ。本人ですらそうなのだから、他人から見たらもはや難易度の高い間違い探しになる。ただしよくよく見ると、微妙に表情に違いがある。何となくカメラを意識してポーズを取っているのが妹で、「またかよ」とでも言いたそうな何となく迷惑そうな顔をしているのが自分だ。考えてみれば、カメラを向けられるたびに迷惑に感じた記憶もあるような、ないような。

アルバム自体はおそらく保育園に上がる前くらいの年代で終わっている。要するにずっと家にいた年代で、親が写真を撮る機会が多かったということだろう。よく「かわいい盛り」と言われる年代でもある。それ以降の写真と言えばあるのかないのかすら分からない。
特に自分の昔の写真に興味はない。そもそも記録を残したりそれをもとに過去を振り返る習慣はあまりない。足跡はあまり残さない方が楽だ。このブログだって長い目で見たら例外ではない。ウェブの海に埋もれてひっそりこっそりできるから、続いているだけで。

そのせいかどうか、昔のことを案外覚えていない、と友人に言われる。思い出したくないことは思い出して夜中に寝られなくなるのに、捨てられている記憶は案外多いらしい。どうせ忘れるなら忘れたいことを忘れたいものだけれど、そういうものに限って「考えないようにする」くらいしかできないという理不尽。
そうやって忘れたくないことを忘れてしまうのを補うためのアルバム、なのだろう。自分の足跡よりもそれ以外に覚えておかなければならないと思うことの方が、私には断然多いけれど。

記憶への無頓着さを気づかせてくれた友人は高校時代からの友人で、進学先が同じ東京だったこともあって時々行き来していた。彼女を含めた友人数人で東京の名所を歩く「おのぼりさんツアー」を企画したことがある。それを記録したアルバムは冊子ではなく既にCDROMだった、と思う。

それで、さてどこに行ったか思い出そうとすると、確か浅草とか都庁の展望台ぐらいしか思い出せないことが、また記憶の理不尽。


次回「展望台」