表現の自由があれば批判の自由も | 注文の多い蕎麦店

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人間は何を食べて命を繋いできたのか?
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自然に回帰することで
人間本来の生活を取り戻します。


愛知県で開催されていた個展が中止に追い込まれたことを巡り
泥仕合のような報道が乱立してるようですが。
僕が思うに表現の自由があるのなら批判の自由もあるのだから。
どんどん際どい表現をしてどんどん鋭敏な批判も入れていくことこそ
本当の表現の自由なんじゃないかと。
じゃあ今回の何が問題なのかというと。

批判も含めた表現の自由が政治的及び暴力的意図によって封殺されてしまった

ということなんじゃないでしょうか。
だから個展の主催者側が過激な表現を用いたことが問題なのでもなく
それを過激な表現で批判したことが問題なのでもなく。
その双方を政治的な意図をもってなかったことにしてしまったことに問題があるのであって。
言わば喧嘩になる前に火種を消しておこう
というような事なかれ主義の日本的な発想が
衝突する前に消されて燻ぶったままのわだかまりを双方が持ち続けていく。
という構図を導いてるのでしょう。

もっともっと最後まで激しくぶつかり合って(暴力的ではなく)
お互いの思想を吐き出しつくした方がすっきりすると思うんですけどね。
その上でどこで妥協点を見つけるのか?
が思想対立の唯一の解決策なんじゃないかと。
もちろんそこは全て過去の歴史が物語るように

観念や主義ではなく経済的な視点で折り合いをつけるしかないんじゃないですかね。

なんやかんや言って資本主義の世界ではお金が物を言うのが悲しい現実というショボーン