狩野川と黄瀬川が合流するところに、隣町の清水町とつながる香貫大橋がある。そのたもとに、こんな碑があった。
内膳堀跡。
1600年代はじめに植田内膳という人が造った農業用の水路が「内膳堀」。私が通っていた中学のすぐそばを流れている。その起点がここだったということだろうか。
内膳堀は、2022年に世界かんがい施設遺産に登録されている。
「世界かんがい施設遺産」というのは、あまりメジャーではない「遺産」かもしれない。
私は、以前仕事で茨城県北茨城市の「十国堀」を知った。こちらは2021年に世界かんがい施設遺産に登録されている。内膳堀と違って、街中ではなく荒々しい自然を残した山中を流れ、実際に見に行きたかったけれど現地行きのスタッフではなかったため、写真を見て我慢した。
「内膳堀通り」の表示。
うしろの塀の向こうはお寺。あとで調べたら、このお寺に植田内膳のお墓があるという。中に入って探してみればよかった。
お寺の門の右横に、イチョウの巨樹があった。
銀杏がなっている。
まだ匂いはしない。
このお寺には保育園があって、中学の家庭科の時間だったか、保育実習のようなことをさせてもらいに行ったことがあった。
内膳堀通りは、堀に沿って造られていたのだろうか。一部、車の通る通常の道路のわきに、遊歩道のような煉瓦敷きの部分がある。煉瓦敷きと並んでいる細長い窪地には、もしかしたら水が流れていたのかもしれない。そういえば、この窪地はお寺の前からずっと続いていた。
そして、煉瓦敷きからひとつ道を横切ると、いきなり水路があった。
近くの香貫山の方から流れてくる水路といっしょになって、概ね南の方角に向かっている。
さらに内膳堀通りを行くと、水の流れる公園があった。
「せせらぎ公園」といわれている。
今の季節、水を見るとホッとする。
内膳堀は、ほかの水路と合流したり暗渠になったりしながら、狩野川河口付近につながっているのだと思う。どこまでを「内膳堀」というのかはわからない(調べてない)。
うちのすぐ横にも、細い水路が流れている。(「大どぶ」と呼ばれ、生活排水が流れている。クロベンケイガニと思われるカニが生息している)水路があちこちにある街なのだ。
通っていた高校の近くにも水路があった。「囚人堀」と言われていた。昭和のはじめ、囚人を使って開いた水路なのだそうだ。駅の北側に軍需工場があったらしく、その外側に堀を作って私の高校の近く、千本浜で海に排水していたらしい。
というか、地図上では「新中川」という名前になっているけれど、囚人堀は今でもあって、浜から海に排水している石垣のような巨大な土管もちゃんとある。
母がしばらく入所していたグループホームは、この囚人堀沿いにあった。母に会いに行くと、いろんなおばあさんたちに出会った。しょっちゅう童謡や唱歌を歌っている人、かわいいぬいぐるみを見ると「あたしのよ」と言って自分の部屋に持って行ってしまう人。いつもズボンで行っていた私が一度だけスカートをはいて行ったら、このおばあさんがそばに来てスカートを何度もなんども手のひらでなでて「いいねえ」と言った。そういえば、母を含め入所している人たちも、職員さんたちももちろん、みんなパンツスタイルだった。
母はホームでの共同生活がむずかしくなって、介護中心の施設に移り、そこで亡くなった。
今度は、囚人堀に沿って歩いてみようか。軍需工場(海軍工廠)のことも知りたいと思った。両親は二人とも地元がここではないので、戦前・戦中のこの街を知らず、そういう話は聞いたことがない。
せせらぎ公園に咲いていたシモツケ。