昨日、ラジオの天気予報で
「明日から、天気予報で『快晴』『薄曇り』などの言葉は使わないことになりました」
と言っていた。
空の観測が自動になるからだそうだ。
昨日までは人間が空を目視して「今日は快晴だ」「薄曇りだな」と判断していたという。
これからは「晴」あるいは「雲が(空の)◯%」という言い方になるらしい。
天気の言葉もデジタル化されていくのだろうか。
冬によく聞く「真冬並みの寒さ」も(「今真冬なんだからそりゃそうだろう」と思うことはあったけれど)「−5℃以下の寒さ」などになる日が来るのかもしれない。
先日は「雨の『止み間』」というのを聞いて、天気予報の言葉は面白いと思っていた。
書くにも話すにも言葉を使う。
ものを書く大先輩が「読んで読んで読んで書いて」と言った。書く3倍読んで、ということだ。言葉のストックが頭の中になければ書けない。自分の中の言葉を増やすには、まず読む。
『六歳の俳句』という本を読んだ。
かとうゆみ・加藤宙 共著 『六歳の俳句』光文社
ゆみちゃんは小学四年生。じっちゃんに教えてもらいながら六歳で俳句を作りはじめた。(じっちゃんは、俳句や短歌で高い評価を得ている人なのだ)
じっちゃんの教え方がすてきだ。「指導する」という感じではなく、ゆみちゃんの中の言葉が目覚めるように、そっとゆすっている感じ。
にくきゅうのよろこんでいる春の土
これからの季節にぴったりの句。土のあたたかさ、肉球の丸みまで伝わってくる。顔見知りの猫に聞かせたら大きくうなずきそうだ。
この句を読んで、昔近所に住んでいた彫刻家のおじいさんの造った「踏青」という少女の像を思い出した。「踏青」は、中国起源の言葉で、萌え出た春の若草を踏んで野を楽しむというようなことだと、そのおじいさんに聞いた。
「踏青」の少女は中国風の衣を着て、素足の片足の足裏をほんのちょっと曲げていた。これは、足裏に触れる若草がくすぐったいから、ということだった。像の少女は、少し困ったような表情を浮かべていた。
「踏青」は、春の季語でもあるらしい。
(「青鞜」というと、新しい時代を開いた女性たちのことになる)
俳句は言葉のエッセンスだと思う。
たくさんある言葉を十七音の中に整える。
季語という器を生かして言葉を選ぶ俳句は、たくさんの花の中から、器や状況に合う花を選んで形を作る生け花に似ている。「言葉の生け花」に思える。
雨や月、自然を表す言葉が日本語にはたくさんある。(モンゴルには馬をあらわす言葉がたくさんあると聞く)
「快晴」と「薄曇り」の終わりを告げた昨日の天気予報で、気象予報士さんが「今日は一円玉の晴れです」と言っていた。これ以上くずれない、ということだ。
気象の用語から「快晴」「薄曇り」が消えても、気象を伝えるのは人間で、人間はデジタルにはなれない。良かった、と思う。(面倒なときもあるけど)
快晴の空を舞うトンビ。