言葉を生ける | 東四ヶ一の庄

東四ヶ一の庄

実家を離れて40数年。もう帰ることはないだろうと
思っていたこのまちに戻ってきました。
「東四ヶ一の庄」とは、私の愛読書『ホビットの冒険』
『指輪物語』の主人公の家があるところです。

昨日、ラジオの天気予報で

「明日から、天気予報で『快晴』『薄曇り』などの言葉は使わないことになりました」

と言っていた。

 

空の観測が自動になるからだそうだ。

昨日までは人間が空を目視して「今日は快晴だ」「薄曇りだな」と判断していたという。

これからは「晴」あるいは「雲が(空の)◯%」という言い方になるらしい。

 

天気の言葉もデジタル化されていくのだろうか。

冬によく聞く「真冬並みの寒さ」も(「今真冬なんだからそりゃそうだろう」と思うことはあったけれど)「−5℃以下の寒さ」などになる日が来るのかもしれない。

 

先日は「雨の『止み間』」というのを聞いて、天気予報の言葉は面白いと思っていた。

 

書くにも話すにも言葉を使う。

ものを書く大先輩が「読んで読んで読んで書いて」と言った。書く3倍読んで、ということだ。言葉のストックが頭の中になければ書けない。自分の中の言葉を増やすには、まず読む。

 

『六歳の俳句』という本を読んだ。

かとうゆみ・加藤宙 共著 『六歳の俳句』光文社

 

ゆみちゃんは小学四年生。じっちゃんに教えてもらいながら六歳で俳句を作りはじめた。(じっちゃんは、俳句や短歌で高い評価を得ている人なのだ)

じっちゃんの教え方がすてきだ。「指導する」という感じではなく、ゆみちゃんの中の言葉が目覚めるように、そっとゆすっている感じ。

 

     にくきゅうのよろこんでいる春の土

 

これからの季節にぴったりの句。土のあたたかさ、肉球の丸みまで伝わってくる。顔見知りの猫に聞かせたら大きくうなずきそうだ。

 

この句を読んで、昔近所に住んでいた彫刻家のおじいさんの造った「踏青」という少女の像を思い出した。「踏青」は、中国起源の言葉で、萌え出た春の若草を踏んで野を楽しむというようなことだと、そのおじいさんに聞いた。

「踏青」の少女は中国風の衣を着て、素足の片足の足裏をほんのちょっと曲げていた。これは、足裏に触れる若草がくすぐったいから、ということだった。像の少女は、少し困ったような表情を浮かべていた。

 

「踏青」は、春の季語でもあるらしい。

(「青鞜」というと、新しい時代を開いた女性たちのことになる)

 

俳句は言葉のエッセンスだと思う。

たくさんある言葉を十七音の中に整える。

 

季語という器を生かして言葉を選ぶ俳句は、たくさんの花の中から、器や状況に合う花を選んで形を作る生け花に似ている。「言葉の生け花」に思える。

 

雨や月、自然を表す言葉が日本語にはたくさんある。(モンゴルには馬をあらわす言葉がたくさんあると聞く)

「快晴」と「薄曇り」の終わりを告げた昨日の天気予報で、気象予報士さんが「今日は一円玉の晴れです」と言っていた。これ以上くずれない、ということだ。

 

気象の用語から「快晴」「薄曇り」が消えても、気象を伝えるのは人間で、人間はデジタルにはなれない。良かった、と思う。(面倒なときもあるけど)

 

快晴の空を舞うトンビ。