2008年 文藝春秋(文春文庫)
北島行徳?
どこかで見た名前だと思った。しかし、読み始めてしばらくしてその名前とこの作者の名前が重なって、一気にあのヒール役の顔が思い浮かんだ。
北島行徳。
その名前はプロレスラーの名前だ。そして映画監督でありノンフィクションライター。
全ては「無敵のハンディキャップ」という作品に集約されていく。
実は、評者は北島行徳がリングに立つ姿を生で見ている。
北島自身は法で定める障害を負っていないが、リング上ではさまざまな障害のある人たちを相手にこれでもかと痛めつける役割を持つ。
プロレス技を掛けるのはもちろんだが、ヒールだから反則もやりたい放題だ。
世の中はそういうものだし、障害者が実際に晒されている世の中もまさにそういうものだ。生ぬるいやさしさばかりを表現していると、真実なんて欠片も見えなくなってしまう。
そうしたアンチテーゼを自らの身体を張って表現した作品群はやはり鋭さをもって観るもの読むものの心を撃つ。
そして、その背景にある「同じ人としての目線」がはっきりしているから表現力がぶれない。
そんな北島の初の創作にも、「同じ人としての目線」が屹立している。
タイトルのバケツというのは少々知的能力に遅れのある養護施設の入所児童だ。
そのバケツと出会ってしまった主人公が、バケツと離れがたくなって独立自営の日焼けサロンを始め、託児所に手を広げ、法定外介護サービスもはじめてしまうという個人の多角化をしていく姿が書き綴られる連作が本書だ。
ここではいわゆるむき出しの福祉は見えない。
というよりも、穴だらけの福祉の穴のいくつかを垣間見せながら「同じ人としての目線」を持った人間の苦しみを語らせている。
善意や好意や義務感や理想といった福祉の基本的な要素を取り払って「営業」として取り扱っていく主人公。
その彼の憧れの人は障害者が舞台に立つ劇団の主宰者だ。
土台となるのは1990年代の障害者支援活動の徒花たちの姿。
徒花といっては失礼だが、メジャーになりきれていないという意味では、メジャーにするほど支えていない責任も痛感するが、「憐れみ」を排除しての活動の切れ味の鋭さは、今でも記憶に強く残る。
それはさておき、それが日常になるということと、バケツという一つの命を支えることは実はひとつらなりではないことを徹底して作者は読者に突きつける。
誰でも誰かに支えられている。
口で簡単に言えることだが、物語にすると悲しく美しく重い。