ニート/絲山秋子 | もん・りいぶる21(21世紀のレビュー三昧)

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2008年 角川書店(角川文庫)

小説家には大きな括りで大河の流れに棹を差しながら流れをせき止める勢いを持ったダイナミズム主体の作家と、隙間隙間を捜し求めながら、「機微」の集合体としての人間の再構築を図るミニマリスム主体の作家がいる。
なかなか前者にはお目にかかれないので、勢い後者の中でのせめぎあいになってしまうのだが、そうなると着眼点とその細部に到る機微の生かし方で大きな差がついてしまうことになる。
そうでなければ、脱日常を徹底しながらもう一度機微の世界に立ち戻ることになるだろう。

絲山秋子のこの短編集は、その両方が一冊で楽しめるという点でお買い得だ。
テーマは「非主流」ということになるのだろうか。
主人公となる女性はどうやら作者本人の分身(どの程度の距離感かは不明だが)であるようで、作家であるということも、当然この主流ではありえない人と、これまた主流ではない人との交情が主体になって描かれている。

ニート。

自らそうなることを選択してなれるものではない。
自らの選択の結果なってしまったという結果論はありえるし、自らの努力や行動や環境の組み合わせの合計数がニートに合致してしまうこともある。
しかし、抜け出すための努力や実力はどこかで身につくのか、という今の政策的なアプローチでこの小説は書かれていない。

ニートは少々の助力で浮上したとしても、また後戻りしてニート。

それは運命論に近い。

その運命論の中でのあがき方にしても、運鈍根を金科玉条にしてきた前世代とは根本的に異なる。
自助努力という前提そのものが異なっているのだ。

そして、その自助努力を捻じ曲げたところで、伝統的な糞尿譚を敷衍したラストを飾る「愛なんかいらねー」が成立する。
スカトロプレーに耽溺するまでの転落を執拗に描くこの短編は、さすがに鼻をつまんで読みたくなる要素が満載なのだが、しかししっかりと日常の中にぽっかりと納まってしまうのは、「非主流」が根強いからだ。
ひとりで生まれてひとりで死ぬ宿命の人間にとって、永遠の主流はありえないのだから、この臭気に満ちた人間物語も、やはり幾分の「人間の真実」を含んでいる。

このタイトルの「愛なんかいらねー」。
「ー」という切捨て御免の音引きが、読後感をさらに引き伸ばす。

隙間から臭ってきた人間の臭気が、いかに人間の精神をかき乱すかに気づき、そしてその正体が人間そのものなのだという至ってまともな結論にたどり着いたときに感じる安堵感に出会うと、不思議と満足感に繋がっていくところが面白かった。