立花宗茂 | 共和ゴム代表取締役・寺阪のブログ

共和ゴム代表取締役・寺阪のブログ

常に前向きに、チャレンジ精神をもって中小企業の経営しております。
大の歴史好きで「経営は歴史から学ぶ」をモットーに4つの会社経営に活かしております。

経営、歴史、政治経済、サッカーなどの事をブログに書いております。

立花宗茂・・・・・僕が大好きな戦国武将の一人である!!


実父には剛勇の士である高橋紹運、養父には戦国史上でも軍師ベスト3には入る軍略の鬼・立花道雪をもち、


勇猛さ、機略、度量を兼ね備えたまさに天才武将である。


島津家の九州統一の野望に実父・高橋紹運ともに立ち向かい、実父・高橋紹運は、1千にも満たない戦力で、


勇猛果敢な島津軍に立ち向かい、全員玉砕したが、島津軍にも大打撃(4千人の死者)を与えた。


九州全土が島津家に降伏してゆくなか、立花宗茂は最後まで抵抗し続け、島津軍を撤退させ、逆に追撃し、


さらに被害を与えただけではなく、奪われた所領(城)も取り返した。



豊臣秀吉は、「その忠義、鎮西一、その武勇もまた鎮西一」とか「九州の逸物」とも言われた立花宗茂を、


大変気に入り、大友家の一家臣だった立花宗茂を、大名にまで取り立てる。


小田原攻めの際、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という


天下無双の大将がいる」と、諸大名の前でも褒めまくっていた。



秀吉の信任が厚い立花宗茂は、豊臣秀吉の悪行の一つである朝鮮出兵にも二回とも参加している。


2万の相手を、たった800人で撃退したり、5万の敵兵に囲まれ、絶体絶命の加藤清正を、たった500人で


救出するというような離れ業を成し遂げており、「日本軍第一の勇将」と言われている。



関が原の戦いでは、秀吉への忠義から西軍に味方したが、大津城を攻めていたので、関が原では戦って


いない。。。。。


「もしも」・・・関が原の本線に、立花宗茂が参加していれば・・・・・・終始西軍有利のまますすみ、結果


小早川秀秋も裏切らなかったのではないか、と推測してしまう。。。。


関が原の敗戦後、九州へ逃げる途中、大阪にて、仇敵・島津軍と遭遇する。


島津軍は、西軍敗戦後、有名な敵中突破を敢行し、わずかな手勢しかいなかった。


実父・高橋紹運の仇討ちをすすめる家臣たちに対し、「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と一喝し、


逆に島津軍と協力し合い、九州の柳川へ逃げた。



関が原後、領地没収となり、浪人となるが、立花宗茂の実力を高く評価する徳川家康に直接召し抱えられ、


最後には旧領である柳川を与えられ柳川藩を興す。


(西軍武将で、浪人となりながら、結局ここまで大復活できた例はないのでは・・・)



色々な意味で、波乱万丈の人生を生きた武将だと思います。


武勇だけではなく、忠義心に厚く、その上人柄にも優れ、人望もあった立花宗茂は、秀吉や家康だけではなく、


多くの大名や武将たちからも、高く評価され、尊敬されていた。