○あらすじ
 本書は大きく2編からなる。前編は著者の父親、城戸幹のおい立ち。後編は、著者本人が父親の過去を追跡し、自らのアイデンティティーを形成していく過程である。城戸幹こと、孫玉福は戦時中の偽満州国で生まれ、終戦間際内地からの引き揚げ列車に乗車中、ソ連軍の機銃掃射により取り残され、そのまま中国の養父母の下で、育てられる。高校まで順調に進学するも、自らが日本人であることを档案(中国の戸籍簿)に申告したが為、二度の大学受験に失敗、日本への帰国決意を強固にし、1970年日本への帰国を果たす。著者、城戸久枝は城戸幹の次女として生まれ、父の養母の見舞い旅行を機に、中国への関心が強まり、吉林への国費留学へ赴く。そこで、父親が過ごした牡丹江を訪れる。養母の家族親友の熱烈な歓迎を受け、父親の存在感を確かめる。
○感想
 幼時に中国の養父母に引き取られ、日本語を全く忘却し、中国人孫玉福として育てられた父親が、日本鬼子といわれる度、にわかに日本への帰属心が燃え上がり、日本への手紙を送り続けた。中国にいて中国人として生きていくという選択を敢えて放棄し、帰国へ奔走する父親の姿は、何がそうさせるのかを読者に考えさせられる。著者の留学中には、中国人から歴史問題について集中砲火を浴びせられる体験もした。両国の若者が歴史認識について、一方では忘却の連鎖に、他方では心の問題として生き続けていることに、私たちがどう向き合うかが問われている。日本人残留孤児の存在は、日本の社会に今尚影を潜めている。一連の裁判闘争と政治的決着の過程から、戦争損害の一言では解消されない、現実の生活及び孤児たちの複雑なアイデンティティーの問題は、今後も残る。
○備考
 タイトル『あの戦争から遠く離れて』
 副題「私につながる歴史をたどる旅」
 情報センター出版局 2007年9月10日
 2009年『遥かなる絆』という題で、NHKがドラマ化
 

 兵庫県弁護士会法科大学院委員会のアンケートに、回答した。

 

 問 

 

 日本の法曹養成制度に何か意見はありませんか?

 

 答

 

 日本の部分社会には、法律家の知らない世界がまだまだたくさん存在すると思います。そのよう部分社会に、その利益を代弁する法律家がいなければ、実社会で不利に扱われたり、人口減少下で淘汰されてしまうこともあるでしょう。多様性のある社会は、日本の優れた特徴であると思います。そのような社会を守るためには、様々な経歴のある社会人や、多様なアイデンティティーを持った人材を法曹界に取り込むことが重要だと思います。そのためには、法曹を志す未修ないし社会人の足を引っ張るような過度なネガティブキャンペーンに対抗するだけの、強力な広報活動を行う必要があるのではないでしょうか。


 弁護士の職域は、広がり続けている。

 地方で働くというのも一つの選択肢であり、弁護士過疎地域の解消という必要性から、魅力ある働き方の提案というステージに移行しつつあるという。

 私は、中国的な領域を中心にぐいぐい攻めていきたいと思っているが、単に語学が達者であることに尽きるのではなく、自分にしかできない特別なミッションがあると、常に心に抱いている。

 以上

 今日は、環境法サマースクールの講義を終日、聴講させて頂いた。いただいた資料は転用禁止であるが、この新聞記事は公開されているものなので、ここで転載しても許されよう。

 

 大取の手前(膝替わり、と言うらしい。)に登壇されたのが、中野 宏典 先生だ。

 

 原発問題に10年以上も取り組んでおられる。ご講演の話もさることながら、節々に、先生の抱えてこられた悩みのようなものが滲み出て、大変感じるものがあった。

 

 一言でいえば、同調圧力に屈しない胆力を持っているお方と、お聞き受けした。

 

 思い起こせば、私も、原発問題に関心をもって取り組んだ過去がある。その問題意識の根源には、加害の意識があった。

 

 原発問題は勉強すればするほど、非常識がまかり通っていると感じたが、事故が起こるまで、私は一切無関心であった。そういう国民の無関心を前提にして、起こるべくして起こった人災であり、私もその無関心の一員であったからである。

 

 合格した暁には、もう一度関心をもって、勉強したい。





 泉佐野市が過去の不当な寄付金の獲得をしたことを理由にして、あらたな法制度のもとでは、泉佐野市をふるさと納税ができる自治体から排除するとした、総務大臣の措置の違法性が問題となっている。

 

 これだけを聞けば、遡及立法の禁止が争点ではと思われるが、かかる不指定の基準が、総務大臣の定める告示にもとづいている点で、法令の委任の趣旨を逸脱するのではないかが争われた。

 

 最高裁は、医薬品ネット販売に係る最判(平成25年1月11日民集67巻1号1頁)の枠組みに基づいて、かかる不指定処分が違法であると、判示した。

 

 大変解りにくいかもしれない。

 

 問題の本質は、総務大臣が法律に書いていないことを勝手に決めてしまったのではないかということである。これが許されると、法治国家の基本がゆがむ重大な事態であり、違憲かつ違法となる。

 

 確かに、泉佐野市の寄付金の獲得の方法は、最高裁判事が眉をひそめざるを得ないと述べるほどに、過剰なものであったと評されている(この間、泉佐野市が獲得した寄付金の額は、平均的自治体の300倍を超えると言われており、自治体間の公平性に悖るとの指摘がある。)。

 

 しかし、改正前の法律が寄付金の獲得の自由競争を許容している以上、かかる手段の問題は当不当の問題にすぎない。これを理由として新制度から排除をするためには、法律においてその旨を定めなければならないが、法律の文言からその趣旨を明確に読み取ることができない、ということである。

 

 近時、行政国家といわれる現象が顕著であり、ありとあらゆる法令が行政によって作成され、国会の審議を経て、施行されるに至っている。そのような法律は、地方自治体、ひいてはわたくしたちの権利義務を制約する可能性を秘めている。しかし、それが国会審議の時点で顕在化せず(あるいは、故意にさせず)、施行された後の段階でこのように、告示という形をとって行われることが増えてきている。

 

 しかしそのような解釈を行うことができるとしても、かならず法律に基づいて行われなければならないという、原則を示したという意味で、この判決は正当である。