○あらすじ
 1937年の冬から1938年にかけて、南京に日本軍が入城した際、数多の中国軍人及び市民が惨殺された、いわゆる南京大虐殺の現場で、南京安全区国際委員会の代表として、多数の南京市民の命を魔の手から守ったドイツ人、ジョン・ラーベの手記である。ジョン・ラーベは、ジーメンス社南京支社の責任者として南京に赴任していた。南京陥落の前夜、南京安全区国際委員会の代表に推挙され、自らの使用人を含めた数多くの中国人を救うため、南京に留まることを決意する。南京国際安全区は、日本軍占領中の南京において、最大25万人もの中国人の元軍人及び市民の衣食住の面倒を見た。ラーベの役割は、難民の安全確保はもとより、医療衛生、治安維持、食糧調達まで果たさなければならず、その所掌の幅は市長にも匹敵するものであったが、持ち前の柔軟な判断力と危機管理の才能を遺憾なく発揮し、多くの中国人の命を救った。
○感想
 本書に登場する日本軍人の姿は、略奪、強姦、放火、殺人など、悪事の限りを尽くす野蛮な犯罪者であり、決して世界に冠たる一等国の軍人ではない。同じ日本人として信じられない蛮行が行われており、軍の規律や統制が失われていることは、明らかであった。これらの日本人は、偶々、1937年の上海事変に動員され、予期せぬ国民党軍の猛烈な反撃を受け、多くの仲間の死体を乗り越えて南京の門をくぐった兵隊であり、平常心を失っていたともいわれる。しかし、同じ時代に生まれていたならば、我々の友人諸氏の中から、あるいは自分自身が上海に徴兵されていたとしたら、同じような狂気が生じるものなのだろうか。南京における大虐殺の事実が、如何にして惹き起こされたのかを解明し、それを日本人自身の問題として、あるいは人類普遍の問題として向き合う姿勢こそが、私たちには求められているのではないだろうか。そのような意味からして、東洋のシンドラーと称されるジョン・ラーベの功績も、偶々、1937年の南京に居合わせたからではないか、と評する向きもあろう。しかし、彼が南京に残ったのは決して偶々ではなく、使用人を含め多数の中国人の身を案じての決意であった。ラーベ自身が繰り返し言うように、30年もの長きにわたり中国で生活し、中国の人々と深く交わってきた彼にとって、日本軍の侵攻に伴い、南京から退避することができない無数の中国人の命を救うことが、自然な隣人愛の表出であったのである。このことは、不屈の功績であり、後世の鏡として語り継がれていくことだろう。
○備考
 題名:『南京の真実』
 著者:ジョン・ラーベ
 編者:エルヴィン・ヴィッケルト
 訳者:平野卿子
 出版社:講談社
 出版年:1997年

 


【鄭車掌と忘れ物と】 
 
 話せば長くなるのですが、実は僕の手提げ袋は、ハルピン鉄道局の鄭車掌が今も保管をしてくれているのです。心温まる話なので、どこかに発表したいと思って心に残していたのですが、詳細な記憶が薄れてきたので、大雑把に残しておきたいと思います。
 
 冬の深まりを感じる11月の中ごろ、大連発のハーモニー号G252(中国新幹線・G252は仮号)に乗込み、中継地の瀋陽に向いました。瀋陽に到着したのは、夜も更けた9時過ぎでした。行く先車庫に入るだろう列車を見送ってから、改札を過ぎた頃、手提げ袋が無いことに気が付きました。駅舎のあちこちをたらい回しにされた後、どうやら、忘れ物は駅舎では取り扱えないことを宣告されまして、しぶしぶ切符の裏側にある総合ホットライン12306に問い合わせることになりました。たらい回しというのは、少し説明を加えると、総合窓口を引受けるホットラインから、所要の窓口に連絡して用を達することは、億級の人口を抱える地域の輸送を担う鉄道機関だけに、それこそ川魚を素手で掴み取るほどの困難が期待されたので、駅員を通じて繋いでもらいたかったのです。その努力が適わないと思い知らされるまで、窓口に挑戦をしてみたということです。
 
 観念して、12306に掛けつづけること30分やっと窓口に繋がったと思いきや、瀋陽鉄道局では取り扱えができないと、当該列車を所管しているハルピン鉄道局つながなければならないということでした。少し蛇足ですが、12306には忘れ物受付の窓口はありませんので、いわゆる『人工服務』につないでもらってから、忘れ物をした旨を伝えなければなりません。ハルピン鉄道局に掛け続けること30分、車内に忘れたのであれば、G252の鄭車掌に直接連絡を取ってくださいと、鄭車掌の携帯番号を教えてくれました。中国では車列毎に所轄の鉄道局と車掌が決まっているということでしょう。鄭車掌に電話を掛けたところ、G252は私じゃなく趙車掌が担当だと、ふたたびたらい回しの様相が濃くなってきました。趙車掌に電話をかけると、件の通り、私ではなく鄭車掌に言ってくれと、ぶっきら棒にも扱われる始末。
 
 瀋陽の町はゆうに0度を下回り、道端には除雪車によって積み重なった雪が氷結し、黒ずんで盛り上がっていました。その日は交渉をあきらめ、翌朝再度チャレンジしてみることにしました。朝8時、早速鄭車掌の携帯電話にショートメールしました。「私はいち乗客ですが、忘れ物の件で鉄道局のたらい回しに遭い、困り果てています。鄭車掌の善処を期待します。」という内容だったと思います。鄭車掌から電話がかかってきました。「君の荷物はすでに昨夜のうちに、趙車掌に見つけてもらったよ」これから、瀋陽駅に運ぶところだ。鄭車掌は瀋陽駅へ取りに来るようにと、瀋陽駅に到着の時間は10時だと教えてくれました。しかしながら、仕事の用務をこなすのにどうしても時間には到着できない、12時30分に取りに行くから駅舎で取っておいてもらえないかと相談をしましたが、話の終らないうちに、私は仕事の用務のため直ぐにでも電話を切らなければならず、「お願いしますね」と一言だけ残して、その後の運命を鄭車掌にお任せるこを余儀なくされたのでありました。
 
 12時、用務の最中に何度か電話の着信を受けていたことを知っていた私は、申し訳ない気持ちで鄭車掌に電話をしました。鄭車掌は、「君は取りに来なかったから、車両はすでにハルピンに向っている」と、残念を含んだ語気で説明しました。私は、もっとも簡便な方法として、朝の電話でも取り上げて鄭車掌にあっさり却下をされてしまった方策を、つまり「着払いで送ってくださいと」再度お願いしてみることにしてみました。鄭車掌はそれはできないと、私からの一通りのお願いを聞き終わると、最終結論を言い渡すように「取りに来るか、それとも処分をこちらにお任せするかだ」。鄭車掌にとっては「取りに来る」ことができないということなので、「処分をお任せする」ということの申し渡しでありましょう。数秒間の沈黙、にわかに鄭車掌の不本意な心の裡が広がりました。「分かったよ、君は外国の客人だから、荷物は俺のところで引き取ってやる。次回来るときまで預かってやるよ」。
 
 ということで、次は来年の3月までに来ることを約して、私の手提げ袋はいまだに鄭車掌が保管をしてくれているのです。
 
 いまや、高速鉄道は中国各地に敷かれ、巨大で、高速の変化に、人々の体感はいよいよ適応を迫られつつあります。巨大な施設に伴って、整備されるべきシステムは、人々の気づきの反復に伴って改善されていくでしょう。ただ、今日の体験においては、システムに取って代わることのできない「温かみ」を感じずにはいられません。
 最後まで読んでいただいてありがとうございます。
 
 2013.12.18
 
 
 

 

 


 

 

○あらすじ

 戦後の日中貿易関係の歴史を、1949年の中華人民共和国成立から1953年の第二次民間貿易協定まで、1954年の日本国際貿易協会成立から1958年の第四次日中貿易協定調印まで、1958年から60年までの貿易中断期間、1961年の貿易再開から1972年の日中国交正常化まで、1972年から76年中国における四人組追放まで、そして、1977年から本書が出版される1986年まで、全部で6つの期間に区分し、それぞれの期間における政治情勢、経済交流、社会運動、貿易統計の各方面から、日中貿易の苦難の道のりをまとめた良書。

○感想

 「以民促官」。戦後の日中関係史を語るとき、必ず口にされる枕詞である。そのことの意味をよく理解するためには、本書を紐解くのが最も良い。戦後、日本はサンフランシスコ講和条約体制のもと、中華人民共和国を承認しない方針を取った。このため、政府はパスポートの発給を認めないなど厳しい処置をとっていたが、第一次民間貿易協定はかかる方針を破って締結された。その後、政府は事実上、民間の貿易往来を容認し、もしくは推進する立場を取り、貿易協定は幾次にも更新されることになった。この間、長崎国旗凌辱事件をはじめ日中間の貿易往来は、時の政権によって中断にまで追い込まれた時期もあったが、先覚者の粘り強い努力により、輸出入の総額は1965年に戦前の水準を超え、日中国交正常化の1972年にはその倍額に上っている。本書で、印象的であったのは、当時の経済人が使命感を抱いて果敢に取り組む姿である。LT貿易の立役者である岡崎嘉平太氏の手記には、「プラントは重要な輸出であるということだけでなく、その建設のために我が国の多くの技術者が中国に行き、長時間にわたって中国技術者と同じ職場で共働きをすることは、わが国多年の侵略によって損なわれている対日感情の融和に必ず役立つであろう、という点も私は重きを置いていた」と、記している。対中感情が極度に悪化した現在の日本社会において、日中関係の安定に最大の役割を果たしているのはなおも経済界である。とりわけ中国現地に法人を設立し、何万、何十万の中国人従業員を雇用し、共同の目標に向けて日夜、日本人と切磋琢磨している事実は、何にも代えがたい人的交流の資産である。これが、先人の努力の賜物であるということを、改めて認識させられるだろう。近時は、国際的な投資環境の変化に伴い、第二次産業を中心に中国からの撤退ムードが生じていることは、紛れも無い事実である。現下の状況をどのように食い止めるのか。「以民促官」の知恵から、今こそ学びたい。

○備考

 題名『戦後の日中貿易史』白根滋郎著

 自費出版 1986

 


○あらすじ
 孫文の盟友、革命の恩人、日中親善の功績者、映画界の風雲児、この日本人を形容する言葉はこれに尽きない。梅屋庄吉は、商人の家で育てられ、後に日活の創始者となり、巨万の富を築いた。他方、氏には別の顔がある。孫文の中国革命を物心両面で支えた稀代の人物だ。君は兵を挙げよ、我は財を挙げて支援す。梅屋27歳、孫文29歳の時に交した盟約は、氏の人生を掛けて果たされた。革命のために捧げた資金、武器、軍票、その他を現在の貨幣価値に換算すると、1兆円を下らないという。にもかかわらず一切の見返りを求めず、氏没後一切の口外を許さずとの遺言故に、一度は歴史中に埋没しかけたが、その曾孫に当たる著者が、近時の日中情勢に鑑み、本書を世に捧げた。
○感想
 梅屋氏の大事業は、通常の慈善事業とは比べ物にならない前代未聞の功績であり、歴史を動かすための具体的な行動であった。従って、梅屋氏が革命家であるという著者の評価は正当である。どうして、一民間の人間がこれほど大胆な事業を行うことができたか。それは損得ではなくて友情、世界皆兄弟であるとの哲学が、氏の生き様に表れているからだろう。友情を大切にするからこそ、仲間が集まる。理念に実が伴っているからこそ、心から信じるに値する。氏亡き後、上海に残された家族が日中戦争のさ中にあっても、施政府の庇護下に置かれ守られてきたことも、忘れてはいけない。
○思い出
 この本にはじめて出会ったのは私が25歳の時分、恩師からの紹介でこの本を手にし、梅屋庄吉という人物に魅せられた。当時私はこわいもの知らずの青二才で、梅屋と孫文が交わした盟約に触発され、世に生を得るは事をなすにありだ、あと2年で俺は何を成さんかと漏らしていたのが恥ずかしい。その後上海万博で梅屋庄吉展が開催されると聞き、この本をもって会場へ駆けた。小坂さんと面会を果たして感激し、日比谷松本楼にも赴いた。今回10年ぶりに本書を読み直し、今尚掻き立てられるものがある。
○備考
 題名『革命をプロデュースした日本人』
 講談社 2009年

 

 


○あらすじ
 なぜ、無戸籍になってしまうのか?なぜ、無戸籍者は生まれ続けるのか?なぜ、この状況が解消されないのか?自身の子供が無戸籍となった事をきっかけにして、この問題に長年取り組み続けてきた著者が、実際の事例を踏まえて問題の全体像を炙り出す。
○感想
 無戸籍者の実態は、それまで余り知られてこなかったが、著者の精力的な活動のおかげで社会的に相当認知されるようになった。しかし、具体的にどのような経緯で無戸籍になるかについて、理解できている人はほとんどいないのではないだろうか。社会から無いことにされる実態、それが無戸籍の人たちが自ら救済を求める上で非常に障壁になっているという。また、救済を求めたとしても融通の利かない日本の法律も大きな障壁となっているのだろう。では、民法772条は廃止すべきか。この本を読んでいて、子供の身分の安定を図る同条の存在意義について、筆者がどのように考えているのかが分かりづらかった。本来血縁関係はないが、法律上の嫡出子であるケースは星の数程存在する。家族法の根本問題だけに、今後も民法772条の周辺は火種を抱えている。
○備考
 題名『無戸籍の日本人』井戸まさえ著
 集英社 2016年