


吉田松陰と金子重輔は、この祠に身を隠して嘉永7年(1854年)4月24日の夜、密航を試みました。現在の弁天島は地続きになっています。



弁天島に見られる縞の地層は、数百万年前に海底火山から噴出した火山灰や軽石が波や海流により運ばれた地層です。斜めに交錯する縞模様は、斜交層理と呼ばれ、当時の海流の向きや水深を推定する資料となっています。


昭和17年に三島神社の境内に建立された石像。下田の海を見つめています。


三島神社では、夏祭りの準備の最中でした。












丹那盆地の中央に丹那断層があります。
現在は、国指定天然記念物「丹那断層」公園として保存整備されています。



指定地には、当時の水路の石垣が活断層により、水平に横ズレが生じていることが良く分かります。奥には、断層地下観察室があります。

地表面をよく見ると、水平の食い違いがわかります。活断層のズレは、約2・6メートルありました。

断層地下観察室にある左右の断層面にもズレが生じていることがわかります。

中央の亀裂が断層です。

かつて村の中央を流れ、豊かな水量が水田やワサビ田を潤していた柿沢川ですが、今はその川の流れを見ることはできません。

丹那断層公園から5キロメートルほど山あいを登ったところに火雷神社があります。この鳥居と階段は、北伊豆地震以後につくられたものです。

この写真は、当時のもので、鳥居と階段がズレているのがわかります。

階段上から撮った写真です。地震により鳥居が倒れ、階段がズレているのがわかります。当時のまま残されていることに驚きました。

北伊豆地震の震度です。

地震直後の三島町の様子です。

丹那トンネルに断層のズレが生じていました。「岩肌が鏡のようになめらかになっているのは、粘土質の東西の地塊が断層線を境にして、互いにこすり合いながら動いたからであった。」

「時事新報の主催の丹那研究会の座談会は、12月6日午前11時半から東京会館でもようされた。・・・
今後、工事中に同じ規模の地震が起きたら危険ではないか、という記者の質問に、脇水博士は、地震が起きてエネルギーが消散したので、今後100年から300年は、今回のような地震は起こらないと思う。と言った。」・・・
「北伊豆地震の後、徹底した水の排水と大量のセメント注入により、三島口坑道作業は、最大の難関を越えることができたのである。」
丹那盆地をあとにしました。


新丹那トンネルにカメラを向けた瞬間、東海道新幹線がトンネルに飛び込んでいきました。丹那トンネル工事では、自然の脅威をまざまざと見せつけられることになりましたが、尊い命を失いながら、困難に立ち向かう日本人の不屈の精神を見た気がしました。北伊豆地震から今年で86年目を迎えます。おしまい
海の日を利用して伊豆高原に行ってきました。先週末に読み終えた吉村昭さんの「闇を裂く道」が頭から離れず、帰り道に渋滞を覚悟で、小説の舞台となった丹那トンネルと丹那盆地を巡ることにしました。

まず、小説「闇を裂く道」から、吉村昭さんの「あとがき」を紹介します。「両親は、静岡県出身で、父の菩提寺も静岡県富士市にある。静岡新聞から連載小説の依頼をうけた私は、・・・寺での帰途、普通電車で熱海に向かう途中、右手の沿線に立つ碑が視線をかすめ過ぎた。大正7年に起工し、16年を費やし完工した旧丹那トンネルの殉難者の慰霊碑で、私は、ほとんど瞬間的に、このトンネル工事の経過とそれに附随した事柄を書くことをきめた。」
この写真は、来宮駅から10分ほど歩いた所にある現役の東海道本線の丹那トンネルの入口です。上部にある銅板の数字「2578」は、丹那トンネル工事着工の西暦1918年を日本の皇紀で表したものです。右手には、「2594」(西暦1934年)の銅板があるのですが、蔦が絡み付いていて見えません。歴史が感じられます。

「明治維新が成って、明治5年5月7日、東京の品川、横浜間に敷設されたレールに初めて汽車が走った。」「明治中期までは、熱海へゆく湯治や避寒者は、小田原から歩く者が多かったが、人力車や駕籠に乗ってゆく者もいた。・・・横浜から鉄道は、西にのびて国府津に達したが、そこから沼津までの工事は難航した。箱根越えの路線(御殿場線)で、急勾配が連続し、トンネルも7ヶ所うがたねばならなかった。明治22年2月1日、ようやくその工事を終え、新橋、静岡間が開通した。・・・鉄道院内では、この急勾配の箱根線を通らぬ新しい路線を建設し、東海道線の輸送力を増強させるべきだ、という意見がたかまった。・・・しかし、箱根から天城にかけては山脈がつづいていて、当然、その山脈をつらぬく長いトンネルを建設しなければならない。」
下の写真は、当時、鉄道院が作成した計画図面です。朱色の線が、新たに敷設する東海道本線の路線です。下段は、丹那トンネルの計画図面です。

大正7年にトンネルは、熱海、三島両方面から中心に向かって掘り進むことになり、熱海側は、鉄道工業会社、三島側が鹿島組が選ばれました。7年後の大正14年に完成する予定でしたが、工事現場は、大量の湧水や崩壊事故、断層帯の突破などに阻まれ、工事は16年と大幅に遅れました。
丹那トンネル工事の犠牲者は、67名にものぼり、いかに難工事であったかが伺えます。熱海口には、慰霊碑と丹那神社が建立されています。下の写真は、殉難者の慰霊碑です。

慰霊碑は、丹那トンネル入口の上部にあります。銅板には、亡くなった方の御名前が刻まれています。


通路を挟んで山側に丹那神社があります。

丹那神社の脇に「救命石」が大切に保存されています。

工事中に、落石があり、撤去作業が必要になりました。もし落石がなければ、大きな落盤事故に遭遇していたため、救命石として、祀られています。


丹那トンネル工事にとって最も困難を強いられたのは、湧水でした。「トンネル工事でしぼりとられた水の量は芦ノ湖の貯水量の3倍にも達していた。」湧水の勢いは、天竜川より激しい水勢といわれていました。下の写真は、トンネル工事のためにつくられた水抜き抗です。

トンネルの入り口付近は、川のような様相となっていました。

丹那トンネルは、熱海口から鷹ノ巣山を抜け、丹那盆地の160メートル下を東西に貫いています。
計画当初は、ボーリング調査もなく、地表の状態等で実施決定をしましたが、実は、丹那盆地の中央には、丹那断層が南北を貫いており、丹那トンネルと交錯していました。そして、1930年、湧水のためトンネル工事が中断している最中に北伊豆地震が発生するのです。
新丹那トンネルとは、後に新幹線のためにつくられたトンネルで丹那トンネルと平行してつくられました。

鷹ノ巣山から丹那盆地に向かう途中の車窓から丹那盆地の一帯を撮りました。
トンネル工事前の丹那盆地は、湧水が豊富なことから田んぼとワサビ田が主な産業だったそうです。その後、丹那トンネル工事により、湧水はトンネル内に浸み出し、盆地の川や井戸、湧水は枯渇し、日常生活も困難な状況に追い込まれていきました。

村の産業は、それまでの稲作とわさび田から一変し、畑と酪農を中心とする産業へと変貌を遂げざるを得ませんでした。

丹那盆地の中央にある酪農王国オラッチェ。オラッチェには、小動物とふれあうことができる公園とレストラン、牛舎があります。この連休中は、バーベキューセットと丹那の地ビールが付いて1,600円という特別企画中で、しかもペットokの場所なので美味しくいただくことができました。

オラッチェの隣りには、丹那牛乳の工場があります。丹那牛乳はとても美味しい牛乳なので、是非お土産にと思っていました。が、残念ながら、売れ切れでした。

気を取り直して、丹那盆地を散策することにしました。

次回は、北伊豆地震の発生源の丹那断層など見どころを紹介します。









