伊豆下田は、日米和親条約の締結に伴い、函館とともに日本で最初に開港した港町です。今回は2回に分け、開国の道筋をつけた幕末の下田と開国に向け奮闘した志士の足跡を追いたいと思います。
第一回目は、吉田松陰です。下田には、吉田松陰が異国を見聞しようとペリー艦隊へ乗船し、密航を試みた場所であり、関連する史跡が点在しています。
この写真は、姉崎弁天島の横にある公園に建てられている吉田松陰と金子重輔の銅像です。
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当時、下田港には、黒船が寄港していました。吉田松陰と金子重輔は、姉崎弁天島から小舟で黒船に向かうことを決意します。
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吉田松陰と金子重輔は、この祠に身を隠して嘉永7年(1854年)4月24日の夜、密航を試みました。現在の弁天島は地続きになっています。

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弁天島に見られる縞の地層は、数百万年前に海底火山から噴出した火山灰や軽石が波や海流により運ばれた地層です。斜めに交錯する縞模様は、斜交層理と呼ばれ、当時の海流の向きや水深を推定する資料となっています。

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昭和17年に三島神社の境内に建立された石像。下田の海を見つめています。

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三島神社では、夏祭りの準備の最中でした。

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松陰は、アメリカ人に渡米嘆願の交渉に成功していましたが、夜になっても迎えのボートが来ないことから、弁天島から小舟で黒船に向かいます。
停泊していたミシシッピー号に辿りついた松陰は、通訳のウィリアムズに日本の法を破ってまで連れてはいけないと送り返されてしまいます。
アメリカへの渡航に失敗した後に、下田奉行所(廃寺の長命寺跡)へと自首した松陰らは拘禁されてしまいます。