前記事で、助けてが言えない、ってことを書きましたが、
助けを求められないって、タロットで言ったらペンタクル5だと思います。
教会がすぐそばにあるのに、それに気づかず、とても大変そうな2人が描かれています。
教会に入れば、温まることもできるし、食事にもありつけるかもしれないのに、
それをすることすら、思いつかないのか?とにかく、助けを求めようとしていません。
私、けっこうこのカードよく出るんです~~~
なるべく、出て欲しくない貧乏カード
でも、私って、こうやって生きているんだなぁ~~~って思いましたΣ(・ω・;|||
ケガしてるのに・・・寒いのに・・・それでも前に歩いてる・・・。
ちょっと立ち止まって、よく周りを見たら、教会があるのに気づくのに・・・。
気づいたとしても、私なんか教会になんて入る資格はない、自分の頑張りが足りないからこうなるんだから、
頼ってちゃいけない、って思って入ろうとしないかもしれない
なんか、そんな気がしてきました・・・
私は、吃音者としてではなく、非吃音者として生きないとダメ、って思ってきた気がします。
吃音というのがとても厄介で、出る時と出ない時がある、っていう不規則なものであるということ、
時々吃音者、そうでないときは非吃音者となんら変わりがない、っていうわかりにくいものだから、
自分は一体なんなのか?
どっちなのか?
どっちの心構えで生きたらいいのか?
その辺が自分でよくわかってないんだと思います。
ものすごく悩んでいた頃、小学生の時に、障害者がうらやましい、と思ったことがありました。
話せない障害者がうらやましい、って。
聴覚障害の方は、耳が聞こえないので、話す事もできない人が多いと思います。
耳が聞こえていても、言葉が話せない障害の方もいると思います。
そういう人がすごくうらやましかったです。
もしかして、言葉が全く話せない人からしたら、私は話せるじゃないか、と言われるかもしれないし、
なんてバチ当たりな、って言われるかもしれないって思ったので、
誰にも言えませんでしたが、私も生まれた時から言葉が話せない人として生まれてきたらよかった、
そしたらこんなにも悩むことはなかったのに、って真剣に思いました。
言葉が話せない人の苦労など全く知らずにそう思ってしまうところがありました(>_<)
なぜなら、言葉が話せないなら、手話があるじゃないか、って思っていたからです。
手話だったら、言いたいことが思い存分言えるのに、って。
私も手話でいいから、言いたいことを思うように言いたい。しゃべりたい。
でも私は、話せる口があるから、障害者じゃないから、手話は使えない。
障害者が手話を使うのは許されるけど、私が使うことは許されない。
障害者の人は、同情もされるかもしれないし(同情がいいのかどうかは別として)
手話を使う事を否定されないのに、私がどもったり、言葉に詰まると笑われてバカにされて、
変な人だと思われたり、心が弱いからだ、って責められる。
こんな思いをするなら、障害者になりたかった(T_T)って、本当に思いました。
手話が使える、言葉ではない別の言語を獲得している障害者がものすごくうらやましかったです。
だって、吃音者は、口で話すという言語しか獲得していないのに、言葉が話せない人と
全く同じような状況になるときがあるからです。
その時に、口の代わりになるものを何も獲得できていない。
筆談っていう手もあるかもしれませんが、国語の本読みで筆談なんてあり得ません。
筆談する人は、最初から本読みなんて免除されているはずです。
それがものすごくうらやましかったです(>_<)
高校生の時、授業で当てられるのがものすごく辛かったので、
英語の先生に、吃音のことを話し(手紙で書いたような覚えがあります)、
授業で当てないでもらえないでしょうか、とお願いしたことがありました。
女の先生でしたが、とても心配そうな顔をして、承諾してくれたのを覚えています。
それから、英語の授業では当てられなくなったものの、
自分だけ他の子と違うんだ、っていうのがものすごく劣等感だったし、
もしかして逃げてしまったのか?
他の子だって、当てられるの嫌かもしれないのに、私だけズルイことしたんじゃないか?
って思って、自分を責めました(>_<)
結局、免除してもらっても、何も安心できず、ますます自己嫌悪に陥りました。
どっちにしても、自分を認めることができませんでした(>_<)
どもったらどもったでダメなやつ、免除してもらったらもらったで、逃げたズルイやつ。
どっちにしても、自分にダメ出し(T_T)
心が救われることがありませんでした( p_q)
憧れだった手話、社会人になってから習う機会に恵まれ、習っていました。
手話って、実は、話言葉と一緒ではないのです。
健常者に合わせて、話言葉に添った手話を教えてくれたりもしますが、
手話はもう、別文化です。
文法も違うんです。
だから、聴覚障害者の人は筆談ができるとは限らないのです。
健常者の言葉は別で覚えないといけない感じだったと思います。
どのくらい習っていたのか忘れましたが、その頃には視線恐怖の方が強くなってきた時期でもあり、
アイコンタクトが重要になってくる手話を続けられなくなりました(>_<)
今では手話をほとんど忘れてしまいましたが、本当に手話にあこがれて、
手話でもなんでもいいから、言いたい事を思いっきり自分の思うように話したい、っていう願望が
あったなぁ・・・と思い出しました。
話言葉に代わる、他の使える言語を獲得したかったんです。
それを堂々と使えたらどれだけいいだろう、と思っていました。
吃音者は、コミュニケーションする他の手段を獲得できてない、ってところが問題だと思います。
明らかに、障害と言える症状なのに(言葉が出ない)、話言葉しかないんです。
電話で話していて、突然言葉が出なくなったら・・・・一体どうやって言いたいことを伝えたらいいんでしょう?
障害だったら、最初から電話をする、という選択肢はないのに、
吃音者にはあるんです。
その選択で、なんとか頑張るしかない、っていうところが苦脳になってしまう気がします。
障害だと認定してくれた方がいいんじゃないか?と思ってしまうところがあります。
でも、自ら障害なんだ、と言えるのかどうか。
障害と受け入れることができるのかどうかは、また別の問題になってくると思います。
でも私は、障害者として、生きていく道を歩んでみたい。
なかなか理解もされないと思うけど、私は一体何者なんだ?ってところが自分でわかっていないし、
いろんな折り合いがまだついてないんです(>_<)
どう生きたらいいのかがわからない。
援助されること、援助してもらうこと、助けてもらうこともOKなんだ、という立場で生きてみたい。
してもらうことに劣等感を感じるのではなくて、感謝したい。
まだ全然心の整理ができていないけど、吃音は障害なんだ、と思って
生きてみたいなぁ、と思ったりしています(*゚ー゚)ゞ