助けて、と言えない | スピリチュアルに生きる!

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吃音・社会(社交)不安障害、脇見恐怖症など心の病で長年悩んできました。
問題だと思っていた事は問題ではなかったと気づき、今、自分の生きたい人生を創っています♪(*^^*)
夢の中で遊びます♪だってここは夢の中なんだから♪(*^^*)

吃音症のことを書いていたら、いろ~~~んなことを思い出し、


泣けてきました。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。


私、辛かったんやなぁ~~~と思いました。


確かに辛かったんです(T_T)


死んでしまいたくなるぐらい、辛かった(T_T)


だけど、



『辛いよ~~』 『死にたいぐらい辛いよ~』 『誰か助けて!』




ってことが、言えなかった・・・( p_q)


言ったらダメだ、と思っていました。





誰もわかってくれなかったし、言葉が全くでないわけでもない。


緊張してるからだ、って言われたらそれまでだし、


リラックスできない自分がダメなんだ、と思っていました。


大したことじゃないのに、こんなことを気にしている自分がダメなんだと思っていました。





それに、実際、病院等に助けを求めたとしても、


私の小さかった頃(小学生とか)は、吃音に対する治療法もありませんでした。


今でも治療法、というのがあるわけじゃないです。


確立されたものはないかもしれないけど、今は言語聴覚士がいたり、


吃音を専門とする病院のようなものもあるらしいです。





だけど、私の育った時代は、たくさんの人がだまされてきました。


催眠療法、腹圧ベルト、などなど、高額なお金を出して治療をしてみても、


大して効果がないことが多かった。(私はどれもやったことはないんですが)


期待して、これで治るならと思ってつぎ込んだのに、


毎回期待を裏切られて、落胆して・・・・希望を失って・・・ガーン汗


だからかもしれませんが、『吃音が治る』 なんていう言葉に、ものすごく敏感になっています。



まず、疑う。



まただまされるんちゃうか??


あやしい・・・・。


って吃音者は思っているんじゃないかな?って思います。




私は、今自分がいろいろやっていることは、吃音を治すためにやっているわけではないです。


吃音も脇見恐怖症も治って欲しい、って思う気持ちはものすごくありますが、


そういう表面に出て来ている症状をなんとかするんじゃなくて、


根っこをなんとかしたいと思っています。


幸せを感じたい。


吃音があっても、脇見恐怖症があっても、私は幸せだビックリマークと実感したいんです。


こんな自分でもいいんだ、と思いたい。




なんか、言いたいことがズレてきてるんですがあせる


私はずっと誰かを頼る、甘える、助けを求める、ってことができてなかったと思います。


そういうことをしてはいけない、と思ってきました。


甘えちゃいけない。


自分でできることは自分でする。


迷惑かけちゃいけない。


けっこう、これって親から言われてきてる言葉だと思います。




私は、吃音症で困る場面が本当にたくさんあります。ありました。


でも、助けて、って言えませんでした(>_<)


これ、言いにくいから代わりに言ってくれないかな?とか、


電話するの苦手だから、お願いできない?とか、


言ってもよかったんじゃないか?って思うんです。


だって、本当に、困っていたし、本当に声が出なくなって、伝えなきゃいけない場面で


伝わらないってことになってしまうからです。






でも、人に頼んでもいいのかどうか、助けてなんて言っていいのかどうか、


ものすごく迷うんです。


だって、『言いにくいから代わりに言ってくれない?』 っていう言葉は言えるのに、しゃべれるのに、


どうして代わりに言わなきゃいけないのか、相手が不思議に思うだろうな、って思ってしまうからです。


実際、相手にそう頼んだこともないんですが、おそらく、


『なんで?今話せてるやん。』


って言われるだろうな、って思うんです。


相手にとったら、嫌な事を押しつけてるだけなんじゃないか、とか、


面倒なことを押しつけてくる、って思うんじゃないだろうか?って思って、言えないんです。




そういえば、私の小さい頃、家族は誰もが私の吃音のことを知っていたと思うけど、


誰も私の代わりに電話をしてくれたりっていうのがなかったです。


みんな電話とかするのが嫌だったから、私だけ特別しないわけにはいきませんでした。


私だけ電話しなくていい、なんてそんなんズルイやんプンプンパンチ!って感じだったと思います。


そこに親は入ってませんけどね。


親はどうしていたんだろう??


兄も姉も、内向的な性格だったから、電話とかそういうのはあまりしたくなかったんだと思います。


もし、積極的な外向的な性格の兄姉が1人でもいたら、


喜んで代わりにやってくれた可能性もあったかもしれませんが、


そうではありませんでした。





それに、おそらく、私のためにならない、っていうのもあったかもしれません。


逃げてばっかりいたら、ダメだ、余計に治らなくなる、っていう思いもあったかもしれません。


だから、私は、非吃音者と同じように、なんでもするしかなかったんです。


吃音者なのに、非吃音者として生きることを強いられたような感じだったんだと思います。


今でもそれが身に沁みついていて、人に頼ることはダメなことなんだ、って思ってしまう自分がいます。





でも、本当にそうなのか??





吃音は、見えない障害だと思います。


私の息子の発達障害も、見てわからないだけに、理解してもらうのがとても難しいです。


吃音と、それとは、全く一緒のような気がしてきました。


人は、見えないとわからないし、わかってくれないんです(>_<)


理解してもらうのがものすごく難しいことなんだ、というのを、


息子を通して、私は実感しているんですが、


おそらく吃音にもそれと同じことが起こっている気がします。


全く同じじゃないですが・・・。





つづきます。。。